待ってました!末松廃寺の秘密が明かされる
5日の仕事始めに出社すると、受付のカウンター上に、地方紙HC新聞の社会面が広げてあった。末松廃寺に関する特ダネで、「豪族・道君建立が覆る」とあった。もう一方の地方紙HK新聞の商業臭が漂う百万石城下町シリーズと比較すると、清清しさがあふれている。
どうも“穴掘りモノ”と称される考古学の記事は地味である。というのも、すぐに経済活動、つまり商売に結びつかないためかもしれない。しかし、HC新聞の活躍は心強い。先に、白山市横江の「石川郡庁跡」発掘の特ダネに続くもので、手取扇状地の歴史、ひいては、現代につながる石川県の古代史解明に大きく前進するものだからである。古代史の実像に鋭く迫るものである。
HC新聞の記事によると、末松廃寺の建立者が道君説から財部造(たからのみやつこ)説に大きく方向転換を余儀なくされたのは、三重塔の心礎が戸室石ではなく手取川の安山岩の一種で、財部造の勢力範囲であるという鑑定結果が出たからである。
これまで、FM-N1でも、道君説に沿った特番を制作したことがあるがのっティ新聞9号(昨年6月発行)で、「道君創建説の再考も」という記事を掲載してきた。これは、勉強すればするほど、道君説が揺らいできたからであった。
そして昨秋のこと、後輩のUさんが「末松の心礎に関して重大な事実が分かった」と勢い込んできた時も、「戸室石ではなかったんだろう」と余裕で返したことがあった。ある程度予期していたことではあった。この際、俄か学者の説は謹んで、いつ、記事になるか心待ちしていたのである。
しかし、俄か学者の説とHC新聞のいう「財部造が主導した」とはニュアンスが違っている。確かに、心礎や金堂の瓦は財部造の勢力範囲で産出、製造されたが、当時の中央政権である天智朝の強力な主導権のもと、道君に財部造が協力したものではないかと思っている。
末松廃寺創建と相前後して、道君の伊羅都売が天智天皇の後宮に入って志貴皇子をもうけているからで、並々ならぬ厚遇が、その傍証になると思っている。
では、天智朝は何のために末松廃寺を建てたのであろうか。これは、朝廷の直轄地となる、新たな屯倉(みやけ)の創出が目的であった、と想像を逞しくしている。中央集権の確立へ向けて、財政基盤を強化しようとしたのではないだろうか。もちろん、国税を扱う大蔵であったのか、朝廷の私的財政のための内蔵であったのかは分からない。
もう一つ、誰も報道していないようだが、石川郡庁跡の近く、白山市番匠で、石川県埋蔵文化財センターが発掘した古代の巨大な柱跡の解明も待たれる。この遺跡は、新幹線建設地にあったため、残念ながらもう埋め戻されてしまった。
ともかく、野々市町が位置する手取扇状地の謎の解明に今、大きな光があたっていることは間違いない。
