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宮崎正倫

「山の吊橋」野々市の人情とiMA音楽が通る

 きょう(27日)はFM-N1の開局18周年記念日でした。午前9時から同11時15分まで、開局特番「時代の今様~iMA音楽(いま・みゅーじっく)」を放送しました。この1年の出来事を振り返り、来る1年の抱負を披歴しました。

 FM-N1としては4月から、音楽放送の新しいブランドとしてiMA音楽を立ち上げ、「N1 iMA音楽」(月曜)や「iMA音楽アリーナ」(月~金曜)、週末のヨシアキ、ケイスケ、ノゾムのiMA音楽の各番組をお届けしてきました。リリース前の楽曲を含めた新譜を中心に、N1スタッフが毎月20曲を選定してパワー・プレーを行うものです。

 また、富山県小矢部市にある「クロスランドおやべ」では、スイーツ・イベント「空中カフェ」に協力して、会場となった高さ100メートルのタワー展望室にサテライト・スタジオ「天空118」を設け、iMA音楽の発信を展開してきました。

 地域の中では、FM-N1が本社を置く野々市市が市制施行から2年連続で、全国の市を対象とした「住みよさランキング」で2位に選ばれたほか、同市上林にある林郷八幡神社が創建千年祭を執り行いました。

 林郷八幡神社は、白鳳時代から始まった手取川扇状地の開墾事業当初の中心地となった古代・拝師郷に創建された神社ということになります。創建当時は平安時代の末期に当たり、開墾地域の拡大とともに中心地は、上流の白山市内に移っていましたが、支配一族であった林氏に関係する神社と思われます。

 ちょうど神社が創建されたころ、京の都で流行っていたのが今様です。雅楽の越天楽にあわせて詩が歌われ、白拍子が舞う姿は当世一代の文化であり、最新の流行歌でもありました。iMA音楽は4月から立ち上げたと言いましたが、まさに現代の今様なのです。何か運命的な符号を覚えながら、開局記念特番として一本にまとめることができました。

 例えば、大正から昭和初期にかけての演歌も、85年前に録音された国内最初のレコードである佐藤千夜子の「波浮の港」も、昭和歌謡の数々も、60年代末のグループ・サウンズも、70年に入ってのニュー・ミュージックもそれぞれの時代の今様なのです。今様が積み重なって来たのが音楽文化であり、金沢工業大学ポピュラー・ミュージック・コレクションが所蔵する23万枚を超えるレコードも今様の財産と言えます。

 FM-N1ではこれらの名曲の数々をiMa音楽リターンズと呼んでいますし、1月2日(木)からは新番組「帰ってきたiMA音楽」を始めます。正午からの放送となります。

 こうした多くの曲の中から、開局記念特番の中で、印象的な1曲をスタッフが選びました。春日八郎の「山の吊橋」です。「♪山の吊橋どなたが通る」と歌いだし、せがれなくした猟師が、恋しい人が都に出た村娘が、酒が切れた炭焼きが、それぞれの想いを抱いて、吊橋を渡っていくのです。

 FM-N1を地域の吊橋に例えるなら、白鳳時代からの先人達から受け継いだ伝統、文化が培った人情が、夢を抱いた現代の若者たちが、住みよさを求めた人々の想いが、ラジオの電波に乗って広がっていくことを願っての選曲のように思えます。そしてもちろん、iMA音楽も電波の吊橋を渡っていきます。

 「山の吊橋」の歌のように「ホレ ユーラユラ」と。

 

緋牡丹お竜が今様で舞う幻影

 昭和40年代の映画のお話ですが、緋牡丹お竜を覚えている方も多いと思います。鉄火場のシーンで片肌脱いだら緋牡丹の刺青がありました。藤純子さんが演じる役どころであり、観客からスクリーンに向かって掛け声が飛び交う、という熱狂ぶりでした。

 藤純子と言っても若い人には馴染みがないかと思われますが、現在の芸名は冨司純子です。歌舞伎の尾上菊五郎との間には女優の寺島しのぶがいます。

 実は藤純子と尾上菊五郎(当時は尾上菊之助)は昭和41年に、長編テレビ・ドラマ「源義経」で、静御前と義経役で共演しています。静御前とは白拍子という身分、職種であり、今様に合わせて舞ったと言われています。テレビ・ドラマの中でも舞うシーンがあったようです。(残念ながら記憶にはありませんが…)

 先のブログで、梅岡が今様とは「今風のこと」と書いています。雅楽の越天楽に合わせて歌い、踊るもの、と言っていますので、当時の流行歌といった趣だったのでしょうか。また今様の色というのがあって濃い紅色だ、とも書いてありました。

 なるほど、静御前の緋袴とお竜の緋牡丹の刺青。まさしく藤純子は昭和40年代のスクリーンでは今様の女優だったわけである。

 ところで、今様とは当時の時代の最先端、最新流行歌と言いましたが、さしずめFM-N1が提唱しているiMA音楽(いま・みゅーじっく)こそが今様なのです。

 あす27日(金)のFM-N1開局18周年特番「時代の今様~iMA音楽」(9:00~11:15)では何を伝えてくれるのか楽しみです。メインで担当するのは、中村圭佑と桑原和江です。源義経と静御前のように息のあったスタジオを繰り広げることと期待しています。

 そういえば特番準備の忙しさのためか、中村の目は紅く腫れあがっています。ひょっとすると、今様の緋色に染め上げるためなのでしょうか。藤純子の幻影であるまいに・・・

岩谷時子さんと「愛のタンゴ」

 作詞家の岩谷時子さんが亡くなったと聞きました。懐かしい名前を久しぶりに耳にする時が訃報である、というのは辛いことであり、また自らの歳経た姿を否応なく実感させられる刹那と重なるのである。

 岩谷さんの名前を知ったのは高校生の頃である。岩谷時子・弾厚作のコンビで作詞作曲された加山雄三の曲がブームを呼んでいた。「君といつまでも」「お嫁においで」などに加え、FM-N1にとっては縁の深い「旅人よ」も作品リストに含まれている。

 「旅人よ」のバックコーラスには、FM-N1番組制作スタッフのロイ・キヨタさんが加わっていることから、カラオケの定番曲ともなっている。1966年の発売ということは、同年にザ・ビートルズが来日公演を果たしているから当時のエレキ・ブームがいかに凄まじかったか、改めて思い知らされます。

 今、S紙の訃報を伝える紙面を見ていると、掲載されている作品リストの中に「愛のタンゴ」(1956年)がある。美空ひばりが歌ったものだが、岩谷さんの訳詞であることに気がついた。越路吹雪の「愛の賛歌」「ろくでなし」などの訳詞をしていたことは知っていたが、「愛のタンゴ」は知りませんでした。

 今年4月から始まった番組に「あなたの傍に歌がある」(月‐金7:00~8:00、深夜バージョン26:30~27:30)があります。この中で印象深かった曲の一つが9月13日に放送した「愛のタンゴ」でした。たまたまネット検索で見ていた歌詞カードには作詞作曲者の名前はありましたが訳詞者の名前がなかった(他のカードにはありました)からです。

 と、同時に、似た着想の曲に西條八十作詞の「赤い靴のタンゴ」もありました。歌の結末は違うのですが同じようなダンスの場面が出てきます。作曲は古賀政男で歌は奈良光枝でした。こちらも記憶に残る一曲でした。

 話はそれましたが、岩谷さんの作詞家としてだけではなく訳詞、翻訳家としての才能の素晴らしさをみる思いでした。加山雄三の曲では、少し現実離れした空想的な、ロマンチックな詞が多いように感じていたのですが、作品群のリストを眺めていると、また違う作詞家像が浮かび上がってくるようです。

 「あなたの傍に歌がある」の番組を企画していて感じる事は、作品中に占める作詞家としての重さが想像以上に大きいのではないか、ということです。同じ作詞家の阿久悠の時もそうでした。例えば国民栄誉賞がそうですが、作曲家、歌手は受賞していても、まだ作詞家はいません。音楽関係者の方々も、もっと作詞家に光が当たるような活動が必要なのではないでしょうか。

 11月4日の「あなたの傍に歌がある」では岩谷時子さんの作品が放送予定に入っています。これまで心に残る歌を沢山残していただきまして、ありがとうございました。合掌。

1万曲の道程は長いようで短かったな

 FM-N1のオールディーズ・リクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」のオン・エア曲が3月31日放送分で1万曲の節目を迎えました。番組が始まったのが1998年4月12日ですから、15年間をかけての達成です。この間、リクエスターの皆様の愛情にも似た熱い心があってのことだと、深く感謝しております。

 パーソナリティーのロイ・キヨタさんは当時、サラリーマン生活の傍ら、ボランティア・スタッフとして、留学生など石川県内で国際交流に関わる人達のインタビュー番組「てくてく地球交差点」を担当していました。この「てくてく」は開局以来の番組で、現在も続いているのでFM-N1の最長寿番組です。

 また、2005年には、担当していた番組「ストア・オールディーズ」で、放送批評懇談会のギャラクシー賞ラジオ選奨も受賞しています。この間、さまざまな事情から、現在は金沢工業大学の職員としてポピュラー・ミュージック・コレクション(通称PMC、所蔵レコード22万6千枚)の職員として、首までレコードに浸かっています。国内的にも貴重な財産であるレコード・コレクションの守り神の化身ではないか、と思っています。

 この「ブロークン・タイムマシン」がスタートしたきっかけは、ちょっとした思いつきからでした。それはロイさんの音楽経歴や、英語が母語であるという話を聞いたからです。

 N1の第5スタジオ前で、当時ボランティアだったロイさんに出くわした時に「オールディーズのリクエスト番組はできないでしょうか?」と口にしてみたのです。今思えば、リクエストの曲がPMCにあるという保証はありませんから、無鉄砲な提案でした。加えて、ボランティアで(局側に金銭的負担がない形で)の頼み事ですから虫のいい話でした。

 ロイさんは、いつもの思慮深い顔で考え込んだ後、快く引き受けてくれました。数日後、考えてきてもらった2,3の番組名候補の中から「ブロークン・タイムマシン」に決めました。

 そして15年間で、当初の願い通りに、ブロークン・タイムマシンを中心とした音楽のコミュニティが、それぞれのリクエスターさん達は顔見知りではないけれど、ラジオを通したコミュニティが出来上がったのではないかと思います。

 1万曲目はビートルズの最後のシングルになった「ロング・アンド・ワインディング・ロード」でした。ポール・マッカートニーの作曲です。ロイさんの解説によると「この道は必ず君のもとにたどり着く」と歌っているのです。

 この曲を聴きながら、「ブロークン・タイムマシン」は、そしてFM-N1は一体、どこにたどり着くのだろう、と考えてしまいます。頭の上には温かい春の日差しが降り注ぎます。1万曲までは長くて、短かったような想いを抱きながら…

桜咲いてHi-Hi-Hi、大橋トリオの「マチルダ」だ!

 春の改編にともなって「あなたの傍に歌がある」(月~金曜7:00~8:00)がスタートした。FM-N1の朝のドライビング・ゾーンは音楽番組を編成するのが開局以来の倣いになっています。運転席の隣のシートにも歌を乗せて、安全運転で出勤のひと時を楽しんでいただきたいと思っています。

 季節にあった楽曲や、パーソナリティーの名前を冠したコーナー“和江の歌の言の葉”やテレビ、アニメの主題歌、県内の高校生、高専生、大学生が参加している“石川青春の詩2013”が心のきらめきを伝えるコーナーなどがあります。そして、この改編を機に、パワープレーの在り方を根底から一新した“iMA音楽”(いま・みゅーじっく)と、心弾むようなラインナップを用意しています。

 きょう1日のオープニング、つまり同番組の記念すべき1曲目にはあおい輝彦の「Hi-Hi-Hi」をセレクトしました。歌い出しの「♪Hi-Hi-Hi春になったらHi-Hi-Hi忘れかけてたHi-Hi-Hi歌も歌えるさ…」に惹かれたのです。続いてエレファントカシマシの「桜の花、舞い上がる道を」、南野陽子の「エイプリル・フール」が流れました。

 “和江の歌の言の葉”では、GReeeeNの「NEW LIFE」を紹介して、新入社員の緊張する社会人1日目についてトークを繰り広げました。“石川青春の詩”では金沢工業大学の諸江大輔君がパヒュームの「心のスポーツ」を選びました。

 この後はシュガーの「新入社員とらばーゆ」、紙風船の「いつも心に青空を」、平野愛子の「港の見える丘」が続きました。「港の見える丘」は戦後の代表的な曲の一つですが、ジャズ・テーストで桜が散る風景が歌われています。そしてコロンビアゆりかご会の「鉄腕アトム」でした。4月7日(日)がアトムの誕生日であることからバースデイ・ソングになりました。

 最後は改編の目玉であるFM-N1パワー・プレー「iMA音楽」の初オン・エアとなる大橋トリオの「マチルダ」を紹介しました。

 放送局の周辺でも、平年より早く咲き始めた桜の下、金沢工業大学と金沢高専の入学式が執り行われ、希望に満ちた新入生の顔が行きかい、心も足取りも弾んでいるようでした。

 春の新しい編成で始まったFM-N1の放送。これから一日中、心はHi-Hi-Hi!で過ごせそうです。スキップ、スキップ。

「12時の讃歌」を聴きながら愛の詩を想う最終夜

 「FM-N1夜の讃歌」も最終回となりました。この12夜目のテーマは番組タイトルのヒントになったかまやつひろしの曲「12時の讃歌」にありました。この曲は番組のタイトル曲にも使っています。

 「12時の讃歌」はこう歌っています。

 古いレコードが回り始め 小雨のような音 静かに立てる 何気なく耳を過ぎていった歌 こんな切ない意味を持っていたなんて

 このフレーズを繰り返し聴きながら番組企画を考えていました。そして番組は「かまやつを聴きながら」出来上がっていったのですが一方、アーチストたちは「何を聴きながら」作品を仕上げているのだろう、と思ったわけです。

 そこで、曲中に「~を聴きながら」という作品を集めてみました。

 まず、荒木一郎の「ジャニスを聴きながら」です。

 歌は、別れた女を想いながら、淋しさの中で眠りに就くという設定ですからジャニスというのはシャウト型のジャニス・ジョプリンよりジャニス・イアンなのでしょう。女を煙草のロングピースに例え、それを吸った自分の胸は汚れていく、と歌っています。負け惜しみの台詞なのです。

 次に選んだのがブレッド&バターの「あの頃のまま」です。

 出てくるのはサイモン&ガーファンクルです。大学を卒業していった「君」と大学に残った「ぼく」。他愛ない夢を追いかける「ぼく」と切り捨ててしまった「君」が卒業以来初めて再会したのです。「君」は「ぼく」を評して、去りゆく若い時間を一人占めしているようでうらやましい、と笑うのです。学生時代のいつもの店には、あの時のようにサイモン&ガーファンクルが流れています。しかし、もう二人はそれぞれの道を歩みだしているのです。

 学生時代の友情は続いても夢は別々なのです。

 3曲目が南佳孝の「昼下がりのテーブル」です。

 ボブ・ディランがでてきます。「お前」と知り合った頃は歌の意味も知らずにボブ・ディランをハミングしていた。しかし今、午後の陽ざしの差すテーブルに座り、失くした優しさの「お前」という存在の意味をかみしめている。

 外の時代が変わっていくのを窓から見ていたし、目の前で「お前」が綺麗になって変わっていくのも見ていた。しかし、自分という存在は何も変わっていない気もしていた。

 時が流れてきっと、ボブ・ディランの歌は理解できるようになったのだろう。しかし、変わっていった「お前」を理解できず、愛し続けることが出来なかったのでしょう。何も変わっていない、とつぶやくことしかできなかった男なのでした。

 4曲目はかまやつひろしの「20才の頃」です。

 社会に出てみて、20才の頃に夢見ていた人生と現実の生活とのあまりの違いに涙が出てくるのです。

 君だけをモデルに毎日、絵を描いていた。肩や腰、胸の線を描いては消し、夜にはショパンを聴きながらベルレーヌやボードレールの詩を詠み、そのまま朝まで過ごした。 齢を加えるごとに、生きていかなければならない厳しい社会の現実が、ショパンを聴いていた甘い昔を次第に遠くへ押しやり、もう帰ってこない生活だ、と悟るのです。

 最後の曲はみなみらんぼうの「たった一つの愛の詩」です。

 この曲はみなみらんぼうがバックの演奏に合わせて詩を朗読しています。

 一生の伴侶となる君に出逢う朝まではブラームスを聴いていたが、共に歩み始めてからは、もう僕の耳にはブラームスは聴こえない、という。

 人生に必要なものや不必要なものを殊更多く抱え込んで、いつも重そうに歩いている僕に、君は「半分は私が手伝ってあげる」と言ってくれた。

 その後、印象的なピアノの旋律が流れ、クライマックスに入っていく。

 人は誰でも一人ぼっちだ。産まれた時も死んでいく時も。だから誰かに傍にいてほしいのです。そして微笑みを分けてくれた君のために「たった一つの愛の詩」を、とみなみらんぼうは歌うのです。

 詩人でもない私ですが、いつかは「たった一つの愛の詩」を歌える日がくるのでしょうか。

 エンディングはタイトル曲の「12時の讃歌」を、いつもより長めにお届けしました。古いレコードから流れてくる小雨のような音が、何気なく耳元を過ぎていく中で、ちょっと切ない意味を知りました。 

 

「好き」だけでは超えられぬ女と男‐第11夜

 1月からお送りしてきた「FM-N1夜の讃歌」(月曜24:00~24:30)も来週が最終回と、大詰めが近くなってきました。ラジオではこれまで紹介する機会が少なかったものの、ちょっと気になる楽曲をお届けする、という発想でスタートしたのでした。そして以前から気に掛かっていたのですが、11夜になっても手つかずのまま来たちあきなおみの「ねぇあんた」を取り上げ、ラインナップを考えてみました。

 もとより、女心に精通しているとは言い難い唐変木の私ですが、哀しみを面に出さず、生き抜いている女性も多いのではないか、と思っています。いじらしさが切なくて、一歩踏み出してしまうと、「惚れる」事になりそうな心持ちにさせられます。テーマは「好きだけでは超えられぬ女と男」です。

 まず最初は山崎ハコの「織江の唄」です。

 この曲は、金沢にも縁が深い作家五木寛之の小説「青春の門」に題材をとった映画の主題歌です。九州・筑豊の炭鉱町を舞台にしています。映画の中では、織江その人は主役ではありませんが、主人公信介の幼馴染として周辺を彩る役です。

 歌の中では親に死に別れ、カネのために小倉のキャバレーに働きに出る織江を歌っています。「うちは一人になりました 明日は小倉の夜の蝶 そやけん 抱いてくれんね信介しゃん どうせ汚れてしまうけん」という歌詞が胸に迫ります。

 信介に会えぬまま帰っていく織江。「うちはあんたが好きやった ばってんお金にゃ勝てんもん」と、好き嫌いだけでは済まない社会の重圧が掛かってきます。そして各コーラスの最後のフレーズ「織江も大人になりました」が人生の喜怒哀楽を分けて行きます。

 幼馴染が、信介に抱いてもらえるほどの年齢になった半面、大人になってしまったばっかりに、カネのために身を落とさなければならなくなる二重の意味が感じられます。運命を引きうけて生きていくのです。

 2曲目はなぎら健壱の「朝日楼」です。

 アメリカ・ニューオリンズの女郎屋朝日楼に身を落とした女の物語です。

 母親の忠告を聞かず、騙されていることにも気付かずに博打うちに惚れてしまった。男の手練手管と知った後も、一途に男に付いて行く。最後は朝日楼にまで身を持ち崩してしまった。そして、可愛い妹に忠告するのです。自分のような間違いは起こすな。朝日楼に近づく境遇になるだけだ、と。

 女は男を恨むわけでもなく、そこから抜け出る力もなく、道を踏み外した自分が悪いというように、諦めきって人生の幕を閉じて行くのです。

 3曲目にちあきなおみの「ねぇあんた」です。

 借金で身を売った女の所に男が客として現れる。女は男に惚れてしまった。恋女房のように、あれこれ身の回りのことを心配する。「なんかとってあげようか おなか すいているんじゃないの」「ボタンが一つ とれてるよ 私 針も持てるんだ つけてあげるよ」「壁もふすまも 私が選んで 変えたんだ それだけ 借金かさんだけどね」といった具合だった。

 ところがある時、女の言い方に怒ったのか男は不機嫌で、ひどい言葉を投げつける。女は「今言ったこと ウソだろう ゴメンてひとこと 言っておくれよ こんな処の女にも 言っちゃいけない 言葉があるんだ そんなこと 言う男には ここじゃ帰れって 言われるよ」と返してしまう。

 言ってから、我に返った一言が哀しすぎるのです。「やっぱりあたしは ドブ川暮らし あんたを待ってちゃ いけない女さ そうなんだろう ねぇあんた」。

 苦界の身の上とはいえ、ひと時の夢を見る。それを誰も責めることはできません。

 そしてその夢は叶わない事は誰もが承知しています。

 普通の世の中の女の真似ごとをしたい。それを誰が笑えるでしょう。

 しかし、そんな女の心にも土足で踏み込まれたくない一線があります。哀しいほどの意地とも言えますが、かえって自分の身の上を思い知らされるのです。

 次の曲には加藤登紀子の「海辺の恋」を選びました。

 詩人佐藤春夫の詩に小椋佳が曲を付けたものです。文語調の詩に小椋のメロディーが重なり、抒情的な一幅の絵を思わせます。

 しかし、この歌は不倫の最中の歌なのです。「わらべ」は佐藤春夫で、「をとめ」は作家谷崎潤一郎の妻千代子のことなのです。後々、二人は結婚にまでこぎ着けるのですが、詩が書かれた時は二人とも不倫の間柄だったのです。背景には、谷崎の女性関係も複雑に絡み合っています。

 だから、逢瀬の短い時間をを愛しむように過ごす二人の心情が切なくもあり、純情のようにも映るのでしょう。松葉が燃え尽きる束の間の時間がいつまでも続くようにと無理に願っているのです。

 「わらべとをとめよりそいぬ ただたまゆらの火をかこみ うれしくふたり手をとりぬ かひなきことをただ夢み」「海べのこひのはかなさは こぼれ松葉の火なりけむ」

 最後の曲は由紀さおりの「酔いどれパレード」です。

 苦しみばかり、哀しみばかりが寄せてくる世の中だけど、今夜は飲んで涙をふいて酔いどれ女のパレードに加わろう、と歌っています。男を恨むことも知らない、みんな可愛いお人好しばかり。明日になればどうにかなる、というものの、何処まで行くかはお酒任せ、なのです。

 そして明日になれば、陽気さとは裏腹に、哀しみを隠して振る舞うのでしょう。男を恨む暇があったら、一生懸命生きた方が、後で後悔しない人生に繋がることを信じているのかもしれません。

 

海から生まれ海へ還る-震災2年後は第10夜

 2011年3月11日、東日本大震災が起きてから2年が経ちました。第10夜を迎えた「FM-N1夜の讃歌」でも、触れずに過ぎるわけにはいきません。何をテーマに据えればいいのか迷っていましたが、被災地で見てきた印象を中心に構成してみることにしました。

 大震災の発生から約1ヶ月後、私達は「N1いぬわし隊」を結成して、被災地の災害臨時放送局や現地のコミュニティ放送局に向けて、ささやかながら支援活動を行いました。また3ヶ月後には、取材のために再び被災地に向かいました。

 最初に訪れたのは岩手県宮古市、同市田老、宮城県塩竃市、同石巻市で、2度目は岩手県陸前高田市、同遠野市でした。

 「いぬわし隊」はその都度、特別番組を編成して、支援の手が伸びるようにリスナーに訴えました。半面、東北から遠く離れたコミュニティ放送局にできる支援とはなんだろう、と思い悩みました。言葉では物心両面の支援と言いますが、そう簡単に答えが出るものでもありませんでした。

 そして、出た結論はラジオ局らしく音楽を流そう、ということでした。音楽には人を慰め、励ます力が宿っている、と信じていたからです。1回目の東北行ではスタッフにも内緒でスキーター・デービスの「エンド・オブ・ザ・ワールド」を持参しましたが、取り出す機会はありませんでした。特別番組では元気が出るような音楽を中心にしたリポート番組となりました。

 そこで第10夜の1曲目には早川義夫の「音楽」を選びました。音楽の持つ力を表現している、と共感しているからです。

 ピアノの弾き語りによる独特の歌い方で「歌を歌うのが 歌だとは限らない 感動する心が音楽なんだ 勇気をもらうひと言 汚れを落とす涙 日常で歌うことが 何よりも素敵」と言葉が紡ぎだされる。

 本当に「声を出さなくとも歌は歌える」「存在そのものが音楽を奏でる」のだと納得させられる。困難に立ち向かう被災者の姿が音楽に思えてくる。早川義夫が言うように、感動する心を生みだすのでしょう。

 2曲目は南佳孝の「月に向かって」としました。

 震災の大津波から1ヶ月後、万里の長城と謳われた宮古市田老地区の堤防の上に立っていました。目の前には静かな太平洋が広がり、ウミネコが鳴いていました。背後の廃墟と化した街並みを見なければ、日常と何の変わりもありませんでした。

 地球上の生命は海から生まれた、とも言われます。ギリシャ神話の海の泡から生まれたビーナスの姿を想起します。人類にとっての母なる海が人間に大災害をもたらすとは不条理にも思えます。が、地球の支配者は人間ではなく、自然そのものだという現実を否応なく突きつけられているようでした。人間は自然に対する挑戦を続ける中で生きているのでしょう。

 ですから、不遜かもしれませんが、人間は再び海に戻ってくるしかないのだろう、とも思いました。この豊饒の海を捨てるわけにはいかないからです。ただ、災害から免れる新しい智恵を手にしなければならないと感じました。

 「月に向かって」の中で、南佳孝は歌います。「海は女さ ひとつ間違えば 抱きしめた波のカールで 俺を引きこむ」。また「不思議な事に 死ぬなら海がいい 物心ついた時から決めていたのさ」と。そしてまた、歌声はこうも奏でます。「生き物は 海から生まれ海に帰る」と。

 歌は「また生きのびちまった とつぶやきひとつ ためいきひとつ」で締めくくられます。田老の海とオーバーラップしてきます。

 次に選んだのはブルーハーツの「終わらない歌」です。

 ブルーハーツは誰のために終わらない歌を歌っているのでしょうか。それは「クソッタレの世界のため」や「全てのクズ共のために」歌っているのです。裏返せば、世の中の嫌われ者のためにさえ歌うのですから当然「僕や君や彼等のために」も歌うのです。きっと「明日は笑えるように」と、声の限りに歌ってくれているのです。

