道君と財部造が統一国家の謎を教えてくれた
野々市町末松にある国指定遺跡「末松廃寺」の調査報告書が刊行された。まだ、地元の野々市町にも届いていないらしく、残念ながら読む機会は先送りになっている。
この中で、史実として確立した重要な事柄が2点あるという。
一つは、これまでFM-N1の末松廃寺特番やのっティ新聞で紹介してきたように、同寺の創建年代が660年ごろ、と確定したことである。以前は、和同開珎の銀銭発見などにより8世紀に入ってからの建設とみられていたのである。寺の性格や、古代史との比較の中での位置付けが出来なかった。
しかし、年代が鮮明になったことで、日本史の中における意味合いが決定付けられた。
660年といえば、645年の大化改新からまもなくである。中大兄皇子(天智天皇)が摂政となっていた斎明天皇の時代である。教科書の中には現れてこない地方における白鳳寺院であり、その実態が解明されたのである。もちろん、謎に包まれた部分は依然として多いのも事実である。
そしてもう一点は、道君建立説が覆され、天智朝の国家的大事業として手取扇状地(石川平野)の開墾が推し進められた事実である。それは、同寺建立に当時、手取川左岸(現能美市)に勢力を張っていた豪族財部造(たからべのみやつこ)の関与が認められるからである。
戸室石(金沢・医王山)とみられていた塔心礎は白山の安山岩であり、手取川の転石だった。当時の手取川は現在より野々市寄りを流れており、扇状地の三分の一は財部造の土地だった。また、出土した金堂の瓦も旧辰口町の湯屋窯で焼かれたことが判明しており、やはり財部造の勢力下だった。
地方の有力豪族が連合する形で建設に当たるには、中央政権の指導なくしては実現しないからである。もちろん、塔など伽藍建設の技術も中央政権が持っていたものである。
つまり、扇状地の開墾地は、天智朝の屯倉(みやけ)になったということである。地方における扇状地の開発は手取川だけではなく全国各地にあったことも想像に難くない。が、石川平野で収穫された富が、飛鳥盆地で繰り広げられていた大規模工事を支える財源になっていったことは間違いないだろう。
扇状地の開発は乾田となり、従来の稲作と較べると単位面積当たりの収量は飛躍的に伸びたはずである。古代日本の、統一国家が成立していく過程で、建国の穀倉地であったのである。
末松廃寺といえば野々市町、道君や財部造といえば石川県の豪族であった、というふうに思考回路は働いていくが、これは歴史を学ぶ上で間違いであり、邪魔物であろう。単に発掘の費用がどの自治体の負担になるかを言っているだけなのである。
歴史はどこかの自治体の所有物ではない。その自治体の固有の歴史でもない。現在の自治体の枠を超えた「地域全体」の財産なのである。しかし、当該自治体の熱意と尽力がなければ、謎も解き明かされないのは事実でもある。
そういった意味でも、末松廃寺の調査報告書は、末松の住民の皆さんと野々市町の熱意が掘り起こした歴史の真実であった、と言えるのではないでしょうか。
