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桜井茶臼山古墳と末松廃寺の関係

 奈良県桜井市にある桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀前半)の発掘調査が、橿原考古学研究所の手で実施され、22日に成果の一部が公表された。

 茶臼山古墳とは、奈良盆地の東南部に位置し、大和初期政権の発祥の地とされる纏向遺跡や箸墓の南側にあたる。箸墓築造の後の巨大前方後円墳である。近くのメスリ山古墳などと共に鳥見山古墳群を形成し、古代吉備の作山古墳、造山古墳などとの関連性も深いとされている。

 公表資料によると、石室は自然石をれんが状に加工した板石1千枚で組まれ、天井は12枚の巨石で葺かれていた。当時としては貴重品であった水銀朱がくまなく彩られていた。石室の上部にあたる後円部の頂上には巨大な丸太で囲まれた区域も確認された。祭祀を行う神聖な施設であった可能性が出ている。

 強大な力を誇示するような古墳であるため大王クラスの古墳とみられている。

 古里・石川から遠く離れた地の出来事のように思われがちなのだが実は、古代の加賀(越国加賀郡)を知る上で、因縁の深い土地なのである。

 古代・加賀の大豪族である道君は、大和の大豪族であった安倍臣と同族であったと称している。この安倍氏の本拠地が桜井市である。茶臼山古墳には天皇陵であるとの伝承がないため、安部氏の祖先である大彦命の古墳であるとする説もあるのである。

 大彦命は四道将軍の一人として北陸道を任され、大和政権の支配地を拡大したとされる。この流れから道君が安倍臣と同族と称する動機なのであろう。 つまり道君とは、初期大和政権のころから、政権の一員として重要な地位を占めて、越国の中でも強大な力を備えていたのではないだろうか。

 野々市町の末松廃寺創建当時も、大豪族の地位を保っていたのである。

 末松廃寺は、天智天皇の屯倉として開発されたとされるが、安倍臣との関係を通して道君も近い関係にあったと思われる。

 安倍臣は初期大和政権時代からの大豪族であり、天智天皇がまだ中大兄皇子であった645年、蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変、大化の改新の後の左大臣を務めて豪族の最高位にあった。朝廷を中心となって支えた豪族だったのである。

 これらの関係から、道君伊羅都売が天智天皇の後宮に入り、志貴皇子をもうけたのであり、同皇子の養育は安倍臣の拠点であった磯城郡で行われたため「しきのみこ」と呼ばれるようになったのだと思っている。磯城郡とはまぎれもなく鳥見山古墳群のある地なのである。

 ちなみに、天智天皇の後を継いだ弘文天皇(大友皇子)は壬申の乱で天武天皇に破れはしたものの、安倍臣と同族と称する伊賀君の娘が産んだ皇子なのである。天智朝とは安倍臣の色が濃い政権であったと言えるだろう。

 このように考えると、古代の統一政権の誕生、つまり日本国の誕生過程における古里・石川の役割、末松廃寺の位置づけもはっきりと見えてくるのではないだろうか。

Permalink | 2009年10月24日 14:20 | 宮崎正倫
末松廃寺の所在地
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末松の大寺
末松廃寺の塔心礎


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出土した和同開珎の銀銭


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単弁六葉蓮華紋の軒丸瓦


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塔心礎遠景


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