 なんと優しいブルーハーツなのだろう。

 「真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから 逃げだしたくなったことは 今まで何度でもあった」と続きます。

 しかし、歌うことは終わりません。災難に見舞われた人達が「明日は笑えるように」なるまでは、と励ましてくれています。

 4曲目は風の「時の流れ」に決めました。

 本当は恋人同士の別れを歌った曲ですが、突然の別れに遭遇した被災地の人達とダブって心痛みます。

 この哀しみ、この無念、このやるせなさは歌の歌詞のように「目の前の砂時計をうら返せば 時はすぐに流れてゆく」わけではありません。いつまでも留まっているようです。そして「何もかもを忘れたくて この街 離れるぼくを誰が笑う」人はいないでしょう。「別れることが終わりならば 別れることが始まりだと言えないだろうか」。いつか、それぞれの道を歩き始めなければならないのです。

 動かないように思えた砂時計も、やがて流れ落ちる時が来るのです。

 最後の曲には岩崎宏美の「想い出の樹の下で」を選びました。

 震災から3ヶ月後、陸前高田市の「奇跡の一本松」の前に立ちました。周辺の全てのものが流され、あるいは瓦礫と化した中に、毅然として立っていました。しかし、延命は叶わず、伐採されて保存処理が施され、今再び、元の場所に立てられました。復興を見守り続ける新たな役割を担うのです。

 岩崎宏美の歌は「私は忘れない 私は忘れない 晴れた日の 想い出の樹の下を」で始まります。そして続いていきます。「信じましょう 信じて生きましょう それが 心の支えになるなら そしていつか 奇跡のように この丘で 逢いましょう」と。「何故かいつか あの樹の下で 逢える気がするのです」はこの後も人生を歩むために、心の支えになるのです。

 私もいつか、海辺の奇跡の樹の下に、もう一度立ちたいものです。

卒業の門を出て、握りしめた社会の切符ー第9夜

 1月から始めた「FM-N1夜の讃歌」(月曜24:00~24:30)も3月に入り、9夜目を迎えました。この季節は各レベルの学校の卒業式が続き、卒業生らは進学あるいは社会人としての道に進みます。

 私も学校を卒業し、職場も変えるなど幾つかの卒業、門出を繰り返しました。その中に、想い出深い同級生がいました。小学校、中学校と一緒で、実はそれ以来、再会したことがありません。もう半世紀近くになります。私は進学、彼は卒業と同時に社会へと乗りだしました。

 彼との想い出と言えば、社会科の地図帳を見ては、新しい発見を報告し合っていました。地理が好きになったことは、私の人生においても方向付け、性格付けという点で大きく影響してきた、と思っています。しかし、進学を果たしはしたものの、もう一つ勉強には身が入りませんでした。大学も、教授のお情けにすがって卒業できたようなものです。

 中卒で社会人となった彼に対しては、何か申し訳ない気持ちが湧いてきます。学歴に対するこだわりが生まれ、いろいろな事情で進学できなかった人達、途中で退学を余儀なくされた人達に肩入れする気持ちが少なからずあります。この季節になると、彼を想いだしてしまいます。

 第9夜の最初の曲は中島みゆきの「ファイト」を選びました。

 ラジオの深夜放送の番組に来たお便りから生まれた曲です。歌いだしの「あたし中卒やからね 仕事もらわれへん」のフレーズに早くも涙があふれてくる気がします。「悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる」では、自分の心臓に爪を立てられ、握りしめられているようです。

 それでも痩せこけた魚たち、彼らは冷たい水の中を溯上していくのです。そして、東京行きに夢を託した友との約束も、遅延のしがらみの中で果たせなくなります。燃やそうとして燃やせなかった東京行きの切符を、涙で滲んだ切符を我が身に代えて、友に送るのです。

 「諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく」「冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」という最後の歌詞を聴きながら、一緒に叫んでしまいます。「ファイト!」と。

 それほど、東京は夢膨らむ街だったのでしょうか。次の曲は守屋浩の「僕は泣いちっち」でした。

 自分の恋人が夢を掴むために東京へ出て行ってしまいました。自分よりも大事な東京。その理由になかなか納得できない僕は、淋しい夜を迎えながら泣いているだけなのです。そして思い立ちます。自分も東京へ出ようと。「早く行こう あの娘の住んでる 東京へ」で歌は終わります。

 60年代初めのヒット曲で、中卒者が「金の卵」と呼ばれて集団就職したころです。東京は魅力にあふれた街で、誰もが夢見たのでしょうか。しかし、歌の中の僕は、東京ドリームもはっきりしないまま、ただ恋人の後を追うように、意気揚々と切符を握って、東京へ出て行くのです。冷静になれば、何か前途多難を思わせます。

 3曲目は麻生よう子の「逃避行」を選曲しました。

 好きな人から「一からやり直そう」と言われて、午前5時に駅に来ました。荷物を詰めたトランクを持ちながら、空いた汽車を何本も見送った。それでも彼は姿を現さない。「また、昨日の酒に酔いつぶれているのだわ」とつぶやきながら、一人で旅立つことにした。

 これまでも何度も泣かされてきた。しかし、「今度は掛けてみる」と念を押したにもかかわらず、やはり駄目だった。あと何本汽車を見送ればいいのだろう。そしてあきらめました。

 一人で切符を買って、汽車に乗る。それは、人がいいけれど酒と女にだらしない彼からの卒業なのです。またそれは、自分の夢が潰えそうな彼との生活からの逃避行の切符なのでしょう。後を追いかけてきてももう遅い。決心したのだから。

 次は甲斐バンドの「裏切りの街角」です。

 お前にはおいらじゃ駄目さ。分かっていながら、自分が変われないまま暮らしを続けてきた。だけど、別れの電話が掛かってきた。生きて行く哀しさにあふれた電話の声が途切れて行く。

 男は走った。「雨にけむる街並みを 息をきらして 駆け続けた つきささる吐息をはいて 駅への道 駆け続けた」。楽しそうな人混みをかき分けて階段を上り、プラットホームに出た。

 そこには切符を握った彼女がいた。追う俺を振り切って汽車の中に消えてしまった。いくら硝子窓を叩いたが、彼女は顔をそむけてしまった。発車のベルに急かされるように汽車は出て行く。

 男との暮らしから卒業する切符を握って、この暮らしから逃げるように。そして卒業の切符が買えなかった男は、プラットホームに残されたままだった。

 最後の曲は再び中島みゆきで「ホームにて」にしました。

 都会へ、東京へ出てきたものの、そう簡単に夢が叶うわけではありません。何度、古里へ帰ろうと思ったことだろう。しかし、あと少し、もう一度だけと、東京に未練髪を引かれるのでしょう。

 歌詞の冒頭に「ふるさとへ 向かう最終に 乗れる人は 急ぎなさいと やさしい やさしい声の駅長が 街なかに 叫ぶ」とあります。

 「ふるさと行きの乗車券」を握った私は知っているのです。このまま直ぐに乗り込めば古里に帰れることを。それでも私は後ろを振り向いて、夢を追い掛けてきた街に別れのあいさつをするのです。それも名残を惜しむように。そして背後で、ドアの閉まる音を聞いたなら、やっと汽車に向き直るのです。

 当然のように汽車は走り出し、手の中には「ふるさと行きの乗車券」が残るのです。涙の数、ため息の数だけ「ふるさと行きの乗車券」も溜まっていくのです。心は夜のホームに佇みます。都会の夜のネオンが乗車券を燃やしてくれればいいのだが、それは無理なこと。ネオンライトでは燃やせないのです。

 いつ卒業できるか分からない不安さを抱えながら、明日も都会で生きて行くのです。

 でも本当は、決断すれば卒業できるのです。門出の門をくぐれば新しい希望が待ち受けているかもしれないのです。ただ、新しい未来を乗り切る勇気がないのかもしれません。勇気を奮い起せば、今の夢も叶うのかもしれません。

近眼の目も魅惑した土星の輪‐第8夜は星空を見上げて

 12回の放送を予定している「FM-N1夜の讃歌」(月曜24:00~24:30)も8夜を数えるまでになりました。今、夜空を見上げると、尾を引くパンスターズ彗星を見ることが出来るかも知れません。16年ぶりの天体ショーとも言われていますが、これを機会に星の歌を並べてみたいと思いました。

 星の歌といって、一番選びたかったのはあがた森魚の「いとしの第六惑星」です。ただ11分ほどありますので、30分番組には無理、とあきらめました。阿蘇山のカルデラにある夜峰岳で満天の星を眺める情景を歌ったものです。歌詞に出てくる「今宵 ぼうし かしげ 少し」が好きなのです。帽子傾げとは土星の輪のことでしょう。

 私が最初に星の姿を見たのが土星でした。小学校の5年か6年の頃でした。私は近視で、まだ眼鏡をかけていなかったので、夜空の星もはっきりとは見えていませんでした。ある夏の夜、倶楽部活動で天体観測を行いました。望遠鏡をのぞいた時、レンズの向こうに黄色い土星が、絵で見たような輪を少し傾けて、真っ暗な宙に浮いている姿が目に飛び込んできました。

 以来、宇宙の事や星座、ギリシャ神話などに興味を抱くようになり、高校のころはSFが好きになっていました。この体験が「いとしの第六惑星」がお気に入りになった理由かもしれません。もともと、あがた森魚は好きだったこともあります。

 それではと、最初に選んだ曲は加山雄三の「夜空の星」でした。加山雄三は高校時代に、若大将としてモテモテの映画俳優でした。私は趣味が違ったので、1本も映画は観ていません。

 その高校2年の夏休みに、クラスの仲間と能登の内浦海岸へ合宿に出掛けました。夜になって、ふと空を仰いだら満天の星でした。今まで一度に見た星では最も多い数でした。隙間なく散りばめられているようで、感激の一瞬でした。

 2曲目が荒木一郎の「今夜は踊ろう」でした。浜辺の素敵な星空の下で、夜明けがくるまで踊ろう、といった青春真っ盛りの歌です。残念ながら、能登の合宿では踊りはありませんでした。結果として、踊りは年度末の合宿まで持ち越しになりました。

 3曲目は南佳孝の「夜間飛行」を選びました。今では月にまで人が往復できる時代になりましたが、われわれ一般人には、飛行機で空高く飛ぶのが星に近寄れる唯一つの方法です。

 僕が流れ星で、お月さまの君をさらいにいく。カシオペア座まで出掛けよう、という甘い内容の歌です。手の届きそうな空に星の音符を並べたら「夜間飛行」のような曲が出来上がる、と歌っているのです。南佳孝が好きだから、お許しいただきたい1曲といったところでしょうか。

 次に選曲したのが山口百恵の「乙女座宮」です。歌そのものは悪くはないのですが、私の趣味とは若干違います。乙女座の1等星はスピカです。春の星座で明るく輝いています。春の大三角形を構成する星の一つです。スピカといえば「いとしの第六惑星」の歌詞にも出てきます。乙女と掛け言葉にしているのは、なかなかに憎い使い方だ、と思うのは贔屓の引き倒しでしょうか。

 そして最後はいよいよ、あがた森魚の登場です。「星のふる郷」です。

 「破れ空から降る星に 何の願をかけましょか」と歌い始める曲は、すすり泣くような歌い方と相まって、胸が痛くなります。「いえいえあちらは暗い街 空にまたたくネオンが一つ」とは、恋しい乙女が星もなく、ネオンしか灯っていない街に住み、自分とは別世界にいることを嘆いているようです。

 同じ空の下に存在することができない切なさ。そして自分は、別の空の下で、星明かりを頼りに恋文を認めて、叶わぬ願を掛けるのです。哀しい星空です。

 

第6夜は囲炉裏端で建国記念の日

 「FM-N1夜の讃歌」は2月11日(24:00~24:30)で第6夜を迎えました。この日、紹介するため準備していたのはシモンズの「ふるさとを見せてあげたい」でした。

 曲そのものは、自分に好きな人が出来たので古里を見てもらいたい、お母さんに会わせたい、という適齢期の女性の歌で、特に凝ったようなものではありません。ただ、歌詞の中で「春はかげろう麦畑」「夏はひでりのせみしぐれ」「秋はおまつり笛太鼓」「冬はよなべのいろりばた」と続き、再び「春はなの花あげひばり」「夏は川風ほたるがり」「秋は夕焼けあかとんぼ」「冬はこな雪山の音」と季節が繰り返されます。

 この四季を表現する言葉が俳句の季語のようにも聞こえてきて、心地よいのです。第6夜は「ふるさとを見せてあげたい」を中心に据えて構成したい、と思い立った理由でした。

 それでは1曲目を何にするのか? 季語のような歌詞に続けるには、唱歌や抒情歌が相応しい気がして、放送が2月の夜だったことから文部省唱歌の「冬の夜」を聴いてみました。

 そして、歌詞を読んで驚きました。意外な言葉が並んでいました。一番には「囲炉裏火はとろとろ外は吹雪」と、やはり「ふるさとを見せてあげたい」と同様に囲炉裏が登場するのです。しかし、驚かされたのは二番の歌詞でした。「縄なう父は 過ぎしいくさの手柄を語る」「居並ぶ子供は ねむさを忘れて 耳を傾け こぶしを握る」とあったのです。

 これまで二番には、あまり注意をはらってきませんでした。が、この「過ぎしいくさ」とは、唱歌が出来た明治45年のことを思えば日清戦争か日露戦争を指しているのでしょう。しかし、この歌詞を見て、軍国主義だとか帝国主義だとか思うのでしょうか。外国からの侵略を防ぐため、命がけで戦った祖父の姿、国民の想いが詰まっているように感じるのです。もちろん、戦争はないにこしたことがないのは当然です。

 「冬の夜」を聴いているうち、放送日の2月11日が「建国記念の日」であることを思い出しました。当初は、建国記念の日に合わせた曲構成は無理だろうと思っていたのですが、ここで方針転換することにしました。

 続く2曲目は、さだまさしの「防人の詩」にしました。この曲は、映画も観ましたが「二百三高地」の主題歌です。日露戦争の旅順攻防の中での二百三高地での戦いを描いたものでした。スクリーンの中には金沢歩兵第七連隊も登場していました。祖国を守る戦いが、哀しいまでに描かれていました。

 3曲目がシモンズで「ふるさとを見せてあげたい」で、4曲目に森山直太朗の「さくら(独唱)」を選びました。数々の戦いを経て、曲がりなりにも、現在にたどり着いた日本の心を表す桜が歌われていたからです。華やかさより、刹那の輝きを見せる桜を、哀調を帯びて歌いあげる曲だったからです。

 「さくら さくら ただ舞い落ちる いつか生まれ変わる時を信じ 泣くな友よ 惜別のとき」にを聴いていると涙がにじんできました。

 最後の5曲目は浦部雅美の「ふるさとは春です」を選びました。選曲中に初めて知った曲でした。シモンズの「ふるさとを見せてあげたい」と曲想は似ているのですが、浦部の低い声が気持ちよく、心に響いてきます。歌は「思いだして あなたの好きな 故郷(ふるさと)の春を」と結ばれています。

 最後の曲と書きましたが、実はもう1曲用意していたものがあります。西田佐知子の「故郷(ふるさと)のように」です。この歌は、途中で方針変更して挿入した「防人の詩」が7分を超える長さだったために押し出されてしまいました。残念でした。

 それにしても、歌い上げられる曲の意味は最後まで聴かないと分からないことが多いですね。FM-N1ではできるだけ最後のひと言まで放送するよう心掛けているのですが…

「おいらギャングだぞ」に神の角笛

 好きな1曲を中心に据えて、数曲の曲で番組を構成する、とのコンセプトでスタートした「FM-N1夜の讃歌」第5夜(2月4日24:00~24:30)に選んだのは「おいらギャングだぞ」でした。

 この曲は南佳孝が歌っていたもので、お気に入りでしたが2,3年前だったかに突然、女性の声で、FM-N1のラジオから流れてきて、びっくりしました。元歌より、はるかに素敵に聴こえたからです。早速、「小さな喫茶店でアルバム聴けば」の番組を担当しているKさんに尋ねました。佐藤奈々子という歌手であることを知りました。初めて聴く歌声でした。

 それ以来、「おいらギャングだぞ」を中心にして、何か展開できないか、と思案してきましたが候補曲が見つかりませんでした。歌詞の中にある「真昼間からマシンガン」「せなで鳴いてる唐獅子牡丹」から連想するのは「高倉健」「ピストル」「セーラー服と機関銃」などなど、とてもまとまりのある物語にはなりませんでした。

 そして、夜の讃歌に取り掛かるに当たって発想を変えてみました。「おいらギャングだぞ」の舞台として歌われている裏通り、横丁をキーワードにすることを思いついたのです。

 1曲目はN.S.P.の「あせ」にしました。人生という長い一本道を青年が歩き始める。つぶつぶの汗を流しながら一生懸命。人生の目的は「カネや女じゃない」とつぶやきながらも、ゴールは見えていない。この歌詞には昔から共感してきました。もう孫がいても不思議でない年齢になりましたが、いまでもゴールが見えてこないというのが実感です。

 次に選んだのが、甲斐バンドの「バス通り」でした。学生だった僕の前に、バス通りで素敵な女学生が現れる。しかし、愛を貫く勇気のなかった僕がふと、背中を向けた瞬間に、彼女との赤い糸は切れてしまった。君の日記帳のどこにも誓った言葉は残っていなかった、という歌でした。一人で歩いて行くには長い道のりは遠すぎるのでした。

 次の曲にはシャネルズの「街角トワイライト」を選びました。夏に出逢ったあなたの面影を忘れられず、街角で探しまわる、ものですが、ビーバップの歯切れの良さが好きな曲です。しかし、街角の夕暮れは、危険な臭いがする「逢魔が時」です。我を忘れて走りまわれば、非日常の世界に迷い込んでしまうこともあります。

 そして、佐藤奈々子の「おいらギャングだぞ」が登場します。バス通りなど表通りから一本裏道に入れば、そこには別の世界がある、ということに気付きます。私が大学を卒業して社会に出るときには、サラリーマン生活などの時間から時間に縛られる仕事が嫌で、一般社会からはみ出た仕事を選びました。他人が退社するような時間から出社するというような生活を長く続けました。一時は憧れた暮らしでした。

 「おいらギャングだぞ」を受けて選んだのが浅川マキの「ロンサム・ロード」でした。ここで、予期せぬフレーズに出くわしたのです。歌の中では、表通りから外れてきた男が歩き続けています。淋しい思いを抱きながら、迷宮から迷い出られないようです。そして意を決したように、新しい世界へ旅立つのです。その時です、朝の到来を告げる神の角笛が鳴り響くのです。ようやく夕暮れの「逢魔が時」に迷い込んだ非日常から抜け出す朝が来たのです。「神の角笛が鳴り響く」というのは何と素晴らしいフレーズなんだろう、と感激しました。

 そして最後の曲が井上陽水の「帰れない二人」でした。夜に愛をの温もりを確かめ合っていた男女を照らしていた街灯の明かりは消え、空にあった星も姿を消そうとしています。二人に、夢から覚めるように、と催促しているのです。それでも二人は、現実という朝の光の中に立つ決心がつかないのです。二人には神が吹き鳴らす角笛の音が聞こえていないのでしょう。哀しいことです。

 しかし、「おいらギャングだぞ」で番組の構成を終えた私には、確かに角笛が聞こえたようでした。

「白いページの中に」書いた5曲とは?

 1月から始まった番組「FM-N1夜の讃歌」の第2夜は、「白いページの中に」を流したくて後の5曲を選びました。

 「白いページの中に」は柴田まゆみのオリジナルで、手元にも楽曲はあったのですが、今回はあみんのバージョンにしました。オリジナルよりカバー曲の方がお気に入りになることは、ままあることではないでしょうか。新しいところでは「神田川」でしょうか。かぐや姫の方が悪い、ということではありませんが、青春のワンカットというだけのような気がしていました。

 もちろん、フォークソングの中では、国民的に愛されている1曲と言ってもいいのですが、男の独りよがりのようでもあります。そんな時、何気なく中森明菜の「神田川」を聴きました。同じ歌で歌詞も変わらないのに、男の立場ではなくて女の立場から歌われているようでした。青春のワンカットではなく、時間的にも長く引きずるような、人生の中の多くの部分を占めているように思えたからです。

 話は「白いページの中に」に戻りますが、歌詞の中の「長い長い坂道を 今登ってゆく 好きだった海のささやきが」というフレーズが好きだったからです。歌の内容は、別れた直後に、好きだったことに気付く、というストーリーです。でも、もうそれは、想い出のページを楽しい言葉で埋めることができず、白いページのままに残されてしまったのです。

 男女が出会って、愛情が生まれる瞬間はどんな状況なんだろうか、というテーマで、「夜の讃歌第2夜」を構成してみたのです。

 1曲目は、幼馴染が恋人になっていくデュークエイセスの「おさななじみ」を選びました。これも国民的な曲として親しまれています。

 2曲目は風の「海岸通」でした。彼を乗せた船が都会へ出て行く。これまで兄弟のように育ってきた二人だったが、女の方が好きだと告白してしまう。そして、受け入れてはもらえない。「妹のままでいたほうが 良かったかもしれない」と、後悔の一言が口を突く。歌詞の中で好きなのは「別れのテープは切れるものだと なぜ気づかなかったのでしょうか」というくだりです。作詞した伊勢正三らしい言い回しです。

 3曲目は谷村新司の「22歳」でした。「遊びのふりを続けるには 夏は少し長過ぎた」でもわかるように、女は22歳になって、これからの人生を考え始める。「22歳なれば少しずつ臆病者になるわ」と歌いかける。本当の出逢いではなかったということでしょう。「傷を残して 秋の気配になっていく」のは哀しいですね。

 4曲目は「白いページの中に」で、5曲目が南佳孝の「SCOTCH AND RAIN」でした。好きな女をマンションの屋上へ誘ってスコッチを飲む。女は、他の彼氏とうまくいっていないのか哀しい顔をしている。でも男は慰めるだけで、本心を明かせず、降ってきた雨の中で踊る女を見ているだけなのである。愛情は伝わらないのである。

 6曲目は再びデュークエイセスで「おさななじみ~その後」でした。「おさななじみ」は20代の頃を歌っているが、「~その後」は老後の世界へと入っていく姿を歌っている。目出度く結ばれた幼馴染同士の人生である。「おさななじみ」にはこの2曲の間にまだ「続・おさななじみ」があります。が、30分番組の中では紹介するには時間が足りませんでした。また、いつの日か、あなたの余白に書き込む機会があるかもしれません。

「FM-N1夜の讃歌」と「涙のN君」

 1月に入り、月曜日24:00から「FM-N1夜の讃歌」という番組を始めました。

 レコード時代の音楽を中心としながら邦楽、洋楽を問わずに多彩な曲が流れる、との評価をいただいていますが、それでも日ごろ、余り聴く機会の少ない曲や、スタッフのお気に入りの曲などを中心に、30分を構成しております。

 邦楽の選曲ですが、お気に入りの曲ということで、アーチストに偏りが出てくるかもしれません。番組を制作しながら、スタッフでも「初めて聴く曲があった」という声も上がっています。もちろん、リスナーの皆さんの方がよくお知りになっている曲なのでしょうが、久しぶり、というものも多いと思いますので一度、耳を傾けてください。

 1回目となった1月7日(といっても夜の12時)放送分は6曲をおかけしました。

 とにかくお聴かせしたかったのは南佳孝の「涙のステラ」でした。多分、FM-N1でも初めて流れるのではないかと思っています。

 歌詞の冒頭に「映画がはねたら」というフレーズがあり、南佳孝の甘い声も3分足らずで終わります。この曲を紹介するため、映画をテーマにした5曲を前に並べてみました。

 あがた森魚「蒲田行進曲」

 バンバン「いちご白書をもう一度」

 井上堯之「いつでも夢を」

 古時計「ロードショー」

 あがた森魚「ロキシー」の5曲です。

 井上堯之の「いつでも夢を」は2005年に公開された「カーテンコール」の中で、ご自身が出演して、歌っています。元歌は橋幸夫と吉永小百合が歌っていました。それが時を経て、齢を加えた歌手がカバーすると、時代とともに生きてきた曲として、なおさら共感を覚えて聴くことができました。

 井上さんが当時、FM-N1のスタジオで、「朝に祈る」の曲を収録するために来ていただいた折に、「カーテンコール」の挿入歌として教えていただいた曲です。井上さんには、後に放送文化基金賞のラジオ優秀賞を受賞することになる番組「1949年のボレロ」のエンディング曲にするため「朝に祈る」のお願いをしていたものです。ツイン・ギターの演奏曲のため、スタジオで二重録音をしていただいた姿を思い出します。

 古時計の「ロードショー」はデュオの一人、大場弘一さんが石川県の出身であり、私がコミュニティ放送局に携わる前に出会っていました。そのころは青年実業家で、歌手をしていたとは知りませんでしたが、特番制作などでお世話になりました。

 全6曲のうち4曲が、ひいきのあがた森魚、井上堯之、南佳孝で占められました。

 そういえば、昨年末の「FM-N1魂の歌合戦」では、「涙のステラ」がカラオケに入っておらず、密かに練習を重ねていたスタッフの一人は「涙のN君」になっていました。結果も負け組でした。 

 

人生の哀しみ 時に青春

 大晦日と元日の二日間、「追悼・魂の指揮者 宇宿允人~真の音楽は人生の悲しみを謳う」と題したクラシック特番が6時間にわたって放送されました。

 制作したのはFM-N1きってのクラシック通の梅岡和也君。音楽は好きな私だがクラシックと民謡はチンプンカンプンである。何度、宇宿さんの素晴らしさのご高説を賜っても理解できません。それでも一つだけ納得できることがありました。宇宿さんが残した言葉「真の音楽とは人生の悲しみを謳ったものだ…」です。今では座右の銘となっている。

 実は2年前の開局15周年に制作した特番「FM-N1詞華集(アンソロジー) 人生の哀しみ 時に青春」を想いだしている。自分なりに宇宿さんの言葉を理解しながら100曲を選んだものだった。

 よく選んだな、と思う半面、差し替えても良かったかなという曲もある。限られた時間の中で、コメントを切らざるを得ず、スタジオの中で、原稿に赤ペンを入れたものだった。

 百選を紹介しておきます。

 「人生の哀しみ 時に青春」2010年

 1.雪の降る町を(高英男)2.てのひらを太陽に(ボニー・ジャックス)3.SACHIKO(ばんばひろふみ)4.泣いてたまるか(なぎら健壱)5.生きてるって言ってみろ(友川かずき)6.おそうじオバチャン(木村充揮)7.チューリップのアップリケ(岡林信康)8.無縁坂(グレープ)9.旅的途上(たびのとちゅう・河島英五)10.時代(中島みゆき)

 11.人生の並木路(ディック・ミネ)12.友よ(岡林信康)13.夜明けの歌(岸洋子)14.ともだち(坂本九)15.襟裳岬(吉田拓郎)16.希望(岸洋子)17.いい日旅立ち(谷村新司)18.ロードショー(古時計)19.ノー・ノー・ボーイ(ザ・スパイダース)20.I Love You(中森明菜)

 21.ざんげの値打もない(北原ミレイ)22.黒の舟歌(野坂昭如)23.夕暮れ時は淋しそう(N.S.P.)24.気分を変えて(山崎ハコ)25.愚かだね(井上堯之)  26.いっそセレナーデ(井上陽水)27.神田川(中森明菜)28.22才の別れ(風)29.Tシャツに口紅(ラッツ&スター)30.裏切りの街角(甲斐バンド)

 31.さようなら(N.S.P.)32.サルビアの花(早川義夫)33.海岸通り(風)   34.さらばシベリア鉄道(大滝詠一)35.大寒町(あがた森魚)36.サーカスにはピエロが(西岡恭蔵)37.悲しくてやりきれない(ザ・フォーク・クルセイダーズ)38.ひとりの悲しみ(ズーニー・ブー)39.あせ(N.S.P.)40.似あった青春(友川かずき)

 41.時代おくれ(河島英五)42.氷の世界(井上陽水)43.透明人間(ザ・ハプニングス・フォー)44.物語(阿呆鳥)45.思秋期(岩崎宏美)46.20才の頃(かまやつひろし)47.少女(五輪真弓)48.さらば青春(小椋佳)49.わかれうた(中島みゆき)50.夜が明けたら(浅川マキ)

 51.ふるさと(松山千春)52.木綿のハンカチーフ(太田裕美)53.今日の日はさようなら(本田路津子)54.わが良き友よ(かまやつひろし)55.青春(友川かずき)56.オートマチック・パイロット(ウォッカ・コリンズ)57.ハチのムサシは死んだのさ(平田隆夫とセルフターズ)58.無用の介~大河内伝次郎のためのエレジー~(早川義夫)59.花・太陽・雨(PYG)60.伽草子(吉田拓郎)

 61.帰れない二人(井上陽水)62.春夏秋冬(泉谷しげる)63.ペニーレーンでバーボンを(吉田拓郎)64.かもめ(ちあきなおみ)65.フランシーヌの場合(新谷のり子)66.ひこうき雲(荒井由実)67.たえこMY LOVE(吉田拓郎)68.岬めぐり(山本コータローとウィークエンド69.胸の振子(霧島昇)70.十九の春(田端義夫)

 71.大阪慕情(みなみらんぼう)72.真夜中のドライバー(桑江知子)73.胸が痛い(憂歌団)74.SCOTCH AND RAIN(南佳孝)75.プカプカ(西岡恭蔵)76.悪女(中島みゆき)77.君は天然色(大滝詠一)78.ルームライト(由紀さおり)  79.ねぇあんた(ちあきなおみ)80.あいつ(旗照夫)

 81.東京の屋根の下(灰田勝彦)82.梅と兵隊(田端義夫)83.防人の詩(さだまさし)84.一本の鉛筆(美空ひばり)85.星の流れに(菊地章子)86.東京シューシャイン・ボーイ87.青い山脈(藤山一郎と奈良光枝)88.フキの唄(吉田拓郎)  89.織江の唄(山崎ハコ)90.朝日楼(浅川マキ)

 91.夕焼け(高田渡)92.断絶(井上陽水)93.旧友(井上堯之)94.ボクらはいつも片方の靴(ビリー・バンバン)95.言葉(吉田拓郎)96.いとしの第六惑星(あがた森魚)97.そして想い出(坂本九)98.やつらの足音のバラード(かまやつひろし)99.途上にて(みなみらんぼう)100.相聞歌(宇崎竜堂&RUコネクションwith井上堯之

 

お雑煮の曲から始まった家族編

 年末年始にかけて久しぶりに、いくつかの番組を構成してみた。あまり、音楽の知識がないことも相まって、選曲には自分の好きな歌手に偏った感じがありあり。どちらかと言うとこれまでも、FM-N1では あまり流れなかった曲が多い結果となりました。

 その一つが1日午前11:15~正午の「新春リバーサイド・ステーション~家族編」だった。

 とにかく1曲目にかけたかったのがあがた森魚の「君はハートのクイーンだよ」。歌は年末から正月にかけての風景が歌われている。歌詞には「お雑煮」という言葉も出てくるため、元日に流したかったのです。

 歌に登場する男女は若い夫婦のようだったので、以降の曲は家族を歌ったものを選びました。

 高田渡の「系図」、川橋啓史の「山口さんちのツトム君」、真芽正恵の「サニー坊や」、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、グレープの「無縁坂」、坂本九の「親父」、早川義夫の「父さんへの手紙」で、合わせて8曲でした。

 この中で、FM-N1は開局17年を経過しましたが多分、初めて流れたのが「サニー坊や」でしょう。1970年の作品ということらしいのですが当時、ラジオで聴いて、タイトルと歌詞は覚えていました。

 試しに、22万6千枚のレコードを所蔵している金沢工業大学ポピュラー・ミュージジック・コレクション(PMC)で探してみました。なんと「真芽正恵と小さな詩」というアルバムが1枚見つかりました。半信半疑でしたので「恐るべしPMC」という思いを強くしました。それでも見つからない曲が多くあります。何といっても、全レコードが寄贈によるものですから無理からぬところもあると思いますが…

 また「時には母のない子のように」は歌詞が難解です。言葉単純で、具体的描写が少ないためですが、ここで歌われている「母」は、肉体を持つ母ではなく、母集団というように社会的な組織、仕組み、塊を指すのではないかと考えてみました。

 最後の「父さんへの手紙」は最近、好きになった曲です。早川義夫さんといえば、初期の曲しかしりませんでしたが、カムバックした後は、これまで耳にする機会がなかったからです。これもPMCの棚の中から見つけました。

 私が父親を亡くしたのは23年前になりますが、家族関係が疎遠だった父親に愛着を覚え始めたのは、その4,5年前ごろからです。独立して、家を出ていたので、その後も落ち着いて話す機会がありませんでした。「父さんへの手紙」を聴いていると、「もっと話をしたかった」と寂しい気持ちになります。一生の想い出の歌になりました。早川さん、ありがとう。   

菊理媛が水利権を押さえた~癸巳の歳に想う

  2013年が明けました。おめでとうございます。皆様方に新しい可能性、希望が広がる歳になるよう祈念しています。

 干支については詳しくありませんが今年は癸巳(みずのとみ)の歳だそうです。十二支でいえばヘビ年です。日本人の多くがそうであるように、ヘビはなかなか好きになれない生き物です。

 しかし、一方ではヘビは神様でもあります。古来、水神であるとされ五穀豊穣を司ると言われています。奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社=写真下、拝殿=は蛇が神様です。oomiwa.jpgこの神社は三輪山をご神体としています。麓には大和の初期政権の地であるとされる纏向遺跡があります。政権の基盤となる豊饒=財政を守っていたのでしょう。

 大和に限らず、古里の手取川扇状地でも各地に水利を守る神が祀られていたことでしょう。水利権を主張していることになります。

 同扇状地は当初、扇端部の湧水地帯や川の水面より若干高い微高地などで農作物が作られていたと思われます。そこに、大規模開発の手が入ったのが天智天皇の時代であると結論付けられました。

 野々市市末松にある国指定史跡「末松廃寺」の発掘調査結果から分かったものです。製鉄も行い、石くれだらけの扇状地を、鉄製農機具を使いながら乾田化していく。もちろん、灌漑施設を敷設する土木技術も必要になります。まさに、当時の先端技術の塊のような開発だったのでしょう。

 そして、先端技術は、天智朝から派遣された渡来人を中心とした移民が持ち込んだものと思われます。最初の根拠地になったのが末松廃寺付近で、水利の神様を祀っていたのではないでしょうか。開発が進み、開墾地が広がるにつれて取水地は次第に上流に移り、最終的には白山を神体山とする白山比咩神社(白山市三宮町)が手取川扇状地全体の水利を司ることになったのではないでしょうか。

 白山比咩神社の祭神は 菊理媛とイザナギ、イザナミの3柱です。この3柱の神は、日本書紀の黄泉比良坂(よもつひらさか)の場面で出てきます。 菊理媛の神格については諸説があるようですが、水の神ではないかと思っています。

 つまり、手取川扇状地の開発において先端技術を導入したことで、地元の水神たちは大和政権の水を司る 菊理媛に取って代わられたのではないでしょうか。

 もう一つ。癸巳の歳に当たって思い浮かべることがあります。天智天皇が即位したのは668年1月3日のことです。即位の前は中大兄皇子と呼ばれていましたが、皇子の時代に、宮中である飛鳥板蓋宮=写真右、伝承地=で、蘇我入鹿を討ったクーデターを起こし、政治の流れを変えました。645年の事でしたが、その歳は乙巳(きのとみ)です。1368年前となり、十二支でいえば114廻り目になります。

想い出に残る歌をありがとう‐2012墓碑銘として

 FM-N1では毎年、7万曲を超える楽曲をオン・エアしています。それだけ、放送コンテンツとして音楽関係者にお世話になっているわけです。

 またリスナーの方にとっても、人生の節目節目に、それぞれの想い出と重なる曲が多くあるはずです。もちろん、放送局のスタッフにとっても同様です。このため、私達は日ごろから、歌手たちが亡くなった際には、感動を与えていただいたことに感謝して、できるだけ楽曲を紹介しながらご冥福を祈ってきました。

 そして、きょう28日は午後4時から1時間、「想い出に残る歌をありがとう」として、2012年に他界された音楽関係者の中から11人を選んで特番を放送しました。

 その中でも、特に印象に残る歌手は石川進さんでした。

 昭和30年代の初めごろ、ようやく我が家にもテレビがやってきました。そのブラウン管の中で歌っていたのがダニー飯田とパラダイスキングでした。今まで聴いたことがないような音楽に夢中になりました。グループの中でボーカルをとっていたのが石川さんでした。

 ゲスト・ボーカルといった位置付けだったのでしょうか、坂本九や九重佑三子、田辺靖夫らが一緒に歌っていました。石川さんはその後、ソロ活動に移って行きました。

 番組の中では「悲しき60才」「ビキニスタイルのお嬢さん」「オバケのQ太郎」を紹介しました。

 もう一人、本当に残念だったのは小野ヤスシさんでした。司会者としては有名でしたが、歌手としての姿は、あまり人の記憶の中には残っていないかもしれませんが、コミック・バンドのドンキー・カルテットのリーダーとしての姿も忘れられません。

 その後、コミック・バンドとしてはクレージー・キャッツやドリフターズが名を上げて行きましたが、私の一推しはドンキー・カルテットでした。

 FM-N1は、昨日27日が開局17周年記念日でしたがこの間、ドンキー・カルテットの楽曲を探してきましたが、金沢工業大学のポピュラー・ミュージック・コレクションを含めて、見つかったのは「宮本武蔵」1曲だけでした。特番の中ではこの曲を流しました。

 もう一人。歌手ではありませんがアコーディオン伴奏の横森良造さんを何とか紹介したい、と思いました。いろいろな場面で、横森さんを見て、記憶に残されている方も多いはずです。しかし、「何か曲を」と言っても、手元には何もありませんでした。

 苦肉の策として、アコーディオンと同じ種類の楽器、アルゼンチン・タンゴで使われるバンドネオンが浮かんできました。バンドネオンが演奏に使われている楽曲、ということで選んだのがあがた森魚の「夜のレクエルド」という1曲でした。この曲が見つかったことで、特番を制作することができたといっても過言ではありません。

 そして「レクエルド」というのは「想い出」という意味であることも分かり、番組タイトルを「想い出に残る歌をありがとう」に決めたのです。

 このほか紹介した皆さんを紹介しておきます。

 ▼桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」

 ▼伊藤エミ「可愛い花」「ウナ・セラ・ディ東京」

 ▼桜井センリ「五万節」

 ▼安岡力也「遠い渚」

 ▼北公次「夏の誘惑」

 ▼芦野宏「モン・パリ」

 ▼尾崎紀世彦「また逢う日まで」「さよならをもう一度」

 

開局17周年の決意!? 「住みやすさ2位+?」

 FM-N1は12月27日に開局17周年を迎えます。これまでは年末年始の特番と絡めて、かなり長時間の編成を行ってきましたが今年は、できるだけレギュラー番組を重視しながらの番組編成となりました。

 開局記念と冠のついた番組は27日午前10時15分からの「住みやすさ2位+?」(すみやすさ・にいプラス)だけになりました。担当は中村、中島のコンビで、1時間番組だというのに、もう収まりきらない材料を抱えて四苦八苦をしております。当日までに、切り込めるかどうか、正念場を迎えています。

 タイトルになっている「住みやすさ2位」とは、東洋経済新報社の今年度ランキングで、野々市市が全国2位にランクされたことを指しています。新市誕生から1年目での勲章に、FM-N1のスタッフ一同も驚いています。そして「+?」というのは2位に何をプラスしたらトップに躍り出ることができるか、を探ろうという趣旨です。

 もちろん、単純にプラスするものは一つだけ、ということではありません。野々市市当局は何をすればよいのか。市議会の役割は? 住民サイドに求められるのどういったことであるのか、が問われていると言ってもいいでしょう。

 当然、地域に根差し、地域貢献を課題としているFM-N1にも何かを求められていることは当然のことでしょう。番組の中では、野々市の様々な動きに焦点をあてながら、FM-N1の役割を模索することになると思います。しかし、今言って、今出来ることでもありません。

 そこで、FM-N1が得意とする? 中期的な目標を探し当てられれば、番組としては合格点かな、とも思っています。

 思い返せば、10周年のの時は、何も確たる当てがあったわけではありませんでしたが、3年前から「日本一のコミュニティ放送を目指そう」と目標を立てました。例えば広報行政番組(現在の「ホームタウン野々市」)の年間放送時間No.1であるとか、学生の番組参加時間No.1であるとか、多分1位であろうという分野に逃げ道を求めながらの、いささか卑怯な思いを秘めた掛け声であったのも事実でした。

 ところが瓢箪から駒。その年から2年連続で、ギャラクシー賞を受賞、翌年には放送文化基金賞も受賞するなど3年連続で高い外部評価をいただき、無事10周年に着地することができました。

 その例に倣えば、17周年に何か決意することがあれば、3年がかりで20周年記念には華を添えられるかもしれません。(3年のうちに何か言い訳を考える時間も稼げるかもしれません)

 目標とするところは技術革新です。ⅰPS細胞の山中教授の例ではありませんが、「必要は発明の母」ではなく「発明が必要の母」になることも世の中には多いのです。ラジオ放送もその一例です。ラジオ放送がしたいために無線技術が生まれたわけではありません。テレビもそうですが、発明された無線技術を、世のため人のために活かしたものなのです。

 この3年間で起きる技術革新といえば、ラジオのデジタル化がすぐに思い浮かびます。その実像はまだ鮮明になっているわけではありませんが、デジタル・ラジオによる社会システムの革新、新しい地域インフラとしての整備、利用が考えられます。

 絵に描いたように実現できるかどうか。とにかく3年前に当たる開局17周年決意だけはしておきたいものです。

四白流星とエデンの東

 「四白流星」という言葉を知っていますか? 「四緑木星」など生年月日による占いの語調と似ていますが、全くの別物です。

 四白流星とは馬の姿を形容する言葉です。四肢の先が白く、顔に白い斑点、模様がある馬のことを言います。四肢はソックスを履いている、という言われ方をしますし、流星は額に小さくあるものから顔一面に広がるものまで様々です。大きいものは大流星と呼ばれたりもします。

 四白流星のサラブレッドというと、「無冠の貴公子」と呼ばれたタイテイムを思い出します。昭和47年の日本ダービーに、ロングエース、ランドプリンスとともに関西3強として出走しました。私は野武士と呼ばれていたランドプリンスを応援していましたが、優勝したのはロングエースだった。

 ゴール前の直線、芝の上の3騎の競り合いは壮絶で、今でも瞼に焼き付いている。タイテイムは3着だった。

 後に、四白流星のサラブレッドとしてはメリーナイスが初めてダービーを制している。

 この四白流星の馬ジョーイの物語を描いた映画が「戦火の馬」(スティーブン・スピルバーグ監督)で、最近観た映画の中では秀逸の作品だった。

 イギリスで生まれたジョーイが小作農家に買い取られた後、第一次世界大戦で軍馬としてフランスの戦場に赴く。やがてジョーイはイギリス軍からドイツ軍の手に渡り、一時、フランス農家で飼われるが再びドイツ軍に接収される。最前線の戦闘を経て、最後はイギリス軍側へ、そして小作農家の元へ帰ってくる。

 映画は、ジョーイを取り巻く人間模様を描いていくのだが、ラストシーンが旧き良き時代の映画を思い出させた。

 夕焼けで茜色に染まった空を背に、少年に引かれたジョーイが農家に戻るシーンは「風とともに去りぬ」のクラーク・ゲイブルとビビアン・リーを思い出させる。最後に少年は小作農の父親と堅い握手をかわす。

 映画の冒頭、父親は、馬の競り市で、農耕馬を買うつもりが、ジョーイに魅入られて破格の値段で落札してしまう。父親は南アフリカで戦われたボーア戦争に農騎兵として出陣し、戦勲をたてるが、植民地を得るための戦争を恥じてか、息子には話をしていなかった。

 母親は息子に対して「勇敢さを口に出していう人もいるが、胸に秘めておくことが、勇敢でなかった証拠ではない」と話す。これが伏線となって、戦場における勇気が、四白流星のジョーイと絡んで展開されていく。

 最後に少年は、父親の心情を理解し、尊敬の念で握手するのであるが、何かジェームス・ディーンが主演した映画「エデンの東」のラスト・シーンとダブったのである。父親と息子の理解、尊敬できる関係は文学の永遠のテーマなのかもしれない。

 スピルバーグ監督に拍手を送りながら劇場を後にした。

菊理媛についてご指摘、痛み入ります

 先のブログ「黒紫色の花と 菊理姫」をアップしたところ、いろいろな方に目にしていただけたようで、感謝しております。と同時に、粗雑な雑文であることの自覚から恥ずかしい思いもしております。

 そのブログでは、出雲市で発見された新種の黒紫色のツバキ「黄泉(よみ)の黒」の話と、記紀に述べられている黄泉比良坂(よもつひらさか)に登場する 菊理媛(くくりひめ)のくだりから、野々市市にいても興味が湧いてくる、という趣旨でした。

 この後、ツバキ「黄泉の黒」の関係者から、 菊理媛が言葉をかけたのはイザナミノミコトではなくイザナギノミコトである、とご教授を受けました。ただただ感謝する次第です。

 実は、手元には古事記しか持ち合わせが無く、日本書紀に当たることなくブログを書きなぐった実情が露見した次第です。ご指摘をいただいた個所は「日本書紀神代編 第四段 第十」の一書だそうです。

 これまでも、地元の末松廃寺の発掘結果についても、考古学者の吉岡康暢先生(金沢市在住)から教えていただくことが多々ありました。今度は文献の面で教えを受けました。それぞれ、永い人生の中で築かれてこられた業績を、パソコンの前に座ったままで利用させていただく愚者の身をつくづく感じています。

 ご指摘によれば、黄泉比良坂まで来たイザナギ神に対して、黄泉の道を守る者が声をかけ、そこへ現れた 菊理媛が更に、何事かをイザナギ神に言葉をかけたことで、同神は納得して黄泉の国を離れて現世に戻った、というのである。

 つまり、 菊理媛はその読み方の「くくり」から「みずをくぐる」で、水の神ではないか、というのが私の見解でした。

 黄泉の国に立ち入ったイザナギ神が、現世に戻ろうと黄泉比良坂に到ったおり、黄泉の道を守る者に「黄泉の国で身に付いた穢れを持ったままでは現世に帰ることは適わぬ」と言われたのではないでしょうか。

 そこへ 菊理媛が登場して、イザナギ神に祓いを執り行い、「穢れを払ったから、現世に戻っても世の中が穢れる恐れはない」と告げ、同神は納得、安心して戻ったのではないだろうか。「みずをくぐる」とは祓いを指し示すのだろう。

  菊理媛の言葉が書かれていないため、神格については諸説があるのであるが、私は水の神である、と思う由縁である。地元の白山比咩神社の祭神は 菊理媛であるが、もちろん、白山から流れ出た手取川が形成した扇状地を潤す水の神なのである。

 何か、すっきりとしました。そして「黄泉の黒」が24日から、山口県萩市で開催される全国椿サミットに出品されることになったと聞き、嬉しく思っています。

黒紫色の花と菊理姫

 先日のツイッターに黒紫色のツバキが見つかったというツブヤキが流れていた。自然界での黒紫色は非常に珍しいそうです。見つかったのは島根県にある出雲大社の海岸近くにあるヤブツバキの自生林の中でした。

 発見したのは郷土史家で、「黄泉(よみ)の穴」の調査の帰り道だったことから、この黒紫色のツバキは「黄泉の黒」と名付けられ、2月24日に山口県萩市で開催される全国椿サミットに出品されるという。

 「黄泉の穴」というのは古事記に出てくる話の一場面である。

 日本の国産み神話にでてくるイザナギ神とイザナミ神の物語である。亡くなって黄泉の国へ行ったイザナミ神を連れ戻そうと、イザナギ神が黄泉へ行くとイザナミ神が変わり果てた姿になっていたので、一人でこの世に戻ろうとして、黄泉の国との連絡口となっている黄泉比良坂(よもつひらさか)に向かった。この黄泉比良坂が「黄泉の穴」である。

 黄泉比良坂で、後を追いかけてきたイザナミ神はイザナギ神に追いつき、言い争いになったが、その時に現れた 菊理姫(菊理媛=くくりひめ)が イザナミ神に何かを言うとイザナミ神はそのまま黄泉へ戻ってしまった、という。

 この黄泉比良坂に比定されている地点の一つが出雲大社近くの海岸にあり、郷土史家が調査に行き、「黄泉の黒」を発見することになったのである。

 「黄泉の黒」と命名された黒紫のツバキの話題は、その後、FMN1の多くの番組の中で取り上げられた。

 スタッフが「黄泉の黒」と野々市市の間に、何か目に見えない太い絆を感じ取ったからだろう。

 一つは全国椿サミットである。同サミットには野々市市からも粟貴章市長らが参加し、「野々市つばき」が出品されるからである。地名が冠された「野々市つばき」は、黒紫色とは正反対の色である。白を基調とした花弁にほんのりと鴇色(ときいろ=薄いピンク)が透かしたように載っているのである。

 もう一つは 黒紫色の花である。白山にはやはり黒紫色の高山植物ハクサンクロユリがある。

 最後に菊理姫である。この神は、古事記や日本書紀の中には出てこないが、イザナギ、イザナミの両神の間を取り持った、とされている。また、イザナミ神に何か言ったことになっているが何を言ったかは明らかにされていない。また、神話の中でも黄泉比良坂の場面でしか出てこないため、謎めいた神、とされている。

 仲を取り持ったことから「縁結びの神」とか「シャーマンの神」とか言われていますが、もう一つ、「くくり」という読みから、「水をくぐる」、つまり「祓いの神」ともされている。

 この 菊理姫が実は、地元の白山比咩神社の祭神なのである。つまり霊峰白山の神なのである。

 私は、 菊理姫というのは「くくり」という読みから、水そのものの化身、「水の神」として地元の崇敬を集めたのではないかと思っている。

 それは、白山から流れ出した手取川が日本でも代表的な手取川扇状地を形成し、古代において、鉄製農具や灌漑技術と言う当時の最先端技術で開墾を行い、後に百万石といわれる加賀藩における穀倉地帯の中心的役割をになうことになるのである。

 古代の最初の開墾拠点が野々市市にある末松廃寺である。

 末松廃寺の教えを請うた国立歴史民俗博物館の吉岡康暢名誉教授は、乾田農法を支える灌漑の取り入れ口に、水を守る「水の神」を祀ったのが同廃寺ではなかったのか、と示唆されていた。

 以後、開墾地の拡大によって、取水口は次第に上流に上がっていき、現在の七ケ用水の取り入れ口になっている白山市白山町の安久涛ケ淵(あくどがふち)に到ったのではないかと類推できる。安久涛ケ淵付近には、 菊理姫を祀る白山比咩神社の古宮があったとされている。

 石川郡育ちの身には、古里の歴史を知るにつれ、 菊理姫は水の神と思えてならないのである。

 今晩は、全国椿サミットでの「黄泉の黒」と「野々市つばき」の出逢いを夢想しながら雪を愛で、白山菊酒の一つ「高砂」の杯を傾けるとするか。ちなみに、高砂は七ケ用水の一つである中村用水西川のほとりに蔵がある。

20年ぶりの寒波の中で験担ぎ

 今週は20年ぶりの寒波襲来とかで、日中も氷点下の日が続いた。そんな中、最近は、生放送のスタジオの中の様子を知るために、Ustream放送で番組をチェックすることが多くなった。

 木曜日の「今出しづのうらら麗らか」の中で、車が凍った道路でスピンして、道の脇の田んぼに落ちた、という話題になった。けがが無くてよかった、という展開になったが、やおら入試の話題に移った。

 今みたいな入試の時期に、放送で大きな声で「滑った」という言葉を使ってもいいのだろうか? 両親や家族の心境を考えると、控えたほうがよかったのではないかという。

 Ustream放送では、サイマル放送と違って、著作権の問題があって楽曲を流せない。サイマル放送では音楽が流れている時、Ustream放送では番組進行の打ち合わせなどの確認、変更などの会話が流れることになる。

 スタジオの生感覚はUstreamで、音楽を聴くときはサイマルでとアプリを切り替えて楽しむことができる。新しいラジオの楽しみ方になるのではないかと思っている。

 話は戻るが、やはり「滑った」はアウトで、控えた方がよかった、という結論だった。続けて、「今日の献立はかき揚げにしよう」ならセーフだ、と汚名返上の会話が続いた。

 そして、番組が終了に近づいた時、Ustream放送のサイトにあるツイッターのタイムラインに「滑り込みセーフという言葉はアウトになるのか」とツイートが上がった。なかなか判断がつきにくいところだが、番組が終了して、紹介することができなかった。

 滑り込みセーフのツイートは、番組アウトになってしまったのだ。残念。

 しかし、入試に関する験担ぎは、情報としてはよく耳にするのだが、本当の事なのだろうか。昔は、自分のことでいえば無かったような気がする。それとも、両親は黙って験担ぎをしていたのだろうか。まあどちらにしても、受験生活を支えてくれたのには違いなく、感謝である。

 FMN1としては験担ぎより、受験生たちの健闘を心から祈ることにしよう。そう言えば、明日(4日)は立春。寒波も一服するようで五感を澄まし、しばし春の訪れを感じ取ろう。

レコード・ジャングルの中では演歌を食さず

 今、なぜか、FMN1の中ではプチ・インディーズ・ブームである。新人のノゾム君の影響かもしれないがケイスケ君もインディーズに覚醒した感がある。

 そうこうしているうち、27日付けの地方紙HC新聞に「演歌は日本の心~いつから?」という記事が掲載された。大阪大大学院の文学研究科音楽研究室准教授である輪島祐介さん(金沢出身)が著した「創られた『日本の心』神話 『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」がサントリー学芸賞を受賞した、というものである。

 記事で見る限り、輪島さんの主張は大筋で賛意を示せる内容のようである。演歌をかけないFMN1としての主張に似ているからである。スタッフのマサノリ君は「今さら何を」といった表情である。

 マサノリ君によると、日本の歌の原点は大正時代にあるという。大正デモクラシーの雰囲気の中で、政治的な演説から派生した演説歌がその一つで、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)が代表的人物である。マサノリ君は年末の特番で、昨年が大正100年に当たったことから「大正ロマンとはやり歌」という特番を放送した。また、ヨーロッパの影響を受けた旋律からは、同時代に生まれた童話・童謡の流れがあり、後の唱歌につながっていく。

 もう一つの大きな要素がジャズである。代表的な作曲家として服部良一などが挙げられるのではないだろうか。

 つまり、日本の歌の中には演歌的な要素が見当たらないのである。演歌が生まれたのは1970年とされている。フォーク・ニューミュージックの勢いに押されたレコード会社が、これまでのレコードのラベルに印刷されていた「流行歌」を「演歌」に変えたのだという。

 もちろん、演歌の中にも名曲と言われる楽曲がある。しかし、「演歌は日本人の心の歌」という間違ったメッセージに馴染めなかったことなどから、原則として演歌は流さない事にしている。スタッフの側に言わせると、なかなか線引きが難しい、という問題があるのは承知のうえで、演歌は食さないのである。

 新聞記事に戻ると、著者の輪島さんは、中学、高校生であった金沢時代に輸入・中古レコード専門店「レコード・ジャングル」に通い詰めて音楽に深入りすることになったという。実は、このレコード・ジャングル店主の中村政利さんは週イチ、FMN1で「ジャンおぢ」というブルース番組のパーソナリティをしている。昨日も放送したばかりである。

 何か不思議な縁である。

YouTubeで思い出した母と子の絆

 きのう(23日)、スマホでツイッターを見ていたら「時事コム」のつぶやきで、YouTubeの再生回数が1日40億回に達した、というのが流れていた。昨年5月比で25%の増加になっているらしい。

 動画再生が多いのだろうが、私はほとんどが楽曲の検索である。時事コムのせいでもないが、久しぶりにタブレット端末でYouTubeを開いてみた。次から次に渡り歩いていたところ、ある楽曲に目が止まった。40年ぶりぐらいに再会した1曲で、当時はラジオで聴いていただけであるが、旋律も歌詞も思いだした。

 真芽正恵の♪「サニー坊や」という曲で、なぜか当時は、心惹かれていたのだった。数十年ぶりに再会した楽曲で、自然と歌いだせたのは2,3年前のハプニングス・フォーの♪「透明人間」以来のことである。感激そのものである。

 「サニー坊や」は、村で母と二人暮らしの坊やが、病気になった母のために町へ薬を買いに行く内容である。走って走ってお家へ帰る坊や。オレンジ色の太陽は西の空で沈みかけている。全身が茜色に染まった坊やは、宵闇の到来と競うように走り続ける。あたかも命の炎が燃え尽きる刻限が迫っているように… そして叫ぶのである。「僕がお家に帰るまで待っていてね」と。

 40年前の当時も、母と子の絆、二人なら生きていけるが一人になれば生きてはいけない切なさに惹かれたのだったが、今聴くと、情景を天然色で思い浮かべることができる。少しは人間として成長したのかもしれない。

 改めて、YouTube1日40億回再生という凄さを実感したが、金沢工業大学のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)で検索すると、同曲が納められたアルバム「真芽正恵と小さな詩」が1枚だけ所蔵されていた。まさか、という感じだったが一方で、PMCの公式所蔵数20万枚という数字の凄みも再認識した。

 「サニー坊や」を聴きながら、もう一曲別の楽曲も思い出していた。みなみらんぼうが作詞作曲した♪「山口さんちのツトム君」である。

 これは幼児向けの歌である、と単純に思っていたのだが、スタッフの谷川昌則に教えられた。ツトム君が元気がないのは、お母さんがお出かけをしていて寂しかったからで、いくら遊ぼうと誘っても、いつもと違う。お母さんが帰ってきて元気になった、というホノボノとした情景が描かれている。が、歌の底には、みなみらんぼうが、小さいころ母親を亡くした寂しさが漂っているのだと…

 アナログ人間の私にとって、デジタル機器からの思わぬプレゼントを受け取ったようで、こちらの方も少し成長したのかもしれない。

 みなみらんぼうは御贔屓の歌手であるが、残念ながら本人歌唱の「山口さんちのツトム君」は見当たらなかった。一度は聴いてみたいのです。でも一度に多くのプレゼントは受け取る贅沢は許されないのでしょう。次の機会がくることを信じて、楽しみにしています。

カナダ生活42年目の郷愁に応える

 最近、パソコンのある機能にはまっている。FMN1のホームページを管理するソフトなのだが、リアルタイムで、ホームページ閲覧者の人数や、どのページを見ているのか把握できるものである。

 昨日(16日)の午前中、画面を見ていると、世界地図のアメリカ大陸五大湖周辺で緑色の円が点滅した。誰かがホームページにアクセスしてきた合図である。これまで余り見かけない地点であった。カーソルを合わせると「newmarket」と表示された。

 そうこうするうちに、カナダ・オンタリオ州ニューマーケットから1通のメールが届いた。ひょっとして今、ホームページを見ていた人ではないだろうか? 手元に来た文面を読んで、想像は確信に近くなった。

 差出人は、愛知県刈谷市出身の66歳男性で、24歳でカナダに移住。42年間が経過し、年金生活に入っているとの自己紹介であった。数年前から、翻訳の仕事をしながら、ウェブ・ラジオを検索するのが日課になっているようであった。著作権の関係か、あまり音楽が流れないのが残念なようでした。

 ところが先週になって、FMN1を見つけたそうなのです。評して「再放送を含めて24時間、各種の音楽を、面白いゲストと共に多彩な顔触れで、画像も同時に流れてくる。最高のウェブ・ラジオです」。

 メールを読み終わって嬉しくなった。各種の音楽が余程気に入られたのかもしれない。FMN1では演歌は流しませんが洋楽、邦楽問わず、SP盤の時代からオールディーズ、70、80年代から昨今のインディーズまで幅広くオン・エアしているのが的を射たようでした。

 何か、開局から16年、サイマル放送を開始して3年。進んできた道程が間違いでなかった、と言われているように感じたからです。

 刈谷市と野々市市では相当に距離が離れているのですが、カナダからみればすぐ近くなのでしょう。42年間の海外生活がどのようなものかは、私が推し量れるものではありません。が、古里への郷愁があるとすれば、すこしでもそれに応えられたとすれば、コミュニティ放送の役割を果たせたのかもしれません。

 そしてリクエストも寄せられました。ビートルズの♪「レット・イット・ビー」です。日本を離れる時、国内で最後に聴いた曲、ということでした。今日の午前9時からの番組「谷口悦子の暮らし上手に」の中でメールの紹介とリクエスト曲を放送しました。すると、「放送を聴きながら(返事の)メールを書いております」と知らせが入りました。

 このやりとりの中で、FMN1が何か大層立派な放送局になったような気がして肩に力が入っていましたが、最後に、「自分の名前・野々山と野々市市が似ていることが検索の目を引いた」のだそうです。この一言で肩の力が抜け、平常心に戻ってホッとしました。

 それから、素晴らしい放送をずっと長く続けてほしい、と結ばれていました。やっと掌中にできたお気に入りのサイマル放送を手放したくない、という希望に沿えるようスタッフ一同、放送に掛ける想いを新たにしました。

よしだたくろう♪「雪」2分53秒

 今冬一番の寒さとなった12日(木)、足元のストーブを「強」にして、机の前で震えていた。午後2時前ごろだったか、よしだたくろうの「雪」というアナウンスとともに、放送から音楽が流れてきた。

 しかし、耳慣れたよしだたくろうの声とも、歌い方とも違うような気がした。番組のチェックはインターネット・テレビを通してサイマル放送を聴いているのだが、受信機のせいだとも思えない。放送中のスタジオに問い合わせた。居合わせた3人のスタッフも同様の意見だった。

 すぐさまキューシートを確認、楽曲データ・ベースにもアクセスしてCD番号を確認しても異常はなかった。正真正銘のよしだたくろうだった。「雪」はフォーク・グループの猫にも楽曲提供されているが、もちろん猫のものではなかった。

 CDルームの棚からデータ・ベースに入力したCDを見て納得した。それは1970年に発売された最初のアルバム「青春の詩」だった。広島から上京してきたエレック・レコード時代のものである。これまで記憶に残っていたのはライブ・バージョンの曲で、オリジナルについては聴いていなかった、あるいは聞き流していただけなのかもしれない。

 よしだたくろうの歯切れ良さはなく、物憂げに語尾を伸ばした歌い方だった。なにかシャンソン風のところが、アダモの♪「雪が降る」のイメージと重なってしまった。デビュー当時の歌い方が違うことが、あらためて40年以上も続く現役生活の長さ、実績を思い知らされたようだった。

 そういえば、先日のツイッターで、これも御贔屓の早川義夫さんが、ファンの「昔のアルバムの曲、今のライブで聴く。いまの早川さんの歌う方が、同じ曲なのにずっといい」というつぶやきに対して、「僕もそう思う。自惚れではなく、みんな、今を生きているからです」というリツイートを思い出した。

 現役を永く続けて、その時々の表現で歌ってくれるのはファンにとって最高の贅沢といえます。

 生放送中のスタジオ前のドタバタ劇が続くうち、2分53秒の♪「雪」はとっくに終わっていた。体の震えも止まっていた。スタジオでは、生活いち番シャトル便「生活の匠」で、ハウジングスタッフの東原守社長が出演されていたのだが、外の騒ぎがスタジオの中に影響を与えなかったか、反省の一幕であった。

 

「午後11時」の心地よい論議

 きょう(12日)、ペンネーム「野々市市内のうるさい老人」さんから1通のメールをいただいた。番組「黄金の喉は歌い継ぐ~FMN1ゴールデン・スロート」に対してのものだった。放送時間は月~金の午後3時から1時間で、午後11時から再放送をしている。

 パーソナリティーの桑原和江が冒頭に、「今日はどのような1日をお過ごしですか」と語りかけているのですが、メールの方は午後11時の再放送分をお聴きになっているらしく、「お過ごしですか」が耳に障るらしいのです。やはり「お過ごしでしたか」が日本語として相応しいのではないか、というご指摘でした。

 メールの書き出しでも番組名を「Golden Shroat」とされていたので、英語に慣れ親しんだ方だと推察しましたが、後半に、語学学校に通っていた趣旨の話があり、「(当時の先生から)言葉の言い回しで、議論するな。いろんな環境があるのだから」と教わっていたそうですが、午後11時は1日の終わりに近いのであり、古来のカレンダー的には馴染めないらしい。

 もちろん、私も、違和感があるのは承知の上で放送していたので「やっぱり無理があるのかな」と思い直しています。

 一応、FMN1の番組表の上では、1日の始まりは午前5時で、終了が29時(翌朝5時)という、普通の生活の感覚とは違う29時間制を採用している。午後11時というのは、1日の終わりまで、まだ6時間がある、ということになる。しかし、1日の終わりには近くない、というのは強弁というか屁理屈であるには違いない。

 私自身も昔、夕方の5時、6時出勤をしていたことがあります。香林坊でバスを降りると、帰宅する人たちと遭遇します。人の波の進行方向とは逆に歩くのが1日の始まりでした。だからといって、そんな勤務状況が普通のはずはありません。そういった会社に就職していただけのことです。

 コミュニティ放送局とは所帯が小さくても、ラジオ局はマス・メディアの一角を占めています。放送時間は基本的に29時間制で、当たり前のことなのです。夕方に局入りしても「お早うございます」というのが当たり前みたいなところです。

 が、今回のメールは、FMN1に再就職した時の初心を思い出させてくれました。メディアの常識は世間の非常識。FMN1は常識的な放送局になりたい、ということです。今では、夕方にはやはり「こんにちは」、「ご苦労様」とあいさつをするようになりました。

 問題はゴールデン・スロートの「お過ごしですか」です。たった7人のスタッフで毎日24時間放送をしているわけですから、すこしでも作業量を減らしたいというのが本音です。技術的には本放送と再放送分を別々に制作すればよいのですが、口で言ったり、耳で聴いているだけでは分からない程、作業量は増えることになります。制作上の制約が多い番組の一つなのです。

 今後は、スタッフと相談したうえで結論を出すことになります。

 「野々市市のうるさい老人」さんのメールは一服の清涼剤の効果がありました。ともすれば、日常性の中に埋没していく身ですが、ピリっと引き締まりました。リスナーからの耳に痛いお便りは放送局の財産になります。ところで、私も老人の仲間入りをしていますが、この口うるささはスタッフにとって薬になっているのでしょうか…

白門、赤門、黒門と侠気

 先日の番組「キャンパス・アメニティ」に金沢工業大学の石川憲一学長が出演されていました。以前、石川学長がFM-N1の番組審議会の委員をされていたころ、少しお話を聴く機会があり、日本刀を愛するお心があることから「古武士のような風格」と形容差し上げたことなど、懐かしく思い出していました。

 趣味のことや静岡県の出身であることは承知していましたが、迂闊にも、母校が金沢大学とは知りませんでした。トークの合間に、金沢大の前身である旧第四高等学校の寮歌「北の都」も流れました。また、各種競技で対抗試合を行っていた三高(現京都大学)の寮歌「人を恋うる歌」も放送されました。

 金沢大学といえば、学長の名前と同様の石川門が有名です。鉛瓦を載せた白壁の姿から白門(しろもん)とも呼ばれていました。

 白門と言えば、中央大学の代名詞にもなっていますが、こちらは「はくもん」と呼ぶのだそうです。法学部が有名であり、「真実」「潔白」など法律の持つイメージが由縁だそうです。

 「しろもん」は、金沢城を居城としていた百万石大名の前田家が江戸での上屋敷にしていた朱塗りの門が、現在の東京大学本郷キャンパスに「赤門」として残ることから、それと対比して名付けられたのでしょうか? 加賀藩つながりなのですが、金沢と東京の両大学の力量は比較されるに相応しいかどうか、私には判断がつきません。

 そういえば、年末の野々市市誕生記念特番「大乗寺を歩く」の中で、パーソナリティーを務めた坂東茂君が、大乗寺の山門について、黒塗りであることから「こくもん」と自信満々にリポートしていました。試聴の段階で気になったので尋ねました。本人は黒門を普通に読めば「こくもん」だ、と言うのです。倍近く生きている私の感覚では、普通なら「くろもん」です。年代によっては普通の感覚でも違いがあることに、少なからず驚かされました。

 後日、「くろもん」が正しいと知らされ、番組は録り直しをしましたが、固有名詞の怖さを再認識しました。事前に一声掛けてよかった、と胸を撫で下ろしました。

 話は「キャンパス・アメニティ」に戻りますが、三高寮歌「人を恋うる歌」のことです。作詞は与謝野鉄幹であり、CDの歌唱は故人ですが、今も高名な俳優兼歌手の方でした。

 歌詞の二番目に「妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」とありますが、問題は「六分」の読み方です。私は「りくぶ」と覚えていましたが、歌の中では「ろくぶ」と歌っているのです。

 時代によって読み方が変わることもあるのかも知れませんが、違和感を覚えました。ディレクターの方は、相手が高名な歌手であることから、確認を躊躇したのでしょうか? それとも堂々とした歌唱ぶりから「ろくぶ」が正しく、「りくぶ」の方が間違いだと錯覚したのでしょうか? 「りくぶ」が正しいとするなら、確認のために、もう後少しばかりの侠気を発揮する場面だったような気がします。

 

 

匂うものにコウキシン?!

 開局16周年特番「近つ野の市、遠つ野の市~東日本大震災の年に野々市市は生まれた」の放送を終え、年末年始を挟んで、一服感に浸っている。

 番組の中では野々市の「市の力」と、遠く離れた被災地、特に岩手県遠野市、平泉町の「市の力」を紹介した。また、もう一つの近いと遠い意味として、市制施行後の野々市市の「市の力」と、遠く時を隔てた中世、古代の「市の力」まで遡り、地域発展の原点を振り返ってみた。

 また、番組制作を通して一つの言葉に好奇心を覚えた。それは「匂う」である。

 番組の中では、締めのリポートを、スタッフの中村圭佑君が岩手県陸前高田市の奇跡の一本松前から行った。その中で、江戸時代の国学者本居宣長の和歌「敷島の大和心をひと問わば朝日に匂う山桜花」に言及したことに始まります。

 これまでは、「匂う」というのは単に光、光景、姿形であると思っていました。勿論、「匂う=臭う」のニオイでないことは知っていました。もう一つ有名な和歌に「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛りなり」があり、これも花が全盛期に美しく咲くように奈良の都も絶頂期にある、と詠ったものである。

 従って、「朝日に匂う山桜花」も日本人の在り様を、日本人が好む朝の清明な空気の中で咲く山桜の姿に比したもの、と解釈していた。ただ、まだ釈然としない気持ちもどこかに残っていた。

 奇跡の一本松の前でのリポートは7月に出掛けたものだが、5ヶ月後の12月になってようやく腑に落ちた。染色家の吉岡幸雄さんが「匂う」について解説している一文を目にしたからである。少し引用させていただけば「色が映え、美しく、好ましく優れていることを意味し、華やかさ、香り、光までを含んで気高いこと」なのだそうだ。この「気高い」の一言で、「高貴心」いや「好奇心」が満足させられた。

 しかし、もうリポートは取り返しがつかない。消化不良のままの放送になってしまい、悔いが残る結果となった。

 そう言えば、リポートを担当したケイスケ君は以前、「色は匂えど いとをカシ」という音楽番組をしていたが、消化不良を起こしていなかったのだろうか? 歌の歌詞に魅せられ、好奇心一杯で始めた番組だったが、次の改編期を待たずに打ち切りになったような気もするのだが…

考古学者と染織家、二人の吉岡先生

 年末年始の特別編成、開局記念の特番態勢も無事終了し、16周年目の滑り出しも順調に推移している。この間の番組制作を通して、いろいろな方にインタビューや取材でお世話になりました。

 特に、国立歴史民俗博物館の名誉教授である吉岡康暢(よしおか・やすのぶ)=金沢市=さんと、奇しくも同姓の吉岡幸雄(よしおか・さちお)=京都=さんのお二人である。康暢さんは考古学者で、幸雄さんは染色家である。

 考古学者の吉岡さんとは、国史跡の末松廃寺=野々市市末松=の取材が縁となり、もう5年間ほどお世話になりっぱなしである。同廃寺が7世紀後半、当時の中央政権である天智朝の国家的事業として行われた手取川扇状地の開墾における中心的建造物である、という研究成果は、石川県中央部の発展の歴史を一挙に解明した、と言っても良いほどである。

 特に、末松廃寺の遺跡に隣接する上林・新庄遺跡からは製鉄工房の跡や当時の役所跡とみられる大型住居跡も発掘されており、鉄製農具や灌漑技術など当時の最先端技術を縦横に駆使した開発だったことは、地元に住む私たちの古里に対する認識を一新してくれた。

 更に、インタビューの中で、天智天皇と当時の加賀郡の大豪族であった道君の関係についても、朝鮮半島の国際的政治情勢を反映していることを指摘。蝦夷征討のための根拠地を確保するうえでも手取川扇状地の開発は重要であったことを話された。そうした中で明日香から、琵琶湖を臨む大津京への遷都の意味が分かるのではないかと示唆された。

 また、これまで私が、末松廃寺に関する雑文を書いていたのを読まれ「二、三点おかしい個所がある」とご注意も受けました。授業料も払っていないのに指導していただいているようで感謝の気持ちが溢れました。

 最後に、吉岡さんは「末松廃寺は朱仏寺と呼ばれていたが、当時の人は光り輝く仏像を見て朱色と感じたのだろうか…」とつぶやかれてスタジオを後にされたが、朱色のことが心の片隅に引っ掛かってしまった。

 もう一人の吉岡先生は染色家の幸雄さんである。直接面識はないのですが、明後日(1月8日)、金沢21世紀美術館で、幸雄さんが伝統的な和の色の再現に取り組んだ仕事を記録したドキュメンタリー映画「紫~色に魅了された男の夢」上映されるのが縁になった。映画を撮影した川瀬美香監督から連絡を受けました。

 吉岡さんは、京都の染織工房で、植物の染料で布を染め上げ、平安時代の色合いを追及している。

 偶然にも、FMN1のスタッフが、吉岡さんが著した「日本の色辞典」を蔵していたため、年末年始特番のキーワードを「色」にして、番組制作に取り組んだ。

 番組で取り上げた色は幾種類もあったが、茜、山吹、鈍(にび)、韓紅(からくれない)が印象的であった。

 韓紅は、40年以上も前、私が大学受験の際、古文のヤマを張ったのが在原業平を主人公にした「伊勢物語」で、業平の百人一首が「千早ふる 神代もきかず 竜田川 韓紅に 水くくるとは」であったことから、「韓紅に水くくるとは」の番組名で2時間の特番とした。が、内容は「千早ふる」という落語をオチにした。

 また、鈍色とは野々市をはじめとした北陸の冬の空を覆う色で、灰色の雲の代名詞として使用した。何か暗い印象を与えるが、豊饒の源の色として表現したものである。

 北陸の歴史、伝統は鈍色の雲によって形成されたといってもよい。暖流である対馬海流が大陸からの寒気と触れ合って生まれた雲は、白山に雪を降らせ、豊富な水となる。水は山を駆け下って暴れ川となって手取川扇状地を形成した。その扇状地を鉄製農具、灌漑技術という最先端技術によって豊饒の土地としたのである。

 思わぬところで二人の吉岡先生の業績が合体したようで、ウキウキとした番組制作となったのである。

 そこでまた、ムラムラと悪戯心が起ってきた。染色家の吉岡先生の朱色と、末松廃寺の朱仏寺を合体させたら謎は解ける? 「作り話だ」と言って、考古学者の吉岡先生に叱られるのがオチかもしれないが…

 

人生最後のお年玉

  年末年始を、久しぶりにゆっくりと過ごした。昨年末に痛めた腰の状態が思わしくなく、動けなかったというのが本当のところでした。辰年も目出度く明け、やや改善の兆しが現れたので、天気の崩れないうちにことしは一日から、実家の方に年始に出かけた。

 子供や孫たちは翌日に来るというので、米寿を迎えた母と兄夫婦と5人で、落ち着いて話が出来た。もうすぐ全員が年金受給に手が届く年齢となり、そうそう華々しい話題もあるはずがない。

 と、そんな時、腰の痛い母が立ち上がり、部屋の奥から祝儀袋を取り出してきて、私たち夫婦それぞれに手渡してくれた。表には「御年賀」と書かれている。何とお年玉を貰ったのである。40年ぶりのことである。躊躇していると兄夫婦も貰った、というのである。

 母は「これが最後のお年玉になる」。「もう隠し財産はないからね」とあくまでもにこやかだった。

 隣で女房が「泣くな! 泣いたら駄目」と励ましてくれるのだが、言葉が出てこない。随分と我慢していたが、とうとう涙が出てきてしまった。鳴き声は何とか抑えたが、手で拭いた。

 それから、子供のいない私のために、墓の心配や永代供養の奨めなど話してくれた。お年玉同様、これが最後の心配事と言わんばかりであった。

 還暦を過ぎた、というのに、自分がただ馬齢を重ねてきたようである。この後、どんなラジオの仕事をしていけばよいのか? どんな番組を制作していけばよいのか? いろいろな想いもあり、一応の目標もあるのだが、果たして成し遂げることができるのか。真剣に考えざるを得なくなったようである。

 家に帰って、見る初夢はどんな夢か。「永き世の遠の眠りのみな目覚め 波乗り船の音のよきかな」と目出度き回文を唱えつつ、枕を当てたが、初夢は覚えていられなかった。そして、最後のお年玉が、終わることのない回文のように、頭の中をくるくる回っている。

 この袋の口を、いつになったら開けられるのだろうか。

開局16周年特番で一気にジャンプ

 あす12月27日はFM-N1の開局16周年になる。永いようでもあり、短いようでもある。番組編成、改編を担当して14年が過ぎた。これまでの番組、担当者や出演者の顔が次から次へと脳裏に浮かぶ。半年で中止になった番組もあれば、長寿番組として続いている番組もある。

 そんな中で、この1年は濃密な時間が流れた日々であった、と言ってもいい。新年、粟貴章町長(現市長)から、人口5万人達成報告があり、野々市町の単独市制実現が確定しました。民間ベースの市制応援フリーペーパー「のっティ新聞」の発行という事業も大団円を迎えることができた。

 ところが、3月11日、東日本大震災が発生した。ツイッターでM8.8(後にM9.0と修正)と知り、阪神淡路大震災(M7.2)を思い出した。当時の光景が忘れられないが、その数100倍の力である。20年ほど前、原発の取材を経験したこともあるが、その知識が少しでも役立つとは思ってもいなかった。

 スタッフの中から、震災現場へ支援に出かけたい、という熱い言葉を聴いた。4月中旬、東北へ向かった。「N1いぬわし隊」を結成、午前零時に車で出発し、一泊二日の日程で、帰着したのが深夜だったから丸二日の支援行だった。

