郷クボタ遺跡の大型建物群の意味
FM-N1の資料棚に1枚の遺跡発掘の見とり図が保管されている。野々市町の郷クボタ遺跡(同町の郷町、徳用町)のもので、国指定史跡・末松廃寺の取材の途中で手にしたものである。
平安期の大型掘立柱建物群の調査資料であり、建物の長軸がほぼ南北方向にそろっていることから、役所に類する公的建物とみられていた。
入手に際しての信義問題もあり、他のメディアが報道するのを心待ちしていた。結果として地方紙のHK新聞が、3月7日付の紙面に掲載した。毎年1回、石川県教委が開く「いしかわを掘る」という報告会で発表されたものである。昨年の同報告会の後、能美市にある北陸最大の前方後円墳である秋常山古墳を見学したことが遠い昔のように感じられる思いである。
この郷クボタ遺跡の北西約1キロの地点には「東大寺領横江荘荘家跡」と、それに隣接する郡庁跡と思われる「横江荘遺跡」(いずれも白山市)があり、関連性について注目を集めている、という。
実は、この郡庁跡の報道を巡って、1年も経たない程前だが、HK新聞と、対抗紙であるHC新聞が報道合戦を繰り広げ、HC新聞に軍配が上がったことがあった。これも遠い昔の出来事のように思われるが、当時のHC新聞の担当記者が転勤となってしまったため、今回はHK新聞が名を上げたようである。
遺跡発掘を巡る両紙の争いに巻き込まれることを敬遠した文化財発掘の関係者が、郷クボタ遺跡の発表を遅らせた様子もあり、FM-N1も信義を守ったのであった。
それはさて置き、郷クボタ遺跡が注目されてよいのは、距離的に近い横江荘遺跡ではなく、遠く離れた末松廃寺との関係においてではないかと思っている。
白鳳寺院の末松廃寺と平安初期の郷クボタ遺跡(9世紀中ごろ)の関係を見ることで、天智朝から本格的に開始された手取扇状地の開発が、平安初期にいたるまでの開発経過を面的に捉えることが可能かもしれない、と思われるからである。
横江荘荘家遺跡は、桓武天皇に関係した遺跡であり、曾祖父が天智天皇であることも関係している。
郷クボタ遺跡の大型掘立柱建物群の完成は、加賀立国の弘仁14年(823年)のあとであり、桓武天皇は延暦25年(806年)に薨去している。横江荘が東大寺に寄進されたのは弘仁8年(817年)のことである。
手取扇状地の開発には天智系の影が色濃いのである。そして、桓武天皇とは、平安京遷都の前に長岡京(京都市)遷都を行っており、長岡京の発掘調査によって、歴代天皇の中でも再評価され、いま最も熱く注目を集めている天皇と思われるからである。
俄か歴史学者のムシがうずうずとしてきた。
末松廃寺の兄弟寺は必ず見つかる
11月15日、野々市町で開かれた「ふるさと歴史シンポジウム いまよみがえる末松廃寺」は、俄か歴史学徒として古里の昔を探ってきた身にとって、大変面白い内容であった。これまでの謎が解けた問題、将来に託された課題、そして謎のまま積み残されたテーマなどが、講演した先生方から提示された。
とりわけ、ここまで全国の発掘調査が進みながら全く手掛かりが得られていないものが、同廃寺本堂の軒丸瓦に施された単弁六葉蓮華紋の意匠である。他に発掘例がない、という珍しい瓦なのである。
以前、FM-N1の特番で、考古学の大先達である坪井清足さんにインタビューしたおり、「もっと発掘が進めばいつか、どこかから末松と同じ軒丸瓦が出てきますよ」と答えられているのを思い出しました。
今回のシンポジウムでも残念ながら、謎は謎のままに残りました。
しかし、講師の一人である立命館大教授で考古技術史が専門の木立雅朗さんが「末松廃寺の兄弟寺は必ずあります。能美市と小松市の間で見つかります」と予言的に話されたのには驚かされました。この兄弟寺が発掘されれば、単弁六葉蓮華紋の軒丸瓦がある可能性は高くなるという意味でしょう。
