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美味しいお米はいつの頃からでしょう?

 野々市市をそぞろ歩きしてみました。いろんな発見があるものです。

 野々市は古くから白山を水源として手取川扇状地を育む米どころですが、明治時代、そんな野々市で農業の発展に寄与した杉江秀直さんをご存知でしょうか。明治9年12月旧加賀藩士 杉江さんは野々市の住吉地内に農事社を創設し近郷の農家をあつめて田地の区画整理を教導しました。その農事社跡の石碑が野々市市住吉町にあります。noujisya.JPGのサムネール画像石碑脇の看板書きには「わが国における農地近代化の第一歩は、農事社からであった。」と記されています。農事社は、現在の石川県立翠星高校(旧松任農業高校)、また県立農業試験場の元となった明治時代の農業関係の研究所です。杉江さんは明治政府の農業発展のためつくられた東京の農学社に内地留学し知識と技術を学びました。そして明治9年、野々市に篤農家を集めて農事社を開き、農業の改良や研究の指導をはじめました。昭和45年3月10日に杉江さんの功績を讃え、住吉町に石碑が建立されています。日本ではじめての田区改正として耕地整理を行なったのですが、この田区改正というのが先進的な取組みだったのでしょう。調べてみると明治時代には乾田馬耕という排水をよくして湿田を乾田にかえる、そして馬による農作が導入されていましが、当時は、大小の田があり馬が作業できない場合もあった。それを杉江さんは農事社での研究で、田区改正、つまり田んぼを馬が農作業に入れるほどの均一な大きさに整理したのです。そして田区改正は野々市から全国へ。農地近代化の第一歩が野々市からはじまったというのもうなずけます。ただ野々市が米どころとして盛えるための第一歩は、末松廃寺に代表される白鳳時代にすでに踏み出していたのではないかと私は思っています。

 平成元年からの南部土地区画整理事業では上林・新庄遺跡に竪穴住居が集中的に発掘されていて、強い熱を受けた痕跡がみつかっています。そして遺跡からは鉄滓が2,072g出土しています。以前、野々市市役所の文化振興課で拝見した「野々市町南部土地区画整理事業に係る埋蔵文化財緊急発掘調査報告書Ⅲ」の65ページに記載がありました。鉄滓が出土したということは、付近に鍛冶場があり製鉄技術があったと考えられます。鉄製の道具は、石を砕き手取川扇状地を拓くうえでの重要な役割を担っていたのでしょう。そして当時から製鉄の先端技術が野々市の地にあったことを見逃すわけにはいきません。時代は明治から白鳳へ。一千年遡り、かつてもこの地にあった先端技術は野々市の誇れる文化といえるのだと思います。

でも野々市を潤す水はどのように整備されたのかな。次は枝権兵衛さんの石碑でも探そうか。

となると、野々市からはだいぶ歩かないといけないな・・塩むすびでも携えようか。