末松廃寺は短期間で目的を達成した
末松廃寺の9つの謎のうち「講堂跡がない」ことを、先のブログで推理してみた。同廃寺の目的が、大和地方の王権(天智朝、摂政時代も含め)が、天皇家の屯倉(みやけ)などを開墾するに当たり、人心掌握を図るために文化・技術の優越性を誇示したもので、宗教的側面は薄く、最小限の伽藍構成になったのではないか、というものだった。
それでは、他の謎はどうだろうか。「当初の伽藍はわずか50年たらずで倒壊した」である。
通常ならば、当時の最新技術を集約した建造物であるなら、その維持についても最善の力を尽くすはずである。しかし、ここでもう一度、年表を振り返ってみよう。
同廃寺が創建されたのが660年ごろで、企図した天智天皇が即位したのが668年だった。672年には壬申の乱が起こり、天武天皇の時代に移り変わっていく。そして694年には、持統天皇の手で藤原京遷都が行われた。
このころには、扇状地開墾が軌道に乗っていたのではなかろうか。つまり、末松廃寺の所期の目的は達成される一方、天智朝の崩壊によって、寺の維持は放棄され、自然倒壊に至ったのではないかと思われる。
もう一つの謎である「広坂廃寺の存在-藤原京系の瓦文様」も解かれるのではないだろうか。
道君一族は、天智朝の後宮に一族の娘を入れたことで、当代第一級の地方豪族になっていた。もちろん、開墾されて乾田化された屯倉などの現地管理なども行い、財力を蓄えていたことも想像に難くない。
このため、道君は、大和地方の王権の寺ではなく、自前の私寺として広坂廃寺(現金沢21世紀美術館の地)を建立したのであろう。出土した大量の瓦が藤原京様式の文様を持っていたことと符合する。この建立には、持統天皇の下で一級の中央官僚に昇り、大宝律令の制定に参画した道君首名(みちのきみのおびとな)の役割もあったかもしれない。
末松廃寺から出土した和同開珎の銀銭は、同廃寺が放棄された後に鋳造された(708年)もので、道君首名との関連で考えたほうがいいのかもしれない。広坂廃寺の完成に伴い、それまでのシンボルであり、廃れてしまった末松廃寺の地の神に対する鎮魂の儀式として、埋納されたのではないだろうか。あまりにも、見てきた様な話なのだが…
「建立した人物」の謎の回答は天智天皇、ということにならざるを得ない。