そして、故郷である石川平野の歴史解明が飛躍的に前進するのでしょう。予言された地域では新しい山寺が発見されるなど、楽しみはもうすぐのような気もしてくる。俄か歴史学徒の想像をはるかに超えるシンポジウムであった。
ことしの3月、石川県内の前方後円墳では最大規模の秋常山古墳(能美市)を見学する機会があった。後円部の頂から眺めた手取川左岸の扇状地の風景は、財部造が開発した古代の様子を惹起させるのに十分だった。
あの一角に、末松廃寺の兄弟寺が眠っているのかと思うと、もう一度訪れてみたいと思うようになった。
これまで、末松廃寺の歴史というピンポインだけの歴史観だけであったが、時の流れという要素が加わり、なおかつ野々市町だけの視点から石川平野全体に対する興味が湧いてきた。そういえば、白山市が、同市横江町で発掘された古代・石川郡庁跡の調査を続けるという話も聞いた。
古代文化の名残は現代社会にも直接的に、大きな影響を与えているという。石川県をはじめとした北陸の地、古代・越国の実像も近く解明されることを期待したい。
桜井茶臼山古墳と末松廃寺の関係
奈良県桜井市にある桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀前半)の発掘調査が、橿原考古学研究所の手で実施され、22日に成果の一部が公表された。
茶臼山古墳とは、奈良盆地の東南部に位置し、大和初期政権の発祥の地とされる纏向遺跡や箸墓の南側にあたる。箸墓築造の後の巨大前方後円墳である。近くのメスリ山古墳などと共に鳥見山古墳群を形成し、古代吉備の作山古墳、造山古墳などとの関連性も深いとされている。
公表資料によると、石室は自然石をれんが状に加工した板石1千枚で組まれ、天井は12枚の巨石で葺かれていた。当時としては貴重品であった水銀朱がくまなく彩られていた。石室の上部にあたる後円部の頂上には巨大な丸太で囲まれた区域も確認された。祭祀を行う神聖な施設であった可能性が出ている。
強大な力を誇示するような古墳であるため大王クラスの古墳とみられている。
古里・石川から遠く離れた地の出来事のように思われがちなのだが実は、古代の加賀(越国加賀郡)を知る上で、因縁の深い土地なのである。
古代・加賀の大豪族である道君は、大和の大豪族であった安倍臣と同族であったと称している。この安倍氏の本拠地が桜井市である。茶臼山古墳には天皇陵であるとの伝承がないため、安部氏の祖先である大彦命の古墳であるとする説もあるのである。
大彦命は四道将軍の一人として北陸道を任され、大和政権の支配地を拡大したとされる。この流れから道君が安倍臣と同族と称する動機なのであろう。 つまり道君とは、初期大和政権のころから、政権の一員として重要な地位を占めて、越国の中でも強大な力を備えていたのではないだろうか。
野々市町の末松廃寺創建当時も、大豪族の地位を保っていたのである。
末松廃寺は、天智天皇の屯倉として開発されたとされるが、安倍臣との関係を通して道君も近い関係にあったと思われる。
安倍臣は初期大和政権時代からの大豪族であり、天智天皇がまだ中大兄皇子であった645年、蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変、大化の改新の後の左大臣を務めて豪族の最高位にあった。朝廷を中心となって支えた豪族だったのである。
これらの関係から、道君伊羅都売が天智天皇の後宮に入り、志貴皇子をもうけたのであり、同皇子の養育は安倍臣の拠点であった磯城郡で行われたため「しきのみこ」と呼ばれるようになったのだと思っている。磯城郡とはまぎれもなく鳥見山古墳群のある地なのである。
ちなみに、天智天皇の後を継いだ弘文天皇(大友皇子)は壬申の乱で天武天皇に破れはしたものの、安倍臣と同族と称する伊賀君の娘が産んだ皇子なのである。天智朝とは安倍臣の色が濃い政権であったと言えるだろう。
