正座して歌った琵琶湖周航の歌
11日正午からの番組「桜の小径でララバイ」の1曲目に、加藤登紀子の「琵琶湖周航の歌」が流れた。近畿地区をテーマにして選曲したもので、滋賀県の歌として取り上げられたものだ。
作られたのが大正6年であり、作詞、作曲した京大生(漕艇部)の秘話を紹介しながら番組は進行していた。
好きな曲であるが、椅子の上で背筋を伸ばし、威儀を正して聴き入った。加藤登紀子のレコードがヒットしたのは昭和46年のことだそうだが、この歌を知り、初めて歌ったのは3年ほど遡る昭和43年のことである。もちろん、カラオケではなくアカペラであり、正座して歌ったのである。
もぐりのような学生生活を送ったこともあり、大学の話はしたくないのであるが、卒業(実質的には追い出された)したのは金沢大学である。部活のコンパの席で、先輩から教えられたのが「琵琶湖周航の歌」であり、正座をさせられたのである。
その理由は、金沢大学の前身である第四高等学校にある。昭和16年4月6日、合宿練習をしていた同校漕艇班の8人が、京大生3人とともに、琵琶湖の今津を出た後に突風を受け、11人全員が死亡したのである。
四高の応援歌に「南下軍」があるが、四高と三高の対抗戦に際しての応援歌であり、高校生時代からよく知っていた。学都とも言われた金沢の地域文化でもあるのだろうか。三高(京大)との浅からぬ因縁を感じてしまう。
漕艇班の遭難の後、「四高漕艇班遭難追悼歌」が作られたそうだが残念ながら、この曲は知らない。
いつしか、「琵琶湖周航の歌」に置き換わり、正座とともに先輩から後輩へと伝わっていたものである。つまり、京大生の歌ではなく、先輩たちの青春の追悼歌であり、思い入れの深い1曲となったのである。
それが、加藤登紀子の歌が大ヒットして以来、四高の色は薄れ、全国区となったのである。加藤登紀子を恨むのではないが、少し残念な気持ちもする。歌は時代とともに変わっていくもの、を実感させられたものだった。
そういえば、遭難の1年後、湖岸には1千本のソメイヨシノが植えられ、「四高桜」と呼ばれていたが、現在は17本が残るだけという。歴史は消えていくのが運命なのかもしれない。無常である。