 磐越自動車道から東北自動車道へ。盛岡から閉伊山地を抜けて宮古市へ。災害FM局を訪れた後、「万里の長城」とも言われた田老地区の大堤防を見た。堤防の向こう側に広がる穏やかな三陸の海と、根こそぎ破壊されつくした田老の町並みの対照はショックだった。山手には三陸鉄道の電車が走って行った。

 次は塩竃市へ。FM局が津波に流された「ベイ・ウェーブ」は市役所の4階、自衛隊の対策本部の狭い会議室で、住民のために臨時機材で放送を続けていた。

 支援物資を下した頃は、とっぷりと日が暮れていた。仙台市周辺や宮城県内には宿泊できる施設は残っていなかった。やむなく隣県の山形市で一泊した。翌日は、再び宮城県の石巻市へ。渋滞が発生しており、ラジオ石巻に支援物資を渡し、インタビューを終えた後は一路、野々市への帰路に就いた。

 還暦を過ぎて、2千キロを走るなど想像だにしていなかった。

 7月には再び岩手県へ、東北へ。陸前高田市の奇跡の一本松の前でリポートを行った。海岸べりでは警察官による行方不明者の捜索が続けられており、がれきは更に、うず高く積み上げられていた。遠野市の本田市長にインタビューし帰ってきた。今度は1600キロで済んだ。

 11月11日には、野々市市がスタートした。

 また、この1年は、新しいスタッフ3人を迎えることが出来た、という幸運も重なった。橋本、坂東、中島の3人で、それぞれが得難い特性を持ち合わせている。N1の可能性が一気に高まった。16周年記念番組の制作にも積極的に取り組んだ。

 27日は午前9時から、特番「野々市色に染め上げる」を放送する。野々市市誕生も記念し、N1が新しい市を野々市ブランドに染め上げるお手伝いをしたい、という意気込みを伝える。

 同特番は、サイマル放送でもお送りしますが、UStream放送でも生中継します。

 また、正午からは、特番「近つ野の市、遠つ野の市~東日本大震災の年に野々市市は生まれた」を放送します。一生忘れられなくなるであろう1年をまとめました。

 一方、午前11時からはUStream放送特番「素顔を見せて」をお送りします。FMN1の素顔、スタッフの素顔をお見せします。

 地域に密着したサイマル放送のコミュニティ放送局として、ジャンプ出来る手ごたえを感じられるラインナップが並んだFMN1の年末年始の番組を用意できた、と思っています。

 

人の苦しみ、悲しみを癒す光と音楽

 宇宿允人(うすき・まさと)という指揮者をご存知でしょうか。余程のクラシック・ファンでない限り、名前を知らないと思います。実は私もそうでした。後輩のUさんから「魂の指揮者だ」と教えられたのですが、音楽には詳しくなくとも、宇宿さんの言葉に激しく魂を揺さぶられました。

 「真の音楽とは人生の悲しみを謳ったものだ。だからこそ人の苦しみ悲しみを癒すことができる。何より偉大な芸術作品とは人間である」

 以後、この言葉を「FM-N1音楽の心得1」として、常に想いを寄せていた。N1の番組表は29時間制である。午前5時から一日が始まり、翌日の午前5時(29時)に終わります。一日の最後、午前4時58分から、宇宿さんの指揮による「君が代」をステーション・コールサインと同時に流すようにしている。心が澄み、威儀を正したくなるような国歌である。

 昨年暮れの開局15周年企画、「FM-N1詞華集(アンソロジー)」では第1篇「人生の哀しみ 時に青春」と題して邦楽100曲を編んだ。

 そして、今日(4月23日)になってUさんから「宇宿さんが東日本大震災前の3月5日に亡くなっていた」と知らされた。存命中に番組企画を放送できたことは、なにかしらホッと息をつくことができたような感覚にさせられた。

 そしてまた、東日本大震災に際して、被災したコミュニティ放送局、災害FM局の支援のために4月15、16日にかけ東北地方を回ってきたN1いぬわし隊の活動を振り返った。

 震災発生から1ヶ月経ち、被災者の心を慰めるため、少しでも音楽を聴かせたい、との想いがあり、約5万曲のデータが入ったハードディスクとパソコンなどを提供するのも活動の一つだった。被災局の一つであり、局舎が大津波で流された宮城県塩竈市のコミュニティ放送局「ベイウェーブ」を訪れた時のことだった。

 スタジオは本社を離れ、市役所の4階に置かれていた。スタジオと言っても四畳半もあるかないかの小さな部屋だった。4階には、他に自衛隊の第二中隊指揮所があるだけだった。

 到着したのは夕暮れ時で、次第に廊下は暗闇に包まれていった。救援物資を廊下に並べ、放送が一段落するのを待っていた。スタジオの中からは必死に、生活情報、避難情報を伝えるアナウンサーの声が、ドアと床の隙間から、スタジオの明かりと共に漏れてきた。被災者の苦しみを救う希望の声と明かりであった。

 指揮所から出てきた自衛官が廊下の明かりを点けてくれた。被災者のことを思うと、何か申し訳のないほどの明るさに感じられ、恐縮してしまった。

 放送が終わり、スタジオのドアが開いた。中には長机2本の上に置かれた機材が見えた。狭い中に、スタッフが4人も入っていた。 

 音楽のデータベースを渡すと「ベイウェーブ」の責任者は、「被災住民のために生活情報を流さなければならない。まだ、音楽をかけられる状態ではない」と、申し訳なさそうな返事だった。

 しかし、「真の音楽とは人の苦しみ悲しみを癒すことができる」という宇宿さんの言葉を信じているN1いぬわし隊はそのまま機材を置いてきた。「きっと、もうすぐ音楽が必要になる」という言葉は呑みこんだままに…

N1いぬわし隊が見たルービックキューブ

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東日本大震災による災害FM局の支援のため、東北地方に向かったN1いぬわし隊は、被災地で、心に強く印象付けられた光景に出遭った。

 4月15日のことである。国道106号から宮古市(岩手県)へと車は進んだ。山手から緩く下っていく私たちの視界には、特に震災の被害のようなものは目に入らなかった。

 みやこ災害FMは国道筋のビル3階にあった。2,3年後のイベントFMを準備していたのだが、震災によって急遽、ボランティアの手によって災害放送局として開局したのである。

 会議室のような一室のドアをそっと開けると、窓際の一角をパーティションで囲み、小さなミキサー卓を置いて、ボランティア・スタッフが一生懸命に地域情報、生活情報を流していた。開局直後は多くのボランティアが詰めていた、というが、震災発生から1ヶ月を過ぎ、やや落ち着きを取り戻していた。支援物資として要望の強かったA4用紙などを渡した。

 少し手隙の時間が出来たので、同市田老地区の様子を見に行くことにした。田老地区とは、昭和8年の昭和三陸地震による津波被害の体験を基に、高さ10メートル、延長2800メートルの津波堤防を十文字に築き、町を守ってきた場所である。

 ビルを出て、再び車で港の方へ向かった。ところが、傾斜が平坦になる交差点を境に、様相は一変した。JR山田線の宮古駅周辺は土がむき出しで、何もなくなっていた。交差点の角にある4階建ての市役所は津波に襲われて、使い物にならなくなっていた。聞けば、ビルに亀裂、ひびは無く、地震には耐えたものの津波に押し流された、というのである。宮古市内では、木造の建物も含めてほとんどが津波被害であったという。

 地震の発生から1ヶ月を過ぎたのだが、道路上からは瓦礫が取り除かれていたが、沿道の住宅などは無残な姿を晒したまま。破壊された車は積み上げられ、漁船も残されたままだった。田老地区に向かう交差点では、北海道警の警察官が手信号で交通整理をしていた。横断陸橋の下には、軽四乗用車がガードレールに半分乗り上げるように潰されていたが、通行に支障がないためか、放置されていた。

 いよいよ田老地区へ入った。道路脇の谷の深い部分まで波が押し寄せた痕跡が残っていた。

 市街地に入った。市街地であった場所という方が正確である。道路が開けられていたため、区画の形が残っている。が、そこには瓦礫と化した建物が数棟。車、漁船が見えるだけで、ただの空き地になって見えた。

 車を降りて、海の方へ歩き出した。足元に「寅」と印刷された去年の年賀状が落ちていた。よく見ると、束が土砂に埋まっている。更に進むと、上半分が無くなった軽四トラックが区画の中に置かれ、荷台にはルービックキューブが1個、ちょこんと置かれている。砂がきれいに取り除かれ、赤、黄、青、緑などの色が鮮やかである。土砂に埋まった周囲の、褐色の風景の中では異様に輝いて見える。

 その先には、きれいに泥が拭われたギターが立てかけられていた。立てかけられたハコには「4/3 O.K」と赤いスプレー文字が書かれていた。そこで、やっと気がついた。被災者、行方不明者の捜索をした自衛隊員らが、残された家族らのために、人目につくよう並べていたのである。想い出の品が一つでも、関係者の手に渡るように… 家の跡にそのまま置けば持ち主が分かるからである。

 日が経てば経つほど、こうした捜索を続ける自衛隊員の心根に胸が熱くなってきた。

 十文字の堤防に囲まれるようにして立っている宮古市田老野球場まで行った。スタンドのベンチ型椅子には砂と流木が陣取っていた。野球場前の土砂の中から、鯉のぼりの尻尾が顔を出している。本当なら土砂の波ではなく、遅い春の風の中で泳いでいたのだろう。

 帰り道、防波堤の下を通る道路に設けられた非常用の門扉に差し掛かった。脇にひっそりとお地蔵様が佇んでいる。誰が置いていったのか、と思うと、堤防脇に、多くの墓石が打ち寄せられていた。共同墓地でもあったのだろう。犠牲者の冥福を祈るために、門扉の所まで運んできたのだろう。

 お地蔵様の顔付は、ひたすらに優しかった。

 

 

 

N1いぬわし隊が被災地支援2000キロの旅

 東日本大震災で想像を絶する規模の被害にあった被災者のみなさんには哀悼の意を表するとともに、復興へ向けて奮闘する姿に尊い姿を見る思いがしている。

 その中で、被災地の地域情報を伝える地元のコミュニティFM、臨時災害FMのスタッフも、自らも被災者でありながら、厳しい環境の中で放送を継続している。こうした災害放送局を支援するためFM-N1ではスタッフ3人が「N1いぬわし隊」を編成し、15,16の両日、岩手県、宮城県の放送局を訪ねた。

 今回の支援活動は、金沢工業大学との共同事業として実施したほか、FM-N1も参加しているコミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス(CSRA)の支援事業の一環でもあった。

 最大の目的は、これから長期にわたって被災者の集団避難生活が予想される中、復興へ向けたコミュニティ意識の保持を目的に、サイマル放送で支援する枠組みの確立がCSRAに求められているからでした。それぞれの災害FM局に対して説明をすることでした。

 一方、各地の災害FM局の中には放送機材を津波で流された局もある。また少ないスタッフで、被災者のために、長時間にわたって地域情報を流し続けることで疲労の極限に達しつつあります。

 このため、CSRAはスカイパーフェクトの衛星経由で音楽を配信し、放送継続を支援しようとするもので、パラボラアンテナの設置と、サイマル放送用のパソコン設置と回線接続を行いました。

 N1いぬわし隊は、CSRAとは別に、N1がデータ・ベース化していた約5万曲の音楽ファイルと、金沢工大から借用した再生用のパソコンを持参し、放送機材への接続を行うというものでした。また訪問する災害FM局から事前に要望のあった救援物資も運んだ。

 いぬわし隊がFM-N1を出発したのは、正確には14日深夜の12時前、北陸自動車道から新潟で磐越自動車道に、福島・郡山ジャンクションから東北自動車道に乗って盛岡南まで。そこから一般国道106号線を使い、最初の目的地である宮古市に着いたのが15日午前11時40分ごろであった。支援物資を下ろし、被災の現場を視察。また、災害臨時放送局である「みやこ災害FM」のスタッフにインタビューも行った。

 宮古市を離れた後は、もと来た道を引き返して東北自動車道を経由、宮城県の塩竈市へ入った。コミュニティ局の「ベイウェーブ」はスタジオが水没して放送機材が流され、市役所の4階に臨時スタジオを、屋上に臨時のアンテナを設置して放送を継続していた。ここでも救援物資、5万曲の音楽ファイルとパソコンを手渡した。市役所を出る頃はすっかり暗くなっており、午後7時半前だった。

 あとは宿泊地の山形市へ。仙台市や周辺では、ホテルが被災したり、被災者の避難先になっていたりで宿泊が不可能になっていたからである。午後9時過ぎにはホテルに入ることができた。

 翌日15日は午前8時半に出発。再び東北自動車道を北上して、壊滅的な被害を受けたとされる石巻市(宮城県)へ。渋滞に巻き込まれながら、「ラジオ石巻」に到着したのが午前11時過ぎ。やはり救援物資、音楽ファイル、パソコンを渡して、インタビューもお願いした。

 正午過ぎに放送局を辞し、帰路に着いた。FM-N1に着いたのが午後8時半頃。およそ44時間、約2000キロの旅であった。

被災地に届け、音楽の力

 4月1日は番組改編の日である。新番組はそれぞれのアイデアを凝らし、構成に工夫を重ねながら順次スタートしていく。しかし、私たちにとって、いつもの改編と違うのは東日本大震災の発生の中で、その日を迎えた、ということで、いつにも増して厳粛な気持ちにさせられている。

 そして今、私の心の中には、番組改編で姿を消した一つの番組に対する思いが駆け巡っている。

 このブログも書かなくなって久しい。いつまでも古い人間がでしゃばるのではなく、後輩に後を託したい、との思いがあったからである。が、被害の凄まじさを目の当たりにし、仲間のコミュニティ放送局が被災しながら、国民のために奮闘している時、幸いにも被害から免れたコミュニティ放送局は被災者のために何ができるのかを自問してみたからである。

 その番組はスタッフのT君が3年間続けてきた「回って歌って80年」である。日本でレコードが誕生してから以降の曲を一枚ずつ放送していくものである。合言葉は「あなたが失くしたレコードが、この中にありませんか。見つけてみませんか」というもので4,717曲をオン・エアした。

 私自身はザ・ハプニングス・フォーの「透明人間」を見つけてもらった。これまで、どれだけ探しても見つからなかった曲である。特に頼んでいたわけでもなかったので突然、ラジオから流れてきた時の興奮は今でも忘れられない。

 想い出に残る曲がもう一つある。全く知らず、番組で初めて知ったものである。井上起久子の「春の唄」である。iPhoneで番組を聴きながら、朝の散歩をしていた時である。ヘッドホンにSP盤のノイズが入ってきて「♪桜の咲く国 サクラサクラ 花は西から東から…」の歌声が聴き取れた。生まれて初めて聴く曲だったが、心に突き刺さった。

 桜の花はやはり、日本人の心に訴えかける力を持っていることを実感した。そして桜の季節を前にした3月11日の大震災である。きっと被災者の心にも力を与えるものと信じている。

 桜の歌といえば、もう1曲を思い出す。これはスタッフのN君が番組「色は匂へど いとをカシ」の中でオン・エアしたもので、被災地・岩手県出身のグループN.S.P.の「弥生つめたい風」である。

 3月の桜、4月の桜、5月の桜が歌われているが、東北地方に桜が咲くのは4月、5月である。遅い桜であるが多分、その頃はまだ、復興の道半ばであろう。残念ではあるが、遅い桜が被災者の力になることを信じているのである。

 それと、被災したコミュニティ放送局の人たちである。災害の時ほど住民のために情報を伝えなければならないのであるが、通信網も絶たれ、機材も流され、スタッフが被災した中で、孤立しながらも使命感に押されるように放送を維持しているのである。

 そんな時、人づてに、放送する番組制作もままならない、というSOSが入ってきた。FM-N1も他の有志のコミュニティ放送局と一緒に、番組をMDに入れて送ることにした。音楽番組の前に、被災地に対するコメントを加えたもので、「回って歌って80年」を22本分、「黄金の喉は歌い継ぐ~N1ゴールデン・スロート」6本の17時間分である。

 ただ心配なのは集荷、配送網が完全には復活していないことである。いつ被災局に到着するのか、無事に到着するのか、祈るような気持ちである。

映画人は偉い、ラジオ人も・・・、虎も・・・?

 アメリカの女優オードリー・ヘプバーンの幻の切手が5000万円で落札した、というニュースが流れていた。

 ヘプバーンといえば映画「ティファニーで朝食を」や「ローマの休日」などで、亡くなった今も、日本でも人気は高い。「ティファニーで朝食を」は映画もさりながら主題歌の「ムーン・リバー」でも有名である。

 今回落札された切手は、ティファニーで朝食をの主人公の写真をデザインしたもので一旦、印刷されながら肖像権をめぐる問題から廃棄処分されたため幻の切手とされていた、という。

 遺族が競売にかけ、お金はユニセフに三分の一、オードリー・ヘプバーン子供基金に三分の二が寄付された、と伝えられている。虎は死して皮を残す、というが、映画人も死してなお社会貢献に寄与する。偉いものだと、ただただ感心するばかりである。

 そうこうしていると、次の競売のニュースが流れてきた。今度は「007」、ジェームス・ボンドである。と言っても主役は車である。「ゴールド・フィンガー」や「サンダーボール作戦」で使われた銀色のアストン・マーチンである。

 落札額は3億円、という。慈善団体への寄付のため手放すことにしたらしい。本当に映画は後世に残る財産なのである。そして、ニュースによると、アストン・マーチンを競売にかけたのはアメリカのラジオ局経営者であるという。ラジオに携わるものとして、何か誇らしく思えてくるから不思議である。

 もちろん、FM-N1にもこういった財産があれば躊躇なく競売にかけるところだが、残念ながら持ち合わせがない。私は寅年なのだが、虎よりも劣ることになる。しかたなく地道に、放送を通して地域貢献に励むしかないのである。

 負け惜しみを言いながら、ちょっと斜めに構えて見た。そうか、買うほうも、金満家のコレクターと見られるより慈善事業のためと言えば買いやすいのではないか、と。しかし、海の向こうでは、慈善事業に協力する人は社会的地位が高い、とも聞く。やはり志の問題なのだろう。

 一転して我が国では、慈善事業に対する意識が希薄で、十分認知されていないのではないかという気がしてきた。こども手当の現金支給、税金投入による社会保障論など政治の具と化しているのではなかろうか。もちろん社会制度の充実は緊急の課題かもしれないが、前提となる互助精神が摩滅していることにも関心を向けなくてはならないのかもしれない。

比良八荒と琵琶湖周航の歌

 毎週金曜日の午後1時半から同2時半は、「命の躍動」をテーマにした「生活いち番シャトル便」の時間で、第三週は俳人の西田さい雪さん(金沢市)がパーソナリティを務めている。

 10月15日も高浜虚子の名句の紹介で始まった。

 私なんぞも、拙い日本語の足しにならないかと、耳を傾けるようにしている。番組が進み、トークの間の挿入曲として六文銭の「比叡おろし」が流れた。古い歌を選曲したものだ、と思っていたのだが、その裏にはさすが俳人と思わせるような、なかなかの話が隠されていた。

 おろし(颪)というのは、高い山から吹き降ろす冷たい風のことである。野々市であれば、白山颪である。初夏の頃、白山から吹き降ろす風が、野々市の米を旨くするのである。

 しかし、西田さんは気象予報士ではなく俳人なのである。

 比叡おろしは、そのままでは季語にならないが、別称である「比良八荒(ひらはっこう)」を使えば季語に当たると言うのである。何と、季語そのものをテーマにした曲だったのだ。俳句の歌といえば、吉田拓郎の「旅の宿」ぐらいしか思いつかないのだが、「ひとつ俳句でもひねって」という訳にもいかない体たらく。歌の世界も奥深い、と痛感させられたのである。

 調べてみると、比良八荒というのは、天台宗の行事の一つであり、3月26日に執り行われる「比良八講」が語源らしく、同行事の前後に吹く比叡颪のことらしい。

 そこで、思い出したのが「琵琶湖周航の歌」である。以前、ブログに書いたこともあるのだが、第三高等学校(現在の京大)の漕艇部が練習中に遭難、全員死亡したのである。今津の沖であったらしい。しかし、三高の場合は大正6年6月のことであり、原因となった強風は比良八荒ではなかった。

 もう一つ。昭和16年4月6日、同じ湖面で、第四高等学校(現在の金大)漕艇班の練習中にボートが転覆、三高生3人を含めた11人が遭難し、死亡している。これはまさに、比良八荒の強風が原因だったのである。

 遠い世界のような俳句ではあったが、番組を通じて、身近に感じられた一瞬だった。さまざまな出来事が一つに結び合う。遭難と言う厳しい出来事であっても、何か体の中を熱いものが駆け抜けていった。

 西田さんに感謝するとともに、他の分野でも達人のパーソナリティがそろった番組「生活いち番シャトル便」を続けてきて良かった、と思わされた。年末で、開局15周年を迎えるFM-N1だが、シャトル便は開局以来の長寿番組でもある。

 

 

国勢調査は政治と直結? 野々市の奇しき縁

 ようやく国勢調査が一段落した。古代から、国の根幹が戸籍にあるのは言うまでもないことである。今回から調査票の回収方法が変更になったのだが、便利になったというのか、御座なりになりつつあるのかは今後の動向を注視するしかない。が、我が家(金沢市)の調査票の配布の仕方を見る限り、国の礎が揺らいでいるのではないか、危惧を覚える次第である。

 調査票が届いたのが9月30日の夜7時半過ぎだったと思う。仕事から帰り、マンションの玄関を入ろうとしたら、調査員がいた。何も言わないので、当方から「調査票の配布ですか」と尋ねたら、部屋番号を聞かれた。答えると、「ポストに入れて置きました。中の緑色の封筒で送ってください」とにべもない。頭から回収する気がないようだった。

 長期政権の首長が座り続ける自治体の緩みか、と思わされる。

 それに引き換え、野々市町はどうであろう。なにせ、今回の国勢調査で、人口5万人をクリアすれば悲願の単独市制が実現するわけであるから必死であった。取り分けアパートなどの集合住宅、単身世帯が多いのが調査票回収の弱点であるから無理も無い。

 結果は来年2月ごろに発表される速報値を待たなければならない。そこで、悩ましいのが来春の統一地方選挙である。2期目を迎える粟貴章町長にとっては信を問われる格好であり、市制移行となれば初代市長となるわけである。また今回の統一地方選から、県議の選挙区割が変わり、野々市町からは県議2人が誕生することになる。現時点では3人の立候補が取り沙汰されているが、市制の行方次第では微妙な影響がでるとの見立てもある。

 ところで、選挙はさておき、市制実現を占う国勢調査が今年実施されるのは、野々市町にとっては何かの縁なのかもしれない。

 というのも、昨年11月に、同町で国指定史跡の末松廃寺に関するシンポジュームが開催されたばかりであり、最新の研究成果として、同寺は手取扇状地の開発に関わる中心的建造物であり、天智天皇の政権下における国家的事業として取り組まれ、屯倉となった可能性が高い、とされたからである。

 天智天皇とは中大兄皇子であり、乙巳の変、大化改新を経て天皇の位に就いたのである。そして、「庚午年籍」という全国を対象とした日本最古の戸籍を編み、「漏刻」という水時計を造っている。暦と時間を手にしたわけで、国を統治するための必須条件とも言われ、国政と直結していたのである。同天皇の時代が古代日本の成立とみていいのではなかろうか。

 勿論、律令が制定されるのは後の持統天皇の時代であるが、実質的な国家であった、と思っている。

 そして、末松廃寺の建立が西暦660年過ぎであり、庚午年籍が編まれたのが同じ頃の670年である。野々市町でも、最初の戸籍調査と同時進行で、戸籍に基づいて課役され、北陸最古の仏教寺院である末松廃寺が完成していくのである。

 戸籍調査と国勢調査。新しい野々市の出発点になる、という点でも奇しき縁であろうか。 

工大祭をマルチメディア配信へ

 1964年の東京オリンピック開会式を記念して、10月10日が祝日「体育の日」となって久しいが、最近はハッピー・マンデーといういかがわしい発想で月曜日が体育の日となっている。今年で言えば10月11日である。それは、開会式が晴れなければならないため、天気予報の特異日10月10日を選んで開会式の日程が決まったのである。

 ところが、発想のいかがわしさなのか異常な天候不順のせいかは定かでないが、今年は雨模様であった。ねんりんピックも水が差されてしまった感がある。

 ただ、FM-N1が気にしているのは「体育の日」の天候ではなく、10月23、24日の「工大祭」当日の天候である。例年とは違った企画をしているからである。10月改編のタイムテーブルにも書いてあるように「未来型のマルチメディア・ラジオ」を目指すからである。変わったことをすれば雨が降る、とならないように祈願している。

 今年の工大祭は弟43回の開催となり、テーマは「UP,UP,UP!」である。これをマルチメディアで配信しようというのである。

 まず当然ながら、地上ラジオ波による放送である。2年目に入っているWebによるサイマル放送ではパソコンで聴けるのはもとより、画像配信も行っている。今春からはiPhoneによる携帯モバイル配信も始めている。それに加えて、初の試みとしてUStream配信を行うことにしている。UStream用のカメラ2台を加えて、サイマル放送とは別建てで動画配信をする予定なのである。

 そして、UStream配信は、金沢市近江町市場前に設置されているパブリック・ビューでも映し出す予定である。W杯南アフリカ大会でサポーターが集まって応援した場所である。

  工大生のウエーブ・プロジェクトのチームは、今年も2日間で8時間の特番「届け!あなたの恩返し。恩のゆくえをオンエアー!」を仕込中で、手ぐすねひいている。

 ラジオでは23日(土)午前9時~同10時。午前11時~午後1時。午後3時~同6時までの合計6時間。24日(日)は午前11時~午後1時までの2時間である。もちろん、サイマル放送、iPhoneでも視聴可能である。祭り会場のサテライト・スタジオのCステーションからも随時放送する。

 UStream配信ではウエーブ・プロジェクトの特番とCステーションのほか、祭り会場内とFM-N1のスタジオの2元中継で独自放送を配信する。同窓会である「こぶし会」恒例のこぶし庵も取材予定で、全国の卒業生から寄せられた特産物の数々を紹介する。

 また、忘れてはならないのが穴水湾自然学苑(穴水町)から工大扇が丘キャンパス(野々市町)までの100キロ歩行中継である。

 昨年までは、ウエーブ・プロジェクトの学生が電話による中継を行っていたが今年は、電話中継に加えて、中継カメラを配置して、スタートからゴールまでの模様を動画で配信する。卒業生の朝食差し入れ、寮やアパートのおばちゃんたちによる応援風景も映し出されるかもしれない。

 天気予報を非常に気にしている事情も分かってもらえると思っている。

 これだけの大風呂敷を広げてはみたものの、なにせ初の試みである。果たして順調に進行するものか、アップアップしてしまうのか。工大祭のテーマが「UP,UP,UP!」だけに嫌な予感もしてくる。やはり天気予報と同じく神頼み、としよう。

「悲惨な戦い」は終わるのか?

