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末松廃寺は混成チームで建立

 末松廃寺の謎のうち「建立した人物は?」の答えを天智天皇とした前回ブログに続いて、残る謎も考えてみた。
 「大量に出土した瓦は旧辰口町の湯屋古窯跡で焼かれたもの」と「出土した土器は能美・小松丘陵で生産されたものが多い」についてである。
 同廃寺の建立は天智天皇(大和地方の王権)としてきた。しかし、大寺建設の最新技術、とりわけ塔に関する技術は、大和地方でも「今来(いまき)」と呼ばれる新しい渡来人が日本に持ち込んだものである。新しい渡来人を束ねていたのが蘇我氏を代表的とする豪族である。葛城氏などの古い豪族は、古い渡来人とみることができる。
 建立時期とみられる660年ごろは、大和地方でも大規模な土木・建設事業が盛んな時代である。いかに、地方における王権の屯倉(みやけ)開墾という、今後の中央集権化につながる画期的な事業といえども、十分に渡来人を確保することは困難であったように思う。
 したがって、建築物に関する技術を有する渡来人は大和地方から派遣し、瓦や土器については大部分を現地調達したのではないだろうか。
 手取扇状地の周辺で、焼き物の技術を持っていたのは江沼臣(えぬのおみ)や財部造(たからべのみやつこ)であり、両氏の勢力範囲が能美・小松であることを思えば、上記に挙げた二つの謎は解けるのではないだろうか。
 道君は現場監督の立場を務めていた。
 複数の地方豪族を一つの目的のために束ねることが可能なのは、優位性を保つ大和の王権以外ではありえない。“国家的事業”のために協調させられたのだろう。
 金堂瓦の製造技術者が能美・小松の工人たちであったため、軒丸瓦の文様は、全国でも例をみない「単弁六葉蓮華紋」になったのであろう。
 末松の大寺が完成した後、扇状地開墾は道君に任されたため、瓦・土器の工人は本来の勢力圏内に戻り、加賀市弓波町で、忌波廃寺の建立に与したのであろう。開墾者たちの生活のため土器類は供給され続けたのであろう。
 ここで、9つの謎とは別に、大問題が出てくるのである。何故、開墾の現場監督が江沼臣や財部造ではなく道君であったのか、という問題である。江沼臣が選ばれていれば、江沼臣の娘が天智天皇の後宮入りを果していたかもしれない。
 その推理については答えを持っているが、後日の機会に譲りたい。
 ともかく、末松廃寺の完成後は、必然的に道君が残り、地方の大豪族に変貌していくのである。
 屯倉完成後は、瓦の工人たちも去り、道君は氏寺となった広坂廃寺に移り、末松の大寺は廃れてしまうのである。
 そして、巨石がゴロゴロとしていた手取扇状地の川原を乾田に開墾した治水技術と鉄器の製造技術を持った人たちが残ったのである。その人たちは、大和王権の支配地域から移住してきた渡来人たちである。名前を秦(はた)氏という。
 秦氏は、廃れた大寺があった末松の地を離れ、野々市町上林に拠点を構えたのであろう。大和地方での集落のあった地名を取り「拝師(はいし)郷」としたもので、上林、中林、下林として今に名前を残すことになったのである。
 指導的立場にあった秦氏は、村の長となり、整然とした集落を形成していくのである。これが、もう一つの謎とされる「周辺遺跡の動向-末松遺跡群・上林新庄遺跡群から推定される渡来民族の存在」の答えではないでしょうか。
 

Permalink | 2009年3月 2日 08:30 | 宮崎正倫
末松廃寺の所在地
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ののいちガイドマップ


末松の大寺
末松廃寺の塔心礎


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出土した和同開珎の銀銭


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単弁六葉蓮華紋の軒丸瓦


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塔心礎遠景


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