御経塚(遺跡)にいた縄文人は何処へ行った?
野々市町の国史跡「御経塚遺跡」は3500年~2500年前の縄文時代後期から晩期へかけての遺跡である。この遺跡から出土した土器や石製玉、装身具、石棒、土偶など4219点が国の重要文化財に指定するよう答申が出された。
県の指定有形文化財に登録されてから4ヶ月足らずのことで、異例の早さだという。あらためて、同遺跡の重要さが再認識された形である。
縄文時代とはいうものの、晩期に属することから、既に管理型の農業が始められていたらしい。扇状地の先端部分に辺り、豊富な湧水地帯でもあることから先進地区の一つと成り得たのであろう。
しかし、弥生時代に移行するに連れ、住居跡が途絶えてしまう。この地で栄えていた縄文人たちは一体、何処へ行ってしまったのだろうか。この断絶が石川県における縄文時代と弥生時代の不連続性と関係しているのではないだろうか。
一つの可能性として、気候変動が考えられはしないかと推理している。
約2万年前は氷河期で、海水面が現在よりは約100メートルほど低かったという。これが縄文海進と言われるように温暖化が進み気候、風土が変化する中で、御経塚の縄文人たちはより寒冷な北の方に移住したのではないだろうか。
この空白期の後、弥生時代に入って西方から、稲作を伴って弥生人が再び定住するようになり、ひいては同町のもう一つの国史跡で、白鳳寺院である末松廃寺の創建につながっていくのではないかと思われる。
時代は再び寒冷化に向かっていくが、新しい文化の定着とともに、気候変化にも対処出来るような生活の知恵が生まれていたのではないだろうか。
そういえば、氷河期になる前の3万年前には、この扇状地は温暖性の植物が生い茂っていた、と聞いたことがある。
それにしても、故郷の地の先祖たちが生活の糧を求めて移住を繰り返していた様子をイメージさせる機会となった御経塚遺跡出土品の国重文指定の答申であった。