 大相撲が、野球賭博を巡って、大揺れに揺れている。昨日(6日)はNHKが名古屋場所の中継中止を決めた。この事態は、単にテレビ桟敷が無くなるかどうか、といった問題ではなく、大相撲の将来に暗雲が垂れ込めた事を意味する。

 このような事態を憂いたのか、12日(月)放送の番組「フォークとナイフ」で、なぎら健壱の「悲惨な戦い」が選曲されていた。

 大相撲をテーマにした曲で、取り組み中に力士のまわしが落ちてしまい、テレビ中継中だったNHKが力士をアップで放映してしまう。ラジオのファンにもテレビを見るように促す、という内容である。

 パーソナリティのN君が毎回、フォークソングを取り上げ、歌詞の解説や当時の社会的なバックグラウンドを料理していく番組である。N君は、なぎら健壱が大相撲のファンであり、NHKが大相撲の隆盛に力を貸してきた歴史を話したうえで、決して大相撲やNHKを茶化す歌ではなく、国民的娯楽を温かく歌っている、と結論付けていた。

 番組の中では、野球賭博にも触れ、次の曲に移った。吉田拓郎の「落陽」が選曲され、歌詞に歌われていた「博打打のじいさん」に触れ、暴力団が胴元になった賭博はいけないが、賭け事で知る人生の意味や生き方に言及していた。

 それでは、今回の力士による野球賭博のどこに問題があり、どのような将来があるのだろうか。もちろん、ニュースや評論家から様々な意見が出ている。一番の問題は胴元の暴力団絡み問題であろう。そして、賭博が常態化して掛け金が膨らんでいたことによる、協会側の脇の甘さであろう。公益法人としての資格が問われることになるからである。

 大相撲が国民的人気を呼んだのは、NHKのテレビ中継との関わりを抜きには考えられないのである。1953(昭和28)年から中継が開始されたというのだが、テレビ草創期であり、コンテンツとしての番組を通して人気を博してきたのである。

 しかし、勝ち負けを競う競技であるから、相撲そのものが賭けの対象になることは当時からあったのである。それにも関らず、国民的娯楽として認知されるには国民的ヒーローを生み出す必要があったのである。野球の世界には長嶋、王がいたように、カリスマ力士が不可欠であるのだが、NHKの中継がその力を貸したのである。古くは栃若時代を生み、柏鵬時代が続き、若貴ブームを引き起こしたのである。

 もっと公営ギャンブルの極めつけは、競馬や競輪、競艇であろう。胴元が国や地方自治体なのだから。競馬でいえば、ギャンブルからスポーツに衣替え(実質的ギャンブルに変わりはないが)するために、ハイセイコー、オグリキャップなどのスターホースを生み、武豊というスーパー・ジョッキーが誕生したのである。そのためには、スポーツ紙を中心としたメディアが、競走馬に関するデータ、情報を公開し、成績を重視して、スポーツとしての体裁づくりに邁進したのである。

 ひきかえ、相撲はどうであったろうか。サッカーなど各種スポーツの興隆の中で、力士志望の日本男児は減り、外国人力士に頼らなければならなくなった。部屋経営が前面に出て、力士は陰に回ってしまった。親方、相撲協会が目立ってしまったような気がする。

 テレビ中継も勝った負けただけになり、「国技」という名前に甘えてスポーツとしての地位を確立できなかった。興業としての姿だけが鮮明に浮かび上がったとも言える。大相撲の歴史に貢献してきたNHKも中継を断念する事態は、文字通り「土俵際」に追い込まれたといえる。

 相撲協会はこの苦境から脱する戦いに勝てるのか? はたまた「悲惨な戦い」はまだまだ続くのであろうか。

ツイッター上に、今度は何の前線?

 FM-N1でもこの3月から、ツイッターを始めた。ブログと違って、140文字という制限があるため、却って文章力が際立ってしまう、という性格があるみたいである。私のように、文章の行く末を考えずにキーボードを叩く人間にとっては恥をかく代物のようである。

 しかし不思議なもので、出社してパソコンの前に座ると、まず最初はツイッターの確認から始まるようになった。

 きょう(5月31日)も「fmn_one」のツイッターを開いた。そして見つけたものが、「vege_fru」さんのツイートであった。「vege_fru」さんというのは、金沢・近江町市場で青果店を営むご主人さんである。

 ツイートに目が留まったのは「仁徳一寸」という文字だった。最近、古代史に興味を持ち始めていたので、仁徳天皇がどうかしたのか、と思ったわけである。もちろん、大違いで、ソラマメの品種の一つであった。粒が大きいことで有名らしい。石川産のソラマメが旬で、店頭に出回り始めた、という話であった。

 もう一つ教えられたのは、ソラマメも暖地の鹿児島から出荷が始まり、晩夏の北海道まで続くらしい。石川はちょうど真ん中で、こに時期が旬になるというのである。

 FM-N1がツイッターを始めた一つの理由が、桜前線のように、全国の季節の移り変わりを、気象用語ではなく日常生活に近いリアルな言葉で伝えられないか、ということであった。想定の中には梅雨前線、台風の進路、紅葉前線などがあったが、ソラマメ前線もあったということが新鮮であった。

 もう一つの驚きは「vege_fru」のツイートの中で、青果の道から外れた鮮魚の話題も書かれていたことである。きょうは甘エビが、前日とは比較にならないほど安くなっている、ということだった。思えば近江町市場である。青果と専業は隣同士であり、情報を知っていて当然、と言えば当然である。

 さすが、金沢のツイッターのメッカ・近江町、武蔵ケ辻である。早速、武蔵ケ辻方面に出かけている女房殿へ一応、iPhoneでメールを送った。

 うまくいけば今晩は、甘エビの刺身にソラマメが並ぶかもしれない。日本酒で一杯、旨いものにありつけそうな気がしてきた。

 それにしてもツイッター上を行き来する各種の前線、とりわけ近江町市場の旨いもの前線からは目が離せない状況である。

サラリーマン人生を全うするとは?

 先ごろ、前に勤めていた会社の同期だったKさんが亡くなった、と知った。60歳であった。

 私の方は13年前に転職し、FM-N1でお世話になっている訳で、3月末には定年となり、嘱託という身分で仕事を続けさせてもらっている。誠にありがたいことであるが、昔の付き合いのあった友だちからも、もうすぐ定年になります、という知らせが多くなってきた。

 少し感慨に浸っていると、横を通りかかった後輩のUさんが「60歳ですか。サラリーマン人生を全うしたのですね」と、呟いていく。

 しかし、人間にとって「人生」とは別の所に「サラリーマン人生」というものが存在するのだろうか。何気なく使ってきた言葉であるが、定年という一つの節目を超えた身になると、それは長い人生の中の一部でしかない、という思いに捉われてしまう。サラリーマンが終わったところで、自分の一生が終わってしまうわけではないのである。

 これからも、家族との、友人たちとの人生が待っているのである。決して、人生を全うしたとも言えず、むしろ人生の途上であったと言うべきなのだろう。まして、ここ数年のKさんは病を得て、サラリーマン人生そのものにも全力を尽くせない状態であった、と風の便りに聞いていた。

 私の方も病持ちであるが、なんとか仕事を続けている。これまでの人生で身に付いた知識や経験を必要としてくれる人たちがいる限り、お役に立っていきたい、と思っている。が、老妻ともども、先を数える年齢になってきたわけで、少しは仕事以外の時間を持ちたい、とささやかな望みを膨らませている。

 生まれながらにベビー・ブームと言われ、団塊世代、全共闘世代、ニューファミリー、企業戦士などと、時代ごとに様々な称号を賜り、挙句の果てには大量退職の弊害を云々されているのである。

 確かに、私自身は殆ど休日があってないような暮らしを続けてきた。今でも、勝手に週6勤の生活、と決めている。休み方を知らないと言えばそれまでだが、趣味の世界や新しい事どもにも手を染めている。

 サラリーマン人生を完全に卒業したわけではないが、確かに、それぞれに見合った別の人生が待っているのである。わがままをいえば、手加減した仕事と、病気を抱えていたとしても、もう少しだけ元気で、人生を全うする道を歩みたい、と願っている。

 Kさんのご冥福を祈るばかりである。

 

 

「ブロタイ」受信報告書と舳倉島の渡り鳥

 きょう10日(月)に、1通の受信報告書を受け取りました。茨城県日立市の男性からのものです。

 受信報告書とは、ラジオで番組を受信した時に、放送局名や周波数、受信日、受信地、番組内容、受信状況などを記して、当該放送局に送付し、放送局からはベリー・カード(確認証明書)を発行するものです。FM-N1のようなコミュニティ放送局では、当地を訪れた際に受信し、報告書を郵送してくるケースが圧倒的です。

 しかし、今回の報告書は若干、趣を異にしていました。インターネット・サイマル放送で聴取したもので、受信場所は当然、日立市です。パソコンで聴いているので、受信感度は無論、良好です。

 FM-N1では2年前からサイマル放送を開始しており、今年3月からはiPhoneによる聴取も可能になりました。iPhoneの場合は「ⅰ-コミュラジ」(350円)というアプリケーションをダウンロードする必要がありますが、350円で携帯ラジオ1台を手に入れる、という感覚です。現在、全国の11局が配信しており、近く増える予定です。今夏までには、36局参加を目指しています。

 出力20ワットのコミュニティ放送局とはいえ、全国で聴取可能になるとはまさに、デジタル社会の到来を実感させてくれる報告書です。

 この男性が聴かれた番組は、オールディーズを中心としたリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」(通称・ブロタイ)でした。この番組は日曜午後6時から放送していますが、リスナーからの要望もあって4月改編から、月曜の正午、午後10時からも再放送を始めています。報告書では5月3日の夜の放送分でした。

 報告書から一部を採録します。

 「ブロークン・タイムマシンという番組をたまたま聞きましたが、懐かしく聞かせていただきました。いい番組を見つけたなと思っています。続けて聞いてみたくなりました。おそらくリクエストを送っている世代は、私と同じ年代かな?と言う気がしています。レコードのジリジリいうノイズも今では懐かしく思います。」

 他の文面にはサイマル放送にハマっていることや、本来のサービスエリアをターゲットにしたローカルな話題が聞けることの大切さを、リスナーの立場から、熱く書かれていました。

 サイマル放送については3月から、東京や大阪の大手ラジオ局でも試験放送が開始されており、インターネットの波の中でラジオを聴くのが当たり前の時代がくることはまちがいないでしょう。

 こうして、受信報告書を読んでいる時、たまたま、月曜正午からのブロタイが流れていました。パーソナリティのロイ・キヨタさんが、日本海に浮かぶ舳倉島(輪島市沖)が渡り鳥の中継地点で、種類も多い、という話題をしています。日本野鳥の会会員なだけに説得力があります。

 日本海は古来から、大陸との交通路であり、古代の日本海航路が地域の文化を育んできました。海を渡る鳥の道があり、途中で羽を休めても当然の話なのでしょう。

 そして思ったのです。FM-N1も、インターネットの波の中に浮かぶ中継地として、多くのリスナーに耳を休めてもらえるような地域情報が詰まった放送局でありたいと。

 受信確認書はサイマル放送であっても、感謝の気持ちを込めて送付したのは言うまでもありません。

戦場と化した「俳句日和」

 先日、ことしの「ニッポン全国俳句日和」(NHK)の放送があった。そこで、繰り広げられたのは風流、風雅の言葉とは程遠い「言葉」を巡る熾烈な戦いであった。勝者は当日の大賞を獲得した句であるのは当然だが、陰の立役者は選者として出演していた伝統俳句の星野高士さんではなかったろうか。

 前年に続いて伝統俳句の勝利、星野さんの勝ちといっても良い結果になったのである。

 星野さんは、FM-N1で俳句の番組「星野高士の俳句サロン」を10年以上続けてこられたが、諸事情から、昨年いっぱいで終了となった。番組を通して私たちも日本語に魅了されていた。

 昨年の「ニッポン全国俳句日和」では、星野さんが押した投句が大賞に選ばれ、何かこちらも誇らしく思ったものだった。

 そして今年である。何と、星野さんの選んだ9句が一つも予選を突破できなかったのである。勝ち負けは星野さんをはじめとした6人の選者の多数決で決まるのであるが、何か、伝統俳句に対する包囲網があるかのように、9連敗を喫したのであった。

 しかし、ここから星野さんの逆襲が始まった。他の選者が推した句のうちの伝統俳句を徹底的に擁護、支持したのであった。途中でも、10点満点の採点で、敢然と満点の札を上げたりしたのでした。

 決勝戦でも見事に勝ち抜いたのである。が、実は、大賞の句を推した選者は、星野さんの9連敗とは対照的に3句が予選を勝ち抜いていた。そして本当に選びたかったのは大賞に選ばれた句ではなく、別の句であったようだ。

 しかし、星野さんらの鋭い舌鋒の前に、途中で敗退してしまったのである。勘ぐれば、強力なライバルの句を落とすために星野さんの遠謀深慮があった、と見えた。

 痺れるような戦いの他に、もう一つ驚かされることがあった。

 大賞に選ばれたのは金沢市在住の今村征一さんの「落花また落花 金沢日和かな」の句でしたが、この今村さんこそは、星野さんの番組に投句されていた常連さんであったのである。

 不思議な縁を感じるとともに一層、喜びが増してきた。

 素人の私がみても伝統俳句である、と分かる句であった。

 また、星野さんから一つのことを学んだ。

 喧嘩をする時は、顔ではニコニコ笑いながら、テーブルの下では激しい足の蹴りあいがある事を。どこかで聞いた覚えのある、国際外交の要諦のようでもある。

 まだまだ修行の足りない自分である。

新聞の伝達力に思う

 最近、新聞を読む機会が増えてきた。というか、新聞記事を目にする機会が増えてきた、といったほうが正確かもしれない。新聞紙を手にする回数は増えていないのである。

 それは、新聞のWEB版を見る習慣が付いてきたからである。今春以後でも、日経新聞のWEB版を見るようになり、会員登録もしている。先月からは、携帯端末で、産経新聞を読むようになっている。もちろん各新聞社のホームページで、ニュースの速報を見る手もある。が、今はY紙だけをチェックしている。

 宅配で読んでいるのは地元紙のHK紙と関西のスポーツ紙である。スポーツ紙は趣味の世界であり、地元紙は、身近な人たちが一体どんなニュースを読まされているのか、を知るためである。個人的に、あまり関心のある記事、興味のある記事は出ていない、というのが率直な感想である。

 非常に関心のあるのは大リーグ・エンゼルスの松井選手の活躍ぶりだが、こちらのほうは大リーグ公式ホームページで、一挙手一投足をチェックしている。何しろ、一球ごとの球速や変化球の種類まで分かるのだから便利である。テレビと違って映像を追いかけなくて済む分だけ、楽である。それと、リアルタイムで結果を知ることができ、同じ時空を共有できるスピード感がある。

 新聞の使命、紙を印刷する必要性はドンドンと希薄になってきているのではないだろうか。とすれば、新聞の価値とは、ストレート・ニュースを流すというより評論、分析、方向性を示す能力が求められるような気がしてくる。

 ストレート・ニュースという意味では現在、最も伝達スピードが早いのはツイッターではないかと思っている。

 例えば、こんな例があった。

 4月27日付のHK紙夕刊に、「ご飯に直接かけるラー油が人気」になっているという記事が掲載されていた。

 私がこのブームを知ったのは約2ヵ月前のことだったろうか。ツイッターに、つぶやきが繰り返してアップされていたからである。どこのスーパーは品切れで、どこそこのスーパーでは買う事ができた。次の入荷はいつごろになると、それはこまめに情報が飛び交っていたのである。

 ラー油が欲しいわけではなかったが、面白いものが流行っていることは先刻承知だったのである。

 そして問題は、夕刊に紹介されたころには、もう情報のアップは皆無に近くなっていたのである。これは一部のことであり、全体像でないのは理解しているが、ツイッター情報で十分なことは山ほどあるのではないだろうか。

 ツイッターをメディアと呼ぶには無理があると思うが、これくらいの事なら新聞がなくても十分、といえるかもしれない。それよりも、メディアの定義が根本的に変えなければならない変革の波に揉まれている、といったほうが正解なのかもしれない。

 もちろん、ラジオとて、ネット社会の拡大により変革を余儀なくされていることに変わりはない。FM-N1のスタンスと、コンテンツの取捨選択がこれまで以上に求められることになるのだろう。

 なにせ、アナログ人間だった私が携帯端末を持つようになった程なのだから。違う世界が広がっていることも、これまた事実である。

 

 

「♪私たちの望むものは」手に入れたのか?

 「男子厨房に入らず」という言葉がある。最も古い出典は孟子である、とも聞くが、その意味も諸説があるようである。私の場合は文字面の通り、台所に立ったことがない、料理をしたことがない、という意味である。

 つまり、到底、一人暮らしには耐えられない、自立できていない人種ということである。その分、女房殿には逆らったことがなく、手料理にケチを付けたこともない。たとえ、惣菜店で買ってきたものばかりであっても、刺身が発砲スチロールに乗ったまま登場してきても「おいしい、おいしい」としか言わない。言えば、古里の酒がまずくなるからである。

 ところが、スタッフのN君は、新番組がスタートすると、なかなか料理の腕がいいことが分かった。番組は「フォークとナイフ」(月曜13:00~13:30、再放送18:30~、24:00~)である。フォーク・ソングを料理の腕前同様? 見事に捌いていこうというのである。

 19日には、フォークの神様と異名をとる岡林信康が登場した。「♪山谷ブルース」と「♪友よ」の後に「♪私たちの望むものは」が俎上に上った。なかなかに、解説するには難解な曲であるが、どんな角度からナイフを入れるのか、お手並み拝見となった。

 N君曰く。「♪私たちの望むものは」は「♪友よ」のアンサーソングのようなものである。青年から大人になる直前の不安さを謳った「♪友よ」から足を一歩踏み出した意味だ、というのである。

 歌詞の7節目に「私たちの望むものは 決して私たちではなく 私たちの望むものは 私でありつづけることなのだ」とある。

 団塊世代が、“私たち”の群れの中から抜け出して“私”という個を確立することなのだ、と謳っている。ムードに流されたような反戦、反体制運動、全共闘運動から、個の意志を持った人間になる必要性を訴えている、というのだ。

 そして、10節目には「私たちの望むものは あなたと生きることではなく 私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ」となる。

 これまで、“あなた”とは既成の社会体制であり、“殺す”とは体制を倒すことだと考えられがちだった。が、実は“あなた”とは岡林の歌を聴いている人たちであり、“殺す”とは、フォークの神様というレッテルを貼る人たちへの決別のメッセージなのではないか、と味付けしたのである。

 このメッセージに気付かなかった私たちは愚か者であったのである。岡林はこの後、フォークを捨てて姿を消してしまうことになる。

 そこまで聞いて、教育学者の高橋史朗先生の教えを思い出した。

 人間は生まれた後、両親に慈しまされて他律の中で教えられ、青年になって自律して学び、大人へと自立していくのだ、と。

 団塊の世代である私は「♪私たちの望むものは」を聴きながら、自問自答させられることになった。望むものを手にいれたのであろうか? 

 確かに、自立の精神は手にすることができた。しかし、料理はさっぱり駄目で、到底、自立はかなわない。「厨房に入らず」が続くだろう。料理はN君に任せることにしよう。

面接試験とiPhone

 FM-N1でiPhoneによるラジオ配信が始まって3週間が経過した。まだまだ一部の反応しか聞かされてはいないのだが概ね、好評のようである。まぁ、面と向かって文句を言う人も少ないのが人の常であるから、これからが正念場といえるのかもしれない。

 金沢工業大学の学生たちもKITウエーブ・プロジェクトに参加して、番組づくりに励んでいるが、4年生ともなると、プロジェクト活動より、まずは就職活動に力をいれなければならない。この就職難の時代に、いくら工大の就職内定率が95%を超えているとはいえ、人生の大問題であるから無理もない。

 そこで、新4年生の一人が、大阪の企業に出掛け、面接試験を受けてきた。面接の場では、プロジェクトの学生は、ラジオ番組の放送を担当しているとアピールするのが常である。それも学内放送ではなく公共放送である、ということが大切なのである。

 一般社会と関わりを持っている活動は高評価されるらしい。もちろん、プレゼンテーションの力も抜きん出ている。

 件の学生も「ラジオ放送をしていました」と話したらしい。

 面接官の第一声は驚きのものだった。

 「それはFM-N1ですか」

 言われた学生も驚き、聞き返したという。

 「金沢工大の出身ですか?」

 それは違っていたというが、面接官は席上、パソコンを持ち出してきて、サイマル放送でFM-N1の番組を流し始めた、という。面接は一転、ラジオ談義になったという。

 サイマル放送そのものは1昨年の6月から始めていたが、この面接官が興味を持ったのはiPhoneの配信が始まってから、という。全国のコミュニティ放送局のうち9社でスタートしてから、わずか3週間足らずのことである。

 ホームページを丹念に調べ、すっかりFM-N1がお気に入りになったようであった。

 思わぬところで、iPhoneの影響力を痛感させられた。全国のいたるところで、このような話が持ち上がっているのであろう。

 iPhoneのアプリケーション「ⅰ-コミュラジ」は350円である。高いか安いかは判断の分かれるところかもしれないが、ラジオの受信機を350円で買えると思えば安いといえる。ともかく「聴ける」ことを第一に突貫工事でスタートしたもので、バージョン・アップも着々と進んでいる。

 近い将来、マルチ・タスク機能をもち、バックグラウンドで再生が出来るようになるというから、メールをしながらラジオ、ツイッターをしながらラジオの時代がやってくるのだろう。

 ところで、面接試験の結果はどうなったの? 

 

ハイカラ節は坂の上の雲の時代だった

 明治と言えば明治製菓、大正と言えば大正製薬を連想するのがせいぜいかと思っていたら、明治時代、大正時代に向き合う番組が4月から登場した。

 火曜日の正午からの1時間番組「これまで針何本?」(再放送 日曜午前6時半~)である。パーソナリティーは谷川昌則と新人の皆谷奈緒美である。古いもの好きの谷川君らしい企画だが、構想段階から、やたらと力が入っていた。

 実は、タイムテーブルの作成時点や新番組の打ち合わせでも「教えられない」の一点張り。本番前になってもキューシートさえ見せない。この強情さは、後輩のUさんに似ているかもしれない。秘密主義である。

 番組が始まって分かった。日本のレコード、流行歌の歴史を紐解こうというものだった。何しろSP盤の時代からである。いくら金沢工業大学のポピュラー・ミュージック・コレクションが後ろに控えているから大丈夫、ということなのだろうか。

 それでも昔は、レコードを1枚かけるたびに針1本を使っていたというから、これまで国内で消費された針は一体何本? 想像もつかないが、これが番組名の意味だったのかと納得した。

 一番最初の曲となったのが千原みきの「ハイカラ節」(明治22年)だった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の時代である。

 実は、ハイカラ節は、高田渡が「自転車に乗って」で、前歌的に1節を歌うことで有名である。私はなぎらけん壱のハイカラ節が好きである。この元歌を見つけ出してきたことが自慢だったようで、驚かそう、と隠していたものらしい。

 しかし、古い明治というイメージとは懸け離れ、活力にあふれた歌である。坂の上の雲の時代と知れば、無理もないと納得させられた。時代の活力を反映していたのだろう。

 なかなか小癪な谷川君である。

 この他に使用した明治、大正期の曲は神長瞭月の「松の声」(明治40年)、石田幸松の「のんき節」(大正7年)、都家かつ江の「パイのパイのパイ」(同8年)、鈴木やすしで「アイ・ドント・ノー」(同8年)である。特に、「パイのパイのパイ」は小さい頃から聴きなれた懐かしい1曲である。

 これは日曜日に早起きしてもう一度、聴かなければならない。

ラジオの進化が早いか、体の老化が早いか

 きょう25日(木)朝、診療所へ行ってきた。担当医師の前に畏まって座り、血圧測定が始まった。医師が首をひねった。春を忘れさせるような寒さである。「上がったかな?」。怖くて血圧計を見ることができない。厳かに宣告が下された。

 「いつもより、かなり血圧が低いですね」

 上が106、下が66だった。そこで、思い当たることがあった。「実は昨晩、処方されている薬を間違って2錠のみました」。医師は「量を多くのむと血圧と脈拍が下がるのだが、脈拍が普通だから大丈夫でしょう」。

 これまで、のみ忘れはあっても多くのんだことはない。ヒヤリとした。が、決してお酒を飲みすぎての失態ではないので、ご安心を。のみ忘れて溜まった薬は、次回の診察のときに量を調整することとなった。

 もう一つの体の悩みは筋力が落ちてきていることだ。保健指導で、筋力をつけるよう言われてしまった。そう言えば、最近はパソコンの前に座りっぱなしである。

 もともと体力には自信のない方だったが、とみに老化が進んでいることを自覚している。

 一方、体とは逆に、FM-N1の異次元ラジオは進化を続けている。

 診療所と時を同じくして、きょう午前、東京の日本記者クラブで、iPhoneによる番組配信の記者発表が行われた。コミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス(CSRA)代表の木村太郎さんが概要の説明にあたった。

 参加したのは、FM-N1をはじめとしたCSRAの9社。先発グループであり、今夏までには36社の参加を目指している。

 FM-N1が、インターネット配信であるサイマル放送を開始したのが一昨年の6月。スライド・ショーの展開など、これまでの電波だけの世界から抜け出した。異次元ラジオと名付けている。

 それから1年半後、iPhone配信の話が持ち上がった。その4ヶ月後に、本当に放送に漕ぎ着ける所までくるとは、想像もしていなかった。何せ、いま注目のモバイル配信である。

 iPhoneに先駆けて、ツイッターも始めている。最初は見向きもしていなかったが、新しい放送の概念が生まれる予感がしたからである。

 記者発表の場では、アプリケーションを開発したフライトシステムの杉山隆志取締役が、iPhoneのバックグラウンドで番組を再生させる開発も準備している、との発言もあったようである。近い将来、ラジオを聴きながらツイッターの操作ができることになるわけで、まさに杉山さんの言う通り、ラジオとツイッターの相性は抜群によいということになる。

 関東と関西の大手ラジオ局が今月半ばから、パソコン配信の試験放送を始めている。もちろん、「サイマル」という用語を考案したのはCSRAであり、地域指定の制限のないオープン放送である。大手ラジオ局は地域限定の放送しかできないのである。

 また、iPhone配信は東京FMが試験放送をしているが、これも関東圏の地域限定放送である。何か、出力20ワットのコミュニティ放送と立場が逆転したような錯覚さえ覚える。

 ICT技術の進展によって異次元ラジオはどこまで進化を続けることができるのか? 老化のスピードと反比例しているようなのだが。

新しいもの好き? 古いもの好き?