このように考えると、古代の統一政権の誕生、つまり日本国の誕生過程における古里・石川の役割、末松廃寺の位置づけもはっきりと見えてくるのではないだろうか。
道君の正体にますます興味津々
FM-N1が野々市町の歴史資産「末松廃寺」の取材を始めてから4年が経過した。5月には、文化庁の調査報告書が刊行され、11月15日(日)には、同町情報交流館カメリアで、「いまよみがえる末松廃寺」と題したシンポジウムが開催される。北陸では最古の仏教寺院である末松の大寺の正体も一般に公開され、地元・末松の長年の夢が実ることになっている。
ただ、調査報告書を素人ながらに読むと、これで終わることなく、ますます古代北陸の成り立ち、姿に興味を引かれることになった。
古代の「越の国」というのは現在の福井県嶺北地方から新潟県の信濃川、阿賀野川の河口付近までとされている。
同地域は、律令による統一王権が大和に誕生するまでは、縄文時代の日本海巨木文化圏に位置し、次第に稲作文化の勢力圏へとダイナミックに変貌していくわけだが、その移行期の最終段階に末松廃寺が建立されているのである。
そして、道君というのは、想像を超すような古代北陸では最大の豪族だったのではないか、と思い始めている。
「越の国」は以後、越前(加賀、能登を含む)、越中、越後と三つの国に分かれ、越前の三国からは第26代天皇が出現している。このことが、地理的には大和から遠隔地となる加賀、能登、越中、越後は越前より後進的と思われる結果を生んでいるのではなかろうか。
しかし、古代の統一王権が成立する以前は、縄文の色を濃く残し、北前(日本海)を挟んで大陸と対峙する位置関係から、歴史家の門脇禎二さんが言うような地域王国が存在し、道君が大豪族に成長していったのではなかろうか。 大和を中心にした日本の古代史的には、道君が文献に最初に表われる欽明32年(570年)からしか考察されない傾向があるため、まだまだ実像が分からないのであろう。
古代北陸を考える上でのヒントは、皇室の側近であった安倍氏なのだろうが、中央古代豪族の中にあって、蘇我氏を中心とした諸豪族の陰に隠れて、高い評価と関心を集められないことが、北陸の地を歴史の片隅に追いやっているのである。
今回の末松廃寺の文化庁報告書、シンポジウムは文献ではなく、考古学的手法による成果である。これを機会に、ふるさと北陸の歴史が更に解明されることを楽しみにしている。どれだけの時間がかかるか分からないが・・・
道君と財部造が統一国家の謎を教えてくれた
野々市町末松にある国指定遺跡「末松廃寺」の調査報告書が刊行された。まだ、地元の野々市町にも届いていないらしく、残念ながら読む機会は先送りになっている。
この中で、史実として確立した重要な事柄が2点あるという。
一つは、これまでFM-N1の末松廃寺特番やのっティ新聞で紹介してきたように、同寺の創建年代が660年ごろ、と確定したことである。以前は、和同開珎の銀銭発見などにより8世紀に入ってからの建設とみられていたのである。寺の性格や、古代史との比較の中での位置付けが出来なかった。
しかし、年代が鮮明になったことで、日本史の中における意味合いが決定付けられた。
660年といえば、645年の大化改新からまもなくである。中大兄皇子(天智天皇)が摂政となっていた斎明天皇の時代である。教科書の中には現れてこない地方における白鳳寺院であり、その実態が解明されたのである。もちろん、謎に包まれた部分は依然として多いのも事実である。
そしてもう一点は、道君建立説が覆され、天智朝の国家的大事業として手取扇状地(石川平野)の開墾が推し進められた事実である。それは、同寺建立に当時、手取川左岸(現能美市)に勢力を張っていた豪族財部造(たからべのみやつこ)の関与が認められるからである。