 FM-N1でツイッターが始まっている。何でも新しいモノ好きのラジオ局で、4月の改編を機に、ツイッターを使った番組ができないか検討中である。未知なるものであるが、成算があるわけではないのだが、一度は挑戦してみよう、という訳である。デジタル時代にジタバタと新たな道を模索するのも無駄にはならないと思っている。

 私たちのツイッターのハンドル名は「fmn_one」です。フォロワーはようやく50人を超えたところだが、その中に、原口一博総務相のつぶやきも載っています。

 政治家としては、石川県内の市議もいますが、原口総務相の選挙区は佐賀県であり、選挙区を越えて応援している訳ではありませんが、FM-N1を所轄する総務省のトップということで、フォローすることにしました。

 きょう(16日)の午前8時前のつぶやきに、こういうものがありました。

 「民主党1期生の有志を対象とした勉強会を開きます。情報通信政策を議論します。先駆開拓の事。懸命になすならば道は必ず開けます」

 情報通信政策とは何か。放送と通信の融合のことなのか、ブロードバンドの普及の事なのか。FMラジオ局としては気になります。

 放送と通信の融合の話題としては、在京在阪の大手ラジオ局が15日からサイマル放送の実証試験放送を始めました。もちろんスポンサーの関係があり、それぞれの放送区域の中に限られ、インターネットを通じても全国発信というわけにはいきません。

 ところが、FM-N1をはじめとしたコミュニティ放送局は2年前から、既にサイマル放送を開始しています。現在は約30社があります。もちろん、「サイマル放送」という言葉を考案し、使用してきたのもコミュニティ放送局です。インターネットを経由した放送スタイルが社会的に認知された、とも言えます。

 ブロードバンドの観点からみれば、コミュニティ放送局はウィルコムのスマートフォンに対する配信もスタートさせています。東京FMなどはiPhoneによる試験配信を始めていますが、やはり地域限定です。私たちもiPhoneによる配信を検討していますが、将来的にはモバイルで普通にラジオを聴く時代がくると思っています。

 そうなれば、ラジオは旧来のラジオという範疇からはみ出すのではないかと、今から身構えているのです。FM-N1では1年前から、新しいラジオ像として「異次元ラジオ」という言葉を使ってきました。

 それにしても、ツイッターによる140文字のつぶやきから、いろいろな事が分かることもあるのだ、と思うようになった今日この頃です。総務省の中でも様々な局面でコミュニティ放送局が占める比重が高まっていくのではないかと期待しています。

 最後に、原口総務相のつぶやきの中にあった「先駆開拓の事」というのは松下政経塾の五誓の一つだそうです。

 「既成にとらわれず、たえず創造し開拓していく姿に、日本と未来の姿がある。時代に先がけて進む者こそ、新たな歴史の扉を開くものである」が先駆開拓の事の意味だそうです。

 FM-N1の後押しをしてくれているようで、勇気が湧いてきます。新しいもの好きのFMラジオ局ということでしょうか。しかし、音楽の面ではなかなか、古いもの好きなんですがね… 

古代史は観光の道具ではない、が...

 人はなぜ、古代史が好きになるのだろう。

 ある人は浪漫があるからだ、という。なるほどと思う。歴史の謎を解き明かすことは非常に面白い。そして古代史のように、文献資料が少なくて、定説が確立していないほうが興味をひく。

 専門家でさえ難渋している事柄には素人の参加も容易であり、小説のように浪漫をふんだんに持ち込めるからであろう。自由自在に主人公を定め、筋書きを思うがままに書いていく。憶測は憶測を呼び、妄想は妄想を広げていく。ささやかな自己陶酔の時間となる。

 そしてもう一つ。自分の拠って来る由縁を知りたい、という願望があるからなのではなかろうか。自分が何者であるかを知って人生を送ることができれば、未来へ向けての歩みが確かなものとなり、道を踏み外すことは少ないのではなかろうか。

 私のように、古代史の資料が少ない土地柄(金沢周辺)に住んでいればいるほど、渇望も濃くなってくる。

 そして、関心は自ずと、文献資料が豊富で、研究の先進地で、多くの成果が挙げられている大和(奈良県)に向かっていく。何か石川と結びつく手掛かりはないのだろうか、と。多分、他の地方にあっても同じであろう。

 ところが、地元の地方紙HK新聞に、激しい競争にさらされている全国の観光地は、集客のために歴史物語の掘り起こしと、磨きに精出すべし、という論調のコラムがあった。古代史、歴史を観光の道具立てとしか見ていないような見識を披露され、力が萎えてきた。金沢城の復元を至上主義とするような紙面展開に、がっかりもした。

 頼りない報道であれば余計、自らの妄想を逞しくしなければならない、ということなのだろう。

 もう一つ、邪馬台国論争に触れ、奈良発の決定打が次々と出されることに、観光客を動かす力がある、とも指摘していた。

 しかし、発掘ニュースを決定打、と称するのはマスコミの宿業である。記者は「特オチ」が怖いのである。自分の原稿だけが邪馬台国に触れなければ、抜かれた、と考えるのである。そのため、保険を掛けて、原稿の中に「邪馬台国」の文字を潜り込ませて置くのである。積もり積もって邪馬台国=大和が既成の事実であるかのように錯覚を与えるのである。

 私自身は、邪馬台国=北九州説であるが昔と違って、邪馬台国がどちらであっても、あまり興味が湧かなくなってきた。大和や飛鳥に心惹かれるのは、そこにある纏向遺跡が、日本を統一した権力の発祥地であり、故郷との関係を求めることで、石川県の歴史を知る手掛かりがあるのではないかと思えるからである。日本史の中で果たした石川の地の役割をしりたいのである。

 纏向遺跡には神奈備である三輪山がそびえている。神の山である。実は今、この三輪山の歴史が気になって仕方がないのである。

 一方、故郷には霊峰白山がある。私淑する金沢在住の考古学の先生に尋ねたことがある。神奈備とはどんな山ですか? 答えの一つが、基本的には里山である、だった。とすれば古代人は、白山を神の山とは見ていなかったのだろうか。

 よし、春には「好古学」の徒と化して大和散策でもしてみるか。

気候と議論は繰り返す

 今はやりの言葉「気候温暖化」に対して、アメリカで疑問の声が高まってきた、という。

 なんでも、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の報告書に記載されている事項に科学的根拠がない、ということらしい。レポートをまとめた科学者も、この点について認めている、という。

 以前から、レポートに指摘されているような気温の上昇は起きていない、との指摘もあり、科学者の間でも意見が分かれていた。

 日本でも、消費者に対する企業イメージ・アップなどを意識して、環境対策が必要以上に喧伝され、テレビの画面では北極や南極の氷が解けて崩れる映像が繰り返し放映されてきた。

 その裏では、氷がこれまでより厚くなっている地点があることは余り語られてこなかった。南極観測船の「しらせ」が厚くなった氷に阻まれて、立ち往生したというニュースも、関心が高まらなかった。

 これは、北極海や南極海に流れ込む海流の変化によるものである、との観測結果も報告されている、という。

 現在の気候変動の大きな要素は、産業革命以来の社会発展による二酸化炭素の量が増加したことにあるのではなく、砂漠化の拡大による乾燥化が原因とする向きもあるようだ。

 そういえば、ここ数年、国史跡「末松廃寺跡」(野々市町末松)について俄か歴史学者となって、歴史の一端をかじっていたが、約2万年前の旧石器時代は氷河期であり、現在より、海水面が100メートル近く低く、大陸と日本列島は陸続きであった。マンモスなどの巨大獣を追って人間が渡り、定住化してきた。

 その後、縄文時代には縄文海進という時期があり、現在の海面より3~5メートル高かった。何も、二酸化炭素が増えた訳ではないのだろうが、海面は上昇していたのである。次の弥生時代には再び、寒冷化してきている。

 とすれば、二酸化炭素の排出量の増加とは別の理由で、地球の気候は変動を繰り返しているのではないか、という疑問が、温暖化の論に対して首をもたげてくるのである。

 もう一度、政治的思惑や経済的思惑を離れた冷静な議論が行われることを期待したくなってくる。

 もしかしたら、低燃費車の性急な開発も必要ではなかったのだろうか。とすれば、トヨタの問題も起きなかったのではないか、と思いたくもなる。(私はずっと日産車)。

 そうなると、様々な分野で展開されているエコ・ポイントはどうなるのだろうか? これこそ要らざる心配かも。

「野」の「市」は石川の原型

 FM-N1でもツイッターなるものが始まった。緩いコミュニケーションが支持を得ているのだという。政治家にも愛好家が多いと聞く。原口総務相が、チリ大地震の津波情報を自分のツイッターでつぶやいていた、というニュースも入ってきた。

 政治家がメディアに頼らず、自らの信条信念を発信できるシステムを手に入れたことは、これまであった相互の緊張関係を変質させてしまうのかもしれない。技術革命が社会システムの変容を促しているようである。

 あらためて、メディアの存在理由も問われることになりそうである。もちろん、メディアの機能を果たしているFM-N1のようなコミュニティ放送局にも言及されることで、ITの技術革新に対して、傍観していては生き残りさえも脅かされる事態であろう。

 そのFM-N1ツイッターで、ケイスケ君がつぶやいていた。野々市町の2月1日の推定人口が5万875人となり、先月より54人が増えている、というのである。単独市制実現を目指す同町にとっては、今年10月の国勢調査を前に、要件となる「人口5万人」に少しでも上積みしておきたいところだろう。

 一方で、市制実現に備えて、新市名の検討が始まっている。先日の検討委員会では、歴史を重視する考え方から「野々市市」が有力案となっている。1300年代から、文献にその名が見えるという。来月4月に、町民アンケートを実施して、町民の意見も反映して粟町長に答申する運びらしい。

 文献とは白山比咩神社の水引神人に関係する文書で、「野市(ののいち)」とあり、1354年のことという。

 もちろん、町の歴史は文献資料よりもっと古く、考古資料によれば、白鳳寺院としての末松廃寺(同町末松)があり、天智朝による手取扇状地の開発が行われたことが分かっている。

 縄文時代の御経塚遺跡はともかく、古代から中世にかけて連綿と続けられた扇状地開発によって加賀国の生産力が向上したことは間違いないだろう。生産の中心が野々市町にあり、生産力の向上が人口を集中させる結果となった。野の生産物を商う市が立ち、交通網も野々市を目指したのではなかろうか。交通の要衝となっていったのだろう。

 ただ単に、地の利がよいから交通の要衝になったのではなく、富の蓄積が背景となっていた。全ての道は野々市に通ずるのである。そう思えば、現在の石川県の社会的システムの原型が野々市町にあったとも言える。

 新市名の決定をめぐり、故郷の歴史を再認識することは貴重な体験である。少し前に、金沢市が野々市町を吸収合併するための激しい動きがあったが、金沢成立以前に、貴重な歴史、文化が厳然として存在し、古代の統一国家としての日本が成立する過程で果たした故郷の役割が、野々市町に止まらず、広範な地域で繰り広げられた事実が埋もれなかったのは、誇りとすべきことだろう。

 

品格の自覚と虚実の狭間

 大相撲の横綱・朝青龍が引退した。善くも悪しくもいろいろと話題を振りまいた横綱だった。支持するファンは相撲の強さと愛嬌さであり、不支持のほうは「国技」大相撲の横綱としての品格に疑問を抱いたのが大きな理由のようだった。

 私自身は大相撲のファンでもないから、どっちに転んでも気にしていないのだが、一連の騒動に関して勉強させられることも多かった。

 その一は、大相撲というのは国技なのか、ということである。記紀にも登場する古いスポーツなのだが、それが定義なのだろうか。朝青龍の例でもわかるようにモンゴル相撲というものもあり、世界中には似た競技があると聞く。日本人が慣れ親しんできた競技であるから国技と言われてきたのだろうか。今ひとつ、ピンとこない。

 確かに、戦後の昭和30年代、テレビの普及にあわせ、他のスポーツもあまり普及していなかった頃の熱狂振りは、幼少の体験として知っている。むしろ、この全盛時代を土台に、格式と日本独特の様式美を追及することで、権威が作り上げられてきたように思う。

 しかし、実態としては興行の一形態に過ぎないのではなかろうか。最近では、この興行としての側面だけに、つまりビジネス・モデルとしての集金システムだけに関心が高まり、国技の面目を堅持する不断の努力がなおざりにされてきたように感じられる。

 興行であれば、土俵上の勝ち負けだけ、豪快に暴れまくればファンが喜び、観客動員、収入があがるのであるから、世はこともなし、ということになる。

 この勝負事、ギャンブル性をスポーツ、国技に昇華させるために横綱が果たす役割があるのではないか。横綱土俵入りに代表される神事や日常生活における節制、社会に対する行動、発言が真っ当なものであることが大切なのである。

 それこそが横綱としての品格であり、角界を代表する責任なのではないだろうか。昨今、理事会や横綱審議会が表に出る機会が多いが、角界を代表するのは理事長ではなく、横綱でなければならないのだろう。

 敢えて言えば、理事会は興行としての運営が主であり、やはりファンに対しては横綱が代表でなければならないのだ。理事会は、外国人横綱に対して、品格とは興行を支えるための仕掛けであることを、分かりやすく教えるべきだったのではないか。

 興行収入を上げるためにスター横綱を作り上げることは基本なのである。が、このシステムを維持するためにも横綱に因果を含める努力を怠り、自覚を持たせることができなかった、というのが顛末だったような気がする。

 建前と本音と言われるが、建前は「虚」であり、本音が「実」であると思われがちで、「実」の方が徳性が高いという単純な見方が建前をないがしろにしてきたのではないだろうか。「武士は食わねど高楊枝」という言葉があり、「矜持」という言葉もある。

 建前を自覚することが組織を維持、存続させる力であるとも言える。

 これを品格とするならば、わがコミュニティ放送局に引き当てればどうなのか。

 放送エリアが狭いゆえに経営基盤は弱いのが通念となっている。地域活性化、地域貢献の建前とは二律背反の関係にある。しかし、建前に対する自覚を失っては放送事業の継続も意味がなくなる。頭が痛くなる話だが、いい勉強をさせてもらったようだ。

AもCもいらない、B級が好きなんだ

 最近、歳とともに、食に対する執着が薄くなってきた。10年来のダイエットが祟って、胃が小さくなり、食は細るばかりだった。そのせいか、体調を崩してしまった。今では、薬を飲んで腹が膨れるありさまである。晩酌で流し込もうとしても、入っていかない状態となった。

 これでは、ならず。昨年後半からは食欲増進の努力を始めた。一念発起と言えば大げさだが、晩酌の酒のランクを上げ、旨い日本酒で流し込もう、という魂胆だったが、見事に成功したようだ。

 それまでも、グルメとは縁遠い生活で、A級の料理は口に合わず、B級が相場だった。が、体調を崩していたころは、C級というのか、栄養分の少ない食事になっていた。再び、B級に復活して喜んでいた。

 ところがである、年長スタッフのT君がボソリとつぶやいた言葉に引っかかってしまった。

 「それはB級で、A級とは思えない」

 もちろん、T君のことだから、料理の話ではない。彼のC級好みは知っている。T君といえば、音楽の話である。

 実は、今日(2日)の番組「回って歌って80年」の事だった。あなたの失くしたレコードを見つけよう、という趣旨で放送している。

 本当に、今では聴かれなくなったレコードを見つけ出してくれ、喜んだことも何度となくあった。

 今回は九重祐三子&ダニー飯田とパラダイスキングの曲「ハートでキッス」だった。

 歌いだしの九重祐三子の声がプリプリに張っていて、久しぶりに聴いた一曲だった。歌が好きになったのは、パラダイスキングの影響も大きかったと思っている。

 早速、T君の下に駆けつけ、「良かった。久しぶりに聴いた」と伝えたところ、返事が「それはB級ですよ。いつ放送しようかと、棚の隅に置いていました」と返事が返ってきたのです。

 「君はいつからA級が好きになったんだ? C級専門だったのではないのか。そう言えば、その後、スマップのライオン・ハートを流していたな。FM-N1ではB級が主流なんだぞ。A級はいつでも聴けるが、B級は機会が少ないんだ」と文句を言いたかったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。これでまた、腹が膨れてしまうかもしれない。

 言葉を飲み込んだのには下心があるかである。なにしろ選曲するのはT君なのだから。機嫌を損ねてはいけないからである。

 部屋に戻って見ていると、T君はCD棚の隅の方に歩いていった。よしよし、これでまたB級が採用されそうだ。次は、何を見つけてくれるやら…

1ヵ月も経たずに、浅川マキ

 あれから、まだ1ヵ月も経っていない。まさかと耳を疑いたくなる事だった。世の中「一寸先は闇」ということは承知のうえなのだが、これまでの人生の中で何度、後悔させられたことだろう。

 あれから、というのは昨年12月27日のFM-N1開局14周年特番の放送日からであり、耳を疑いたくなった事とは、先日17日に急逝した浅川マキさんの事である。

 14周年特番は、当初の企画として、地元出身の歌手である浅川マキさんを取り上げる案が有力だった。地域のメディアとして、それなりの評価をするという意味からも、準備に入っていた。そう思い立たせた理由の一つは、浅川さんとも音楽で結びついていたギタリスト飛田一男さん(元めんたんぴん、ロック・イベント夕焼け祭主宰)の一昨年の死去だった。

 飛田さんの特集を組みながら、浅川さんの特集をしようとの思いが強くなっていたからである。

 それなのに、なぜ企画を変更したのか? 生来の浮気症と言えばよいのか、信念がなく目の前の出来事に振り回されるのか、優柔不断そのものだった。

 一つは、エレキ・ギターを考案したレスポール氏の訃報であり、もう一つは音楽プロデューサーの加藤和彦さんの急逝であった。両者とも、日本の音楽界に与えた影響が大きく、日頃、ラジオ放送における音楽の役割を痛感していたからである。

 急遽、企画を変更し、レスポール氏のために「エレキにしびれて! もっとしびれて」を、加藤和彦さんのために「あの素晴らしい歌をもう一度」の14周年特番を制作したのである。

 今、浅川マキの「かもめ」と、ちあきなおみがカバーした「かもめ」を聴き直したところである。それぞれの味わいがあるのだが、ついつい、ちあきなおみが菊池章子をカバーした「星のながれに」も聴いてしまった。

 人生は陽の当たる場所だけではない。運命とでも言うのか、陽の射さない場所で生きる人たちもいる。と言っても、陽の当たる場所の人たちだけが立派なのではない。そこには別の悩みもあるからである。ともに人生に悩み、悲嘆にくれながら生きていることも多々あるのである。

 陽の射さない場所の住人たちを歌うことで、より人間のありようを訴えているような気がして、ついつい引きずり込まれてしまうのである。

 FM-N1の「音楽の心得」で一番に挙げているのが指揮者の宇宿允人さんの言葉である。「真の音楽とは人生の悲しみを謳ったものだ。だからこそ、人の苦しみ悲しみを癒すことができる。何より偉大な芸術作品とは人間である」。

 この言葉をかみしめた後、浅川マキとちあきなおみの「朝陽楼」を聴き比べてみよう。

正座して歌った琵琶湖周航の歌

 11日正午からの番組「桜の小径でララバイ」の1曲目に、加藤登紀子の「琵琶湖周航の歌」が流れた。近畿地区をテーマにして選曲したもので、滋賀県の歌として取り上げられたものだ。

 作られたのが大正6年であり、作詞、作曲した京大生(漕艇部)の秘話を紹介しながら番組は進行していた。

 好きな曲であるが、椅子の上で背筋を伸ばし、威儀を正して聴き入った。加藤登紀子のレコードがヒットしたのは昭和46年のことだそうだが、この歌を知り、初めて歌ったのは3年ほど遡る昭和43年のことである。もちろん、カラオケではなくアカペラであり、正座して歌ったのである。

 もぐりのような学生生活を送ったこともあり、大学の話はしたくないのであるが、卒業(実質的には追い出された)したのは金沢大学である。部活のコンパの席で、先輩から教えられたのが「琵琶湖周航の歌」であり、正座をさせられたのである。

 その理由は、金沢大学の前身である第四高等学校にある。昭和16年4月6日、合宿練習をしていた同校漕艇班の8人が、京大生3人とともに、琵琶湖の今津を出た後に突風を受け、11人全員が死亡したのである。

 四高の応援歌に「南下軍」があるが、四高と三高の対抗戦に際しての応援歌であり、高校生時代からよく知っていた。学都とも言われた金沢の地域文化でもあるのだろうか。三高(京大)との浅からぬ因縁を感じてしまう。

 漕艇班の遭難の後、「四高漕艇班遭難追悼歌」が作られたそうだが残念ながら、この曲は知らない。

 いつしか、「琵琶湖周航の歌」に置き換わり、正座とともに先輩から後輩へと伝わっていたものである。つまり、京大生の歌ではなく、先輩たちの青春の追悼歌であり、思い入れの深い1曲となったのである。

 それが、加藤登紀子の歌が大ヒットして以来、四高の色は薄れ、全国区となったのである。加藤登紀子を恨むのではないが、少し残念な気持ちもする。歌は時代とともに変わっていくもの、を実感させられたものだった。

 そういえば、遭難の1年後、湖岸には1千本のソメイヨシノが植えられ、「四高桜」と呼ばれていたが、現在は17本が残るだけという。歴史は消えていくのが運命なのかもしれない。無常である。

ささやかなスリー・酒・サミッツ

 今年の年末年始は、社会人37年目にして初めて長期休暇をとった。これまでは、家に居たのは最高でも3日間だけという暮らしだった。仕事人間という程の仕事はしてこなかったのだが、いつの間にか当たり前になっていた。

 ということで、自宅のラジオで、スタッフの仕事振りをじっくりと拝聴することができた。

 すると、耳に飛び込んできたのは嬉しいニュースだった。生活いち番シャトル便のパーソナリティである田中康典さんが南極大陸の最高峰であるヴィンソンマシフの登頂に成功したのである。

 これで田中さんは世界七大陸のすべての最高峰に登頂したことになり、セブン・サミッターという称号を手にしたのである。国内では20人目らしいのだが、サラリーマン生活と両立させたところが価値がある、と思っていた。思わず万歳を繰り返した。

 そして、当方は、長い休暇を当て込んで準備していた、ささやかな挑戦に取り掛かることにした。セブン・サミッターとは比較にならないが、北陸3県の最高峰と思われる日本酒を呑むことである。

 これも余り経験したことはないのだが、陽の高いうちから儀式をスタートさせた。正月の1日午後3時から、石川県のとって置きである「鶴の里」の杯を上げた。世界大会のワインの部で優勝しただけのことはあり、いつ呑んでもフルーティーな味わいがあり、これが本当に、米を原料にした日本酒なのかと思わせる。

 いったん休憩した後、夜の部に入って、いよいよ性根を据えて味わっていった。福井県の「黒龍」、富山県の「満寿泉」ときて、仕上げは石川県の「菊姫のにごり酒」に決めていた。

 なんという幸福感だろう。北陸生まれの人間だけにあたわった贅沢なのかもしれない。

 単に、正月の飲みすぎ歌いすぎで、黄金の喉を錆付かせてしまったスタッフのN君とは大違いの、正統派の正月の過ごし方である。が、身から出た錆を反省する態度にはまだ、先の望みがあるとも言える。クリスマスの夜に、カラオケで聴かせてもらった黄金の喉が復活するよう祈っている。

 と、自慢らしく言ってはみたものの当方は、身から出た錆ならぬ、身からはみ出た脂肪を何とかしなくては…

 

 

雪の降る町を

 今朝(17日)、初雪を見ました。もちろん、石川県内では数日前に初雪が観測されたのは知っています。私が見たのは、FM-N1のサイマル放送で見ることができるライブ・カメラ(金沢工業大学ライブラリーセンター屋上に設置)の映像です。

 午前6時を過ぎたころ、まだ陽の上がらないうちのモノクロ映像が突然、色つきの画面に変わるのです。映し出された家々や学生の寮、アパートの屋根が白く光っているのです。日本海の方からは雪を運んでくる雲が次から次へと押し寄せてきます。

 春4月にカメラを設置して以来、楽しみにしていた光景でした。一緒にアップされている輪島・千枚田の映像も、積雪に縁取りされた光景は一幅の絵画を見ているようでした。

 ライブ・カメラの狙いの一つが雲の動きでした。夏雲より、冬季に日本海を渡ってくる筋雲が絶品ではないかと思っていたからです。まずは狙い通りといったところです。

 そしてもう一つは、冬の雷です。夏の雷は画面が一瞬、真っ白になるだけなのですが、雪雷は雲に映し出されて幻想的な光景が見られるのではないかと期待しているのです。遠雷であればなおさらでしょう。

 太平洋側の人たちには意外かもしれませんが、冬の北陸では雷が付き物なのです。小さいころは、この雷が大の苦手で、夜中などに鳴り出すと、布団の中で小さく丸まって、怖い思いをしていたものですが、今では雷をまっているとは…。成長したのか鈍感になったのか分かりません。

 雪と言って思い出すのが、末松廃寺跡で見つかった和同開珎の銀銭のことです。雪解け水が土中から銀銭を洗い出したのです。この発見がきっかけとなって同廃寺の調査が進展して、11月にはシンポジウムも開催されました。後輩のUさんは、特番づくりやサイマル放送の画像制作に心を亡くすような思いで忙しく立ち働いていました。夏場から、県内の関係地を巡って撮影を行ったのですから、気合も入っていたのでしょう。

 末松廃寺が、白鳳時代に中央集権国家、律令国家を目指す手取扇状地の開発を牽引する象徴的なモニュメントでした。ここでは詳しく紹介できませんが、日本の古代史を切り拓き、画期的なページを新たに書き加えたことは間違いありません。

 これも、北陸の地や人々をを育んできた雪の賜りものと言っていいでしょう。雪の降る町こそ私たちの故郷なのです。

 こんな感傷に浸るときは「雪の降る町」の歌を聴きたくなるのです。子どものころ、下駄履きで、雪の降り積もる町の通りを歩いた記憶。自分の下駄の音しか聞こえなかった。上を見上げれば、電柱に取り付けられた電灯の灯りの中を雪が舞っていました。この曲は自分の中の名曲になっています。

 もう4、5年前になるでしょうか、第1スタジオで放送されていた番組「ストア・オールディーズ」の中で、高英男の歌う「雪の降る町を」が流れていました。レコードの宿命ともいえるシャカシャカというスクラッチ音が、本当に雪の降っている音に聴こえたのでした。思わず廊下に飛び出すと、そこにはやはり、金沢の雪の中で育ったUさんも飛び出してきていました。

 末松廃寺の特番が制作できた力もきっと、「雪の降る町を」の賜りものだったのでしょう。

ぼくの大好きなクラリネット

 ♪ぼくの大好きなクラリネット-の歌詞で始まるのはフランスの曲で「クラリネットをこわしちゃった」である。中学3年の時、初めてクラリネットを手にした。音楽室にあったのだが、その柔らかい音色に魅了されてしまったが、しばらくの間に卒業となり、それきりとなってしまった。

 なぜ、クラリネットを手にしたかと言えば、当時のテレビ番組で、クラリネット奏者の北村英治さんがよく演奏していたのを見たからである。

 多分、50代以上の人であればジャズには関心がなくとも、北村さんの演奏を覚えていられる方も大勢いるのではないかと推察している。今から45年ほど前のことである。

 ところが、その北村さんが元気に、野々市町のステージで演奏してくれたのである。ビッグ・アップル・イン・野々市のイベントに、特別ゲストとして。感激ものであった。

 その北村さんがFM-N1のインタビューに応えてくれた。

 誤解を恐れずに言えば、との注釈つきであったが「テレビのくだらない番組を見る時間があったら音楽を聴いてほしい」と話されていた。

 昔は、そのテレビでしか北村さんを知ることができず、クラリネットの演奏に引き付けられたのだが、なんとも寂しい気持ちにもさせられた。しかし、確かにその通りだとも思う。

 インタビューの中ではまた「音楽を好きになって、愛してもらいたい。音楽を文化としてとらえてほしい。ビッグ・アップルのクリニックで、中学生が急に来るという出会いもありました。文化国家としてのあるべき姿が野々市町にはある」と断言されていました。

 FM-N1では、12月27日に開局14周年を迎えますがこの間、ポピュラー・ミュージックは消耗品ではなく、貴重な文化財である、との思いで放送を続けてきただけに、我が意を得たり、であった。

 この思いは、金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクションに所蔵されている20万枚を超えるレコードにも託されており、丁寧にレコード音楽を中心とした番組編成を続けている理由でもあります。

 きょう12月3日は、野々市町では「ノー・テレビ、ノー・ゲーム・デー」ですが親子で、家族団らんで音楽を楽しむのも一つの過ごし方でしょう。ラジオから流れる心温まるメロディーに耳を傾けてみてはどうでしょうか。

 かつてテレビは新しい文化の取り入れ口でしたが、今ではその力も失われてしまいました。しかし、ぼくの大好きなクラリネットは何時までも壊れることなく、楽しい旋律を奏でてほしいと願っています。そして、北村英治さんも何時までもお元気でいてください。

 

本当に60メートルだったのか! それでも...