戸室石(金沢・医王山)とみられていた塔心礎は白山の安山岩であり、手取川の転石だった。当時の手取川は現在より野々市寄りを流れており、扇状地の三分の一は財部造の土地だった。また、出土した金堂の瓦も旧辰口町の湯屋窯で焼かれたことが判明しており、やはり財部造の勢力下だった。
地方の有力豪族が連合する形で建設に当たるには、中央政権の指導なくしては実現しないからである。もちろん、塔など伽藍建設の技術も中央政権が持っていたものである。
つまり、扇状地の開墾地は、天智朝の屯倉(みやけ)になったということである。地方における扇状地の開発は手取川だけではなく全国各地にあったことも想像に難くない。が、石川平野で収穫された富が、飛鳥盆地で繰り広げられていた大規模工事を支える財源になっていったことは間違いないだろう。
扇状地の開発は乾田となり、従来の稲作と較べると単位面積当たりの収量は飛躍的に伸びたはずである。古代日本の、統一国家が成立していく過程で、建国の穀倉地であったのである。
末松廃寺といえば野々市町、道君や財部造といえば石川県の豪族であった、というふうに思考回路は働いていくが、これは歴史を学ぶ上で間違いであり、邪魔物であろう。単に発掘の費用がどの自治体の負担になるかを言っているだけなのである。
歴史はどこかの自治体の所有物ではない。その自治体の固有の歴史でもない。現在の自治体の枠を超えた「地域全体」の財産なのである。しかし、当該自治体の熱意と尽力がなければ、謎も解き明かされないのは事実でもある。
そういった意味でも、末松廃寺の調査報告書は、末松の住民の皆さんと野々市町の熱意が掘り起こした歴史の真実であった、と言えるのではないでしょうか。
鏡と瓦に共通する「六」のデザイン
先日、能美教育委員会の秋常山・西山古墳群の現地説明会に出かけた。一つは、野々市町の末松廃寺創建に関わったとされる財部造(たからべのみやつこ)の正体に一歩でも近づきたい、という思いと、もう一つは「六鈴鏡」とは何か、を知りたかったからである。
「六鈴鏡」とは、秋常山と同様に能美古墳群のひとつである和田山1号墳から出土した鏡である。鏡の周囲に6個の鈴がついている独特の形をしたものである。
現地での説明では、鈴製品は関東地方に出土例が多いらしく、石川県内では和田山1号墳の1面しか出土例がない珍しいものである。
何故、六鈴鏡に興味が湧いたのか、というと、財部造以外にも末松廃寺との関連性があるような気がしたからである。
単弁六葉蓮華紋軒丸瓦
手取川左岸のもう一人の豪族
FM-N1では、これまで末松廃寺(野々市町末松、国指定遺跡)の建立の謎を追いかけてきた。
現時点の答えは、天智王朝が手取川右岸の扇状地を開拓して屯倉とするため、人心掌握を図る文化的象徴であった。同王朝によって近畿地方から送り込まれた秦氏らの渡来系の人たちが指導者となり、廃寺の建設、扇状地の開拓に当たったほか、手取川左岸を本貫地としていた財部氏が協力させられた、というものである。
もちろん、末松廃寺の謎が全て解けているわけではない。しかし、廃寺金堂の瓦を作ったとされる財部氏の謎の解明なくして、古代の加賀(越前国江沼郡、同加賀郡)の興隆衰退を知ることは不可能と思っていた。
そんな折り、3月7日に、能美市教育委員会の主催による「秋常山古墳群」と「西山古墳群」の現地説明会があり、仕事を抜け出して出かけた。
両古墳群は、「和田山古墳群」「末寺山古墳群」「寺井山遺跡」の古墳群と一体となって能美古墳群を形成している。平野部に近接する丘陵地に古墳が営まれている。弥生時代末期から古墳時代後期までの約400年間に渡り、方形周溝墓、方墳、前方後方墳、前方後円墳、円墳など様々な54基をかぞえるという。
現地で、同市教委の職員に質問したところ、これらは一つの氏族によって営まれた可能性が高い、という。
答えは予想していたが、実際に現地を歩き、秋常山1号墳の墳頂から望んだ扇状地は雄大な規模であった。
末松廃寺の塔は三重塔
これまで、2月26日に開催された野々市町民大学校の講義「末松廃寺の謎を追う」で挙げられた9つの謎について、素人の推理を繰り返してきたが、残る2つの謎についても考えてみたい。
「明確に塔に伴う瓦は確認されていない」点である。この謎は、講堂跡が見つからないこととセットになって、末松の大寺が完成したのか、それとも未完成の大寺であったのかが、関心の的となっていた。
この謎の出発点は、昭和41、42年の文化庁の調査で、塔基壇のスケールの大きさから推定し、七重塔と信じられていたからである。古里自慢としては、大きいほうが勢いがあってよい。
もし七重塔だとしたら構造上、瓦の重さで建物を押さえないと倒壊してしまう。金堂の周囲からは大量の瓦が出土しているのに、塔の周囲にはない。塔は完成しなかった。つまり、大寺も未完である、というのである。
しかし、大寺は手取扇状地の開墾のため、人心掌握のシンボルとして計画されたものであり、開墾が成功しているのであるから、大寺も完成していたとみる方が妥当であろう。
文化庁の調査後、考古学の研究が積み重ねられ、塔の高さは、塔心礎に穿たれた柱穴の直径の約40倍であることが分かってきた。計算すると、末松の塔は高さ約22~23メートルとなって三重塔であることが判明した。
これであれば、瓦が屋根に乗らなくても倒れることは免れる可能性がある。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で十分であれば、瓦は出土しなくとも当然であろう。
ちなみに、末松廃寺は東に塔、西に金堂がある法起寺式の伽藍配置であるが偶然にも、法起寺の塔は柱間の広さなどは同規模で、やはり三重塔(国宝)である。ただし、瓦葺ではある。
最後の謎は「寺の名称は朱仏寺?」というものである。
これは、町民大学校の講義でも説明があった通り、大寺の通称であろう。正式な名称は今後、どこかで文字資料が発見されない限り、判明しないだろう。最大の謎として残される可能性が高いと言える。
末松廃寺は混成チームで建立
末松廃寺の謎のうち「建立した人物は?」の答えを天智天皇とした前回ブログに続いて、残る謎も考えてみた。
「大量に出土した瓦は旧辰口町の湯屋古窯跡で焼かれたもの」と「出土した土器は能美・小松丘陵で生産されたものが多い」についてである。
同廃寺の建立は天智天皇(大和地方の王権)としてきた。しかし、大寺建設の最新技術、とりわけ塔に関する技術は、大和地方でも「今来(いまき)」と呼ばれる新しい渡来人が日本に持ち込んだものである。新しい渡来人を束ねていたのが蘇我氏を代表的とする豪族である。葛城氏などの古い豪族は、古い渡来人とみることができる。
建立時期とみられる660年ごろは、大和地方でも大規模な土木・建設事業が盛んな時代である。いかに、地方における王権の屯倉(みやけ)開墾という、今後の中央集権化につながる画期的な事業といえども、十分に渡来人を確保することは困難であったように思う。
したがって、建築物に関する技術を有する渡来人は大和地方から派遣し、瓦や土器については大部分を現地調達したのではないだろうか。
手取扇状地の周辺で、焼き物の技術を持っていたのは江沼臣(えぬのおみ)や財部造(たからべのみやつこ)であり、両氏の勢力範囲が能美・小松であることを思えば、上記に挙げた二つの謎は解けるのではないだろうか。
道君は現場監督の立場を務めていた。
複数の地方豪族を一つの目的のために束ねることが可能なのは、優位性を保つ大和の王権以外ではありえない。“国家的事業”のために協調させられたのだろう。
金堂瓦の製造技術者が能美・小松の工人たちであったため、軒丸瓦の文様は、全国でも例をみない「単弁六葉蓮華紋」になったのであろう。
末松の大寺が完成した後、扇状地開墾は道君に任されたため、瓦・土器の工人は本来の勢力圏内に戻り、加賀市弓波町で、忌波廃寺の建立に与したのであろう。開墾者たちの生活のため土器類は供給され続けたのであろう。
ここで、9つの謎とは別に、大問題が出てくるのである。何故、開墾の現場監督が江沼臣や財部造ではなく道君であったのか、という問題である。江沼臣が選ばれていれば、江沼臣の娘が天智天皇の後宮入りを果していたかもしれない。
その推理については答えを持っているが、後日の機会に譲りたい。
ともかく、末松廃寺の完成後は、必然的に道君が残り、地方の大豪族に変貌していくのである。
屯倉完成後は、瓦の工人たちも去り、道君は氏寺となった広坂廃寺に移り、末松の大寺は廃れてしまうのである。
そして、巨石がゴロゴロとしていた手取扇状地の川原を乾田に開墾した治水技術と鉄器の製造技術を持った人たちが残ったのである。その人たちは、大和王権の支配地域から移住してきた渡来人たちである。名前を秦(はた)氏という。
秦氏は、廃れた大寺があった末松の地を離れ、野々市町上林に拠点を構えたのであろう。大和地方での集落のあった地名を取り「拝師(はいし)郷」としたもので、上林、中林、下林として今に名前を残すことになったのである。
指導的立場にあった秦氏は、村の長となり、整然とした集落を形成していくのである。これが、もう一つの謎とされる「周辺遺跡の動向-末松遺跡群・上林新庄遺跡群から推定される渡来民族の存在」の答えではないでしょうか。
末松廃寺は短期間で目的を達成した
末松廃寺の9つの謎のうち「講堂跡がない」ことを、先のブログで推理してみた。同廃寺の目的が、大和地方の王権(天智朝、摂政時代も含め)が、天皇家の屯倉(みやけ)などを開墾するに当たり、人心掌握を図るために文化・技術の優越性を誇示したもので、宗教的側面は薄く、最小限の伽藍構成になったのではないか、というものだった。
それでは、他の謎はどうだろうか。「当初の伽藍はわずか50年たらずで倒壊した」である。
通常ならば、当時の最新技術を集約した建造物であるなら、その維持についても最善の力を尽くすはずである。しかし、ここでもう一度、年表を振り返ってみよう。
同廃寺が創建されたのが660年ごろで、企図した天智天皇が即位したのが668年だった。672年には壬申の乱が起こり、天武天皇の時代に移り変わっていく。そして694年には、持統天皇の手で藤原京遷都が行われた。
このころには、扇状地開墾が軌道に乗っていたのではなかろうか。つまり、末松廃寺の所期の目的は達成される一方、天智朝の崩壊によって、寺の維持は放棄され、自然倒壊に至ったのではないかと思われる。
もう一つの謎である「広坂廃寺の存在-藤原京系の瓦文様」も解かれるのではないだろうか。
道君一族は、天智朝の後宮に一族の娘を入れたことで、当代第一級の地方豪族になっていた。もちろん、開墾されて乾田化された屯倉などの現地管理なども行い、財力を蓄えていたことも想像に難くない。
このため、道君は、大和地方の王権の寺ではなく、自前の私寺として広坂廃寺(現金沢21世紀美術館の地)を建立したのであろう。出土した大量の瓦が藤原京様式の文様を持っていたことと符合する。この建立には、持統天皇の下で一級の中央官僚に昇り、大宝律令の制定に参画した道君首名(みちのきみのおびとな)の役割もあったかもしれない。
末松廃寺から出土した和同開珎の銀銭は、同廃寺が放棄された後に鋳造された(708年)もので、道君首名との関連で考えたほうがいいのかもしれない。広坂廃寺の完成に伴い、それまでのシンボルであり、廃れてしまった末松廃寺の地の神に対する鎮魂の儀式として、埋納されたのではないだろうか。あまりにも、見てきた様な話なのだが…
「建立した人物」の謎の回答は天智天皇、ということにならざるを得ない。