 待ちに待った野々市町のふるさと歴史シンポジウム「いまよみがえる末松廃寺」が11月15日に開かれた。

 基調講演「古代石川平野(手取川扇状地)の開発と末松廃寺」を行った金田章裕さんをはじめ村上訒一さんの「末松廃寺と飛鳥・白鳳の寺院」、木立雅朗さんの「瓦が語る古代の文明開化」、望月精司さんの「手取扇状地における飛鳥時代の移民集落」、服藤早苗さんの「古代の家族と女性・児童」など興味深い報告が続いた。

 末松廃寺といえば和同開珎の銀銭と言われるほどだが、発見者で末松廃寺の守り神と言われた高村誠孝の子息の宏さんによる「父の思い出」も、廃寺の保存にかけた地元の熱意が伝わる話だった。吉岡康暢さんがパネルディスカッションのコーディネータを務めただけだったのが、少し物足りなかった。

 同廃寺は法起寺式をとり、西に金堂、東に塔を持つ。昭和41、42年に文化庁による調査が実施され、40年後にようやく報告書が刊行された。が、謎の一つが塔の高さだった。

 これまでは、塔心礎の柱穴の直径から約24メートルとする説もあったが、実際は約60メートルの高さを誇る塔であることが明らかにされた。日本最古の木造建築とされるあの法隆寺の五重塔が31.5メートルだから、その巨大さには驚かされるばかりである。これならば、七重塔であった可能性が出てきた。

 従前の説は柱穴の直径の40倍=塔の高さという公式があったためである。しかし、末松廃寺の場合は柱間が大きく、10メートルを超えてしまう。アンバランスが謎を深めていたのである。

 それでは何故、60メートルになったかといえば、塔の底辺の6倍程度が塔の高さと一致する、という調査研究の結果が出たからである。柱穴は柱の直径そのものではなく、柱を支えるために細工された柱のホゾの太さであるという。礎石の上面が平らに加工されているのが傍証になるのだそうだ。

 手取扇状地の開発にかけた古代人の決意が伝わってくる。

 ここで、ある問題に気がついた。60メートルの高さの塔になると、葺いた瓦の重みで塔自身を押さえつけないと倒れてしまう、ということである。

 金堂の基壇の周囲からは瓦が多量に出土しているが、塔の基壇の周囲には瓦がなかったことである。塔の基壇までは施工したが塔本体までは造営できなかったということだろうか。とすれば、未完の寺ということになってしまう。

 それでは未完となった理由が何であるか、である。

 末松廃寺は660年から670年の間に、天智天皇の意思で、中央集権化を強化するために着工されたとされる。そうだとすると、672年の壬申の乱で、天智方が天武天皇方に破れて造営工事が中断された可能性が高くなる。

 未完の寺という残念な結果が出るとしても、新たな古代史のロマンが古里の石川平野に広がってくるようで、これもまた大興奮ものである。

クロッカスは遅かった

 23日(金)正午からの番組「オールディーズ・デイティング」で、パーソナリティのロイ・キヨタさんが「目方誠を知っていますか」と語り始めた。

 確か「目方誠」と言えば美樹克彦のことだったな、と考えていたら、やはり「花はおそかった」が流れてきた。しかし、いつも聴いていたのとはやや違う。歌に入る前に長い台詞が入るものだった。5分42秒もあった。

 キヨタさんは「歌詞の最後がバカヤロー! と終わることから一時、物議をかもした」と解説していた。当時としては、神様であるお客様が座っている客席に向かってバカヤローと叫ぶことに抵抗感があったのかもしれない。

 こういう長い台詞が付いていたことを忘れてしまった人が大部分なのだが、貴重なレコードを探してくるのはもちろん、改めて金沢工業大学のレコード・ライブラリーであるポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)の凄さを感じてしまう。

 病気で入院している恋人「かおるちゃん」の元へ、クロッカスの花束を持って駆け付けるのだが、間に合わない、という悲恋の歌である。「かおるちゃん」と「バカヤロー」が印象的である。

 クロッカスといえば、小学生の頃、理科の観察で球根の水栽培に使っていた花だった。あまり、ぱっとした印象はないのだが、そんな花が歌になるのである。

 その花言葉はいろいろ多いのだが、その一つに「あなたを待っています」というのがある。「かおるちゃん」が彼の来るのを心待ちしているのであろう。しかし、結果としては歌詞のように、息を引き取る枕元に間に合わず、クロッカスの花言葉が悲しみを深めるのである。青春時代の心には涙、涙の物語であった。

 キヨタさんの会心の選曲であり、意気揚々とFM-N1の玄関を出て行く後姿が満足感で溢れていた。

 と、その時、後ろからスタッフ谷川君の声がした。

 「台詞の付いた長いバージョンは2ヶ月ほど前、担当番組の桜の小径でララバイで使いました。花はおそかったには、バカヤローのないバージョンもあって3種類ありますよ」

 ここにも「PMCの鬼」がいたのか。

 キヨタさ~ん、選曲が遅かったようですよ。ポツリとつぶやくとキヨタさんは「バカヤロー」と叫んだ。

 ほら、谷川君、キヨタさんが怒っていますよ、と言うと谷川君は「な~に、歌を歌っているだけですよ」と平気の平左だった。

 でも、いい歌は何度聴いてもいいものだ。早いも遅いもあるものか。

人生とは「しぼむ」ものなのか?

 いよいよ年度末になると、定年を迎えることになる。手持ち無沙汰になると、自らの来し方行く末に思いを巡らすことも多くなる。社会人となって新聞社に24年、ラジオ局に13年在籍することになる。強く求めたわけではないのだが、世間で言うところのメディア関係の仕事に終始したことになる。

 年末に開局14年を迎えるFM-N1は、まだまだ若いといえるのだが、今後に備えて何を遺せば良いのか、後輩スタッフは育っているのかが気になる毎日である。

 そんな折の19日、音楽番組「小さな喫茶店でアルバム聴けば」(月-金8:30~、再放送17:00~と27:00~)で、パーソナリティのK女史のコメントに耳が惹き付けられた。

 70年代のアルバムを紹介しているのだが、この日は「海援隊」のものだった。リーダーの武田鉄也と母親の関係に触れた中で、「気が付くと母親は、愛情を吐き出してしぼんで行くのですね。いつの間にか自分の方が大きくなっている」と、いうものだった。

 なるほど、と感心させられた。いつまでも子供扱いをしていたが、知らないうちに成長しているものだ。喜ぶべきことなのだろう。

 そして、別の件にも思いが及んだ。元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦さんの自殺である。日本の歌謡界にも大きな足跡を残してきた音楽家であっただけにショックを受けていた。

 情報の早いスタッフの谷川君によると、「遺書には、もうすることが無くなった、と書いてあった」らしい。早速、19日の自分の番組「桜の小径でララバイ」のなかのララバイ編集室の中で、A面にフォークルの「今日の料理テーマ-鯨のステーキ、グリンピース添え」を、B面に柳ジョージ&レイニーウッドの「酔って候」を使っていた。指示をしなくても十分に対応しているのをみて、こちらも一安心である。

 それよりも気になるのは、加藤和彦さんの自殺の理由である。詳しいことはこれからであるが、「何もすることが無くなった」が理由であるとしたら悲しいことだ。現在のヒット曲のレベルに落胆していた、とも聞く。新曲が創れないというのも、今の歌謡界のレベルと大きくかけ離れてしまっていた、ということなのだろうか。評価される基準にあてはまらず、孤独感を増していったのだろうか。

 確かに、良質のリスナーがいて、良質の音楽が生まれるのだと思う。作詞家の阿久悠さんが言っていたように、自分がカラオケで歌えるレベルの「歌い歌」、踊りの伴奏のような「踊り歌」が全盛のようでは、プロの「聴き歌」の存在する余地はないのが現状かもしれない。

 「小さな喫茶店でアルバム聴けば」のK女史ではないが、「歌謡界のために才能を吐き出してしぼんでしまった」のだろうか。あるいは、加藤さんの思い込みであるとするなら、リスナーを含めた歌謡界が、以前の環境とは変わってしまったのだろうか。

 あれだけの才能であれば、為すべきことが他にもあったように思うのは第三者の思い込みなのだろうか。

 定年を前に、この仕事しかないのか、考えさせられる出来事だった。

「初々しい」と心は同じ?

 久方ぶりの台風18号が通過していった。全国的には被害が出た地域もあったが、野々市町をはじめとした石川県内は懸念されたような大きな被害もなく、ひと安心した。

 野々市町布水中学校の生徒さんの職場体験も、台風襲来前の7日に2日間の日程を終えており、こちらもひと安心だった。

 スタッフの谷川君のブログによると、中学生の生出演に「初々しさ」を感じたようで、反対にスタッフ諸氏の「ふてぶてしさ」が浮き彫りになったようでもある。ただ、情報を伝える仕事とは、初心の気持も大切であるが時としては大胆さも要求されるのである。若葉マークがとれ、大胆さも身に付いてきた、ということなのだろうか。

 私事ながら、台風に備えて自宅ベランダの植木鉢などの取り込みを手伝った。いつもは家事は顧みないタイプ(本当は何も出来ない甲斐性なし)なのだが、防災の初心に返って、運んだ。強風は吹かず、結果としては取り込むほどではなかったが、こんな些細な事でも、清清しい心に気付いた。

 被害がなかったからよかったが、実は台風を心待ちしていた面もあった。

 FM-N1では、今春からのインターネット同時放送に合わせて、パソコン上で金沢工業大学ライブラリー・センター屋上にカメラを据えて、日本海側の風景を映し出している。10月からは、輪島市白米の千枚田カメラの映像も流している。お天気カメラを兼ねたものだが、どんな映像が見られるのか、楽しみにしていたのである。

 屋上カメラでは、雲に埋め尽くされた空の手前を更に、強風に吹き飛ばされた雲が走り回っていた。

 千枚田カメラは、いつもなら海岸線に打ち寄せる白波を写しているだけなのだが、七ツ島の沖合いまでも白波を蹴立てて荒れる日本海を望むことができた。

 予想以上の画面だった。

 台風が去った後の映像もよかった。屋上カメラは固定式だが、千枚田カメラのほうは、輪島市側のホームページ上で角度や倍率が変えられるようになっている。

 雨上がりの千枚田は、細かい畝に仕切られた1枚1枚の田に雨水がたまり、さながら鏡を並べたようであった。

 ふと、四字熟語を思い出した。「明鏡止水」である。邪念のない心境、澄み切った心を表す言葉だが、ひょっとしたら、自分の心の中にはまだ、初々しさの欠片が残っていたのかもしれない。

仮面ライダー谷川君、ただいま変身中

 10月改編も無事にスタートを切れました。ホームページのトップ・ページでは金沢工大ライブラリー・センターの屋上カメラと輪島市白米の千枚田カメラが楽しめるようになりました。10月3日の千枚田では、キャンドル・イベントの画像がお届けできました。新しいページの「FM-N1SHOW」では、サイマル放送で流していたスライド・ショーが常時、オン・デマンドで見られるようになり、ちょっとした変身を遂げました。

 と、思っている矢先、スタッフの谷川君が、ホームページに負けずと変身中であることが分かりました。

 5日(月)の番組「桜の小径でララバイ」でのこと。テーマは自転車、とかで最初の曲が高田渡の「自転車に乗って」。予想通りのど真ん中。ただ、音源がフォーク・ジャンボリーのライブ盤であるところが谷川君らしいところ。久しぶりに、ステージ下の吉田拓郎との野次合戦を聞いた。「吉田拓郎、いつか殺してやるからな」という高田渡のひと言は、「自転車に乗って」で拓郎のヒット曲「結婚しようよ」をつぶしてしまう、意味だと言う。

 何なに。コメントがこれまでより磨かれてきたのではないか。ちょっと人間が変わってきたのかな、と耳を傾けていたら、子供の時に、親に買ってもらった自転車が「変身!」で一世を風靡したキャラクターの仮面ライダー自転車であったという。

 今頃になって、変身の効果が表われてきた、ということか。番組が終わったら冷やかしてやろう、と手ぐすねを引いていたところ、次の衝撃がきた。

 レコードのA面、B面を作るという「ララバイ・レコード室」のコーナーであった。

 平田隆夫とセルフターズの「ハチのムサシは死んだのさ」が取り上げられた。1972年、大学5年生の時に発売された作品で、好きな1曲なのだが、今いちピンと来るところがなかった。

 権力の象徴である太陽に、微力な蜂のムサシが挑んで死んでしまう、という歌詞なのだ。全共闘の学生運動が全国に広がり、鎮圧されていく過程で生まれたもので、青春のヒロイック性、センチメンタリズムとしか思えない面があったからだ。

 しかし、谷川君は、歌詞の最後を見逃さなかった。

 「やがて日は落ち夕暮れに/真赤な夕陽が燃えていた」

 強大な力を持った太陽も、やがて夕暮れを迎え、そして沈んでいく、というのである。栄枯盛衰の理を歌っている、というのである。

 レコードが発売されてから37年が経過した。この間、幾多の栄枯盛衰を目の当たりにしてきたことだろう。一番最近では、民主党による政権交代があったばかりである。

 権力は長続きせず、いつかは朽ちていく道理は、37年の人生の中で学んできた。それでも、分かっていても挑んでいくのが若さ、という特権かもしれない。そう思うと、時の流れが触媒となって、いい歌に出会えたと実感できた。作詞した内田良平の名前と共に、心の名曲集の中に留めて置こう。

 それにしても、谷川君の変身振りには驚きだ。これからもウルトラマンにでもゴジラにでも、好きなものに変身してくれ。化けの皮が剥がれた、ということだけにはならないように祈っている。

9月30日の灯、それはスポットライトではない

 あれから1年が経ち、また9月30日が巡ってきた。あれからとは、ギタリストの飛田一男さんが亡くなった日である。ロック・イベント「夕焼け祭り」のお手伝いをすることになって知り合った仲でしかないが、音楽の奥深さを教えてくれた人でもあった。

 FM-N1では命日前の9月24日(木)、飛田さんがよく出演していた「今出しづのうらら麗らか」に、奥さんの由美さんが出演して、飛田さんと親交のあったムッシュ・かまやつ、つのだ☆ひろ、木村充揮、金子マリさんらから寄せられた想い出話を交え、改めて追悼の1時間を放送した。

 飛田さんと知り合った後、飛田さんが所属していためんたんぴんの曲も数多く聴いたが、何といっても一番心に残ったのは「それはスポットライトではない」という1曲だった。

 もちろん、夕焼け祭りのステージで、飛田さんが最後に歌った曲ではあるが、古里・石川出身の歌手である浅川マキの歌を聴き直していて、これは名曲ではなかろうか、と感じたからである。

 歌詞の中に「ずっと以前のことだけれど/その光に気付いていたのだが逃がしただけさ」「あの光そいつは/あんたの目にいつか輝いていたものさ」とある。

 この曲を何度も聴きながら、飛田さんが、気付いていながら逃がした光は何だったんだろうか、と考えていた。もちろん、答えがあるわけでもなく、今となっては飛田さんに聞くわけにもいかない。

 夕焼け祭りの後、飛田さんから「最近、浅川マキが東京へ来て、一緒に音楽をやらないかと誘われている」と聞かされたことがあった。めんたんぴん時代からの付き合いであることは知っていた。これが逃がした光だったのだろうか? でもピンとこない。

 番組が終わった後、今出さんとの立ち話で、飛田さんは、普段でもギターを抱えてよく歌っていたのが「それはスポットライトではない」だった、と聞いた。ロックばかりと思われがちだがジャズの人たちとの出会いで影響を受け、底の底に「それはスポットライトではない」があったようである。

 歌の終わりは、目の中に光を宿していたあんたは「なにを知ってるだろうか」と結ばれる。

 そうか、人生を詮索してもあまり意味はないのか。出会ったことで、また1曲、自分にとっての名曲を手に入れることができたのだ。幸せな出会いがあったことに感謝しよう。歩む道に、スポットライトではない光で照らしてくれたのだろう。あらためて冥福を祈ります。

1本取られたコスモス

 10日ほど前のブログ「桜の小径でララバイ」の中で、番組に秋風が吹いている、と書いたら担当スタッフのT君から抗議を受けた。「番組は打ち切りということですか」。いやいや、秋の改編ではありません、という説明に、不機嫌な顔をしながらも引き下がっていった。

 秋風が気になったのか、28日の同番組のテーマは「秋」だった。流れた曲はとんぼちゃんの「君の秋風」、さだまさしの「秋桜」、N.S.P.の「もう人生の秋」、森田公一とトップギャランの「秋だなァ」、高田渡の「秋の夜の会話」だった。

 一番気に入ったのは「もう人生の秋」だった。N.S.P.が贔屓だったが、この曲は知らなかった。古い曲なのだが、当時のファンから「若者の歌を歌うべきだ」との声が上がり、封印していた作品だった、との解説にうなずいてしまった。

 それにしても、色々な曲を探してくるものだ、とT君に少し感心させられた。

 「秋の夜の会話」は草野心平の詩に、高田渡が曲を付けたものだが、会話の相手が蛙だとは知らなかった。なかなか良い解説もできるようになった。この分では番組は続けられるのかな?

 その中でも、目を覚まされたのが「秋桜」だった。

 歌詞の中では秋桜(コスモス)と歌うのだが、タイトルは秋桜(あきざくら)というのが本当だったが、いつのまにかタイトルもコスモスと呼ばれるようになったという。そして、これまでも好きな1曲だったが、今回のコスモスの花の解説を聞いて、名曲の一つではないかと思うようになった。

 T君とは以前、一緒に番組をつくっていた時に、花に関する解説をしたことがあった。アグネス・チャンの「ひなげしの花」や小椋佳の「シクラメンのかほり」、早川義夫の「サルビアの花」などがあった。

 これまでは花言葉との関連だったが、今回のコスモスは原産地だった。メキシコなのだが、日本に定着して秋を代表する花にまでなってしまった。

 つまり、嫁いでいく娘に対して、違う生活環境になっても一生懸命に人生を過ごしてほしい、という母の願いの表れなのだそうだ。花に疎い私は単に、季節としての秋を象徴する花としてだけ受け止めていなかったので、解説を聞いて、歌の深みが理解できた。これまで、もったいない聴き方をしていたのだと恥じ入った。

 これは1本取られてしまった。

 それにしてもT君は、いつの間にかコスモスの丈にも負けないくらいに大きく成長していたのだ。えっ。コスモスって1メートルぐらい? それでは、腹回りと言い直そうかな。

神秘の乳首

 愛車のナンバー・プレートには、ベコベコになって折れ曲がった跡がくっきりと付いている。高校生の自転車にぶつけられたのだが、そのままにしている。見っとも無いが、新しく付け替えずにいる。「石川ナンバー」に愛着があるためで、付け替えれば住所の関係で「金沢ナンバー」に変更しなければならないためだ。

 あまり、車に執着するほうではないのだが、なぜか最近、プレートにこだわっているのである。

 先日の番組「わんわんピース」(木曜13:00~、再放送同18:30~)でバズの「愛と風のように」が流れていた。選曲しているのはパーソナリティの松平博之さん(柴犬ブリーダー、石川県救助犬協会代表)で、失礼ながら、髭面のいかつい顔からは想像が付きにくいのだが、なかなかに好い曲が多いところが泣かせるのである。

 「愛と風のように」はケンとメリーのスカイラインのCMソングとして使われたのだが、「いかなFM-N1でもこんな曲はかからないだろう」と得意げだった。相方のスタッフKさんも「聴いたことがない」と相槌を打っていた。

 本当は、何度もオン・エアしている曲だぞ、とラジオのこちら側で突っ込みをいれたりしていた。

 このCMソングが好きなのは、これまで運転してきた車がサニーとブルーバードの日産ばかりであるのと関係しているのかもしれない。残念ながらスカイラインには手が届かなかった。

 スカイラインを知ったのは昭和39年の日本グランプリの時だった。ポルシェを向うに回して生沢徹が運転していたのがスカイラインGTだった。それが、スカイラインを知った最初だったように思う。

 大学生の頃、片町の交差点まで、今風に言えば、暴走族のサーキットを見に行ったこともある。その中にはボディー・ラインが特徴的なスカイラインGTRもいたように思っている。社会人になって、金沢・広坂のバーへ行き、マスターがスカイラインGTRに乗って片町のサーキットをしていた話を聞いた事もある。若気のいたり、と言いながら、少し自慢げであったように記憶している。なにしろ、アルコール中毒の真っ盛りのころである。

 番組パーソナリティの松平さんに戻ろう。

 松平さんの風貌は、犬の話題になると目じりが下がり、好人物に大変貌を遂げるのである。なにしろ番組は犬と音楽と酒の話題ばかりである。

 そして、乳首の話に移っていった。段々と力が籠もってくる。「左右対称になっていないところがいいんだ」。もちろん人間の女性の話ではなく、犬の話である。

 母犬の乳首からは均等に母乳が出るわけではない、という。子犬は目が開いていなくてもなぜか、よく出る乳首を探し出すのだそうだ。そして、寝て授乳をするため、左右の乳首の位置が若干ずれているのだ、という。左右対称になっていると、子犬たちが重なり合って、うまくお乳が飲めないから、体の構造が対象になっていないのだそうだ。

 いい話に、ラジオへ向かってうなづき、頭を下げていた。

 髭面のいかつい顔が、好人物の顔になり、今度は神秘性を帯びてきた。

 

青春の中毒になった男

 9月25日(金)に一つの番組が終了した。スタッフN君が担当していた「エレキにしびれて」である。60、70年代を中心とした日本のGSやバンド音楽を特集していた。

 番組は1年間続いたが、N君の生まれる前の時代である。当初は、番組が続けられるか心配をしたが、今ではあまり聴かれる機会がない曲を、金沢工業大学のレコード・ライブラリー「ポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)」の20万枚の中から探してきては、感心させられていた。と同時に、懐かしい曲のオン・パレードに頬を緩めてもいた。

 最終日に選んだ曲はザ・スパイダースの「バン・バン・バン」、ザ・タックスマンの「恋よ恋よ恋よ」、ザ・モップスの「朝まで待てない」、ザ・タイガースの「花の首飾り」、ザ・ライオンズの「すてきなエルザ」、寺内タケシの「青春へのメッセージ」の6曲だった。N君が番組を通じてお気に入りになったものばかりである。

 特に、最初の曲のザ・スパイダースについては「日本の最初のロック・グループ」と熱っぽく語っていた。元メンバーの井上堯之さんがFM-N1に来た折、「僕たちはロックだと思って演奏していた」と話されていたことを思い出した。N君はとくにムッシュかまやつへの思い入れが強いようである。

 そういえば、ザ・スパイダース解散後に、ムッシュが参加していたウオッカ・コリンズのLPをPMCから探し出してきた時には驚いた。以前、私もデータ・ベースを検索したことはあったが、見つけ出すことができなかった1枚である。「不詳のLP棚にありました」と自慢げだった。好きこその類だろうが、2度と聴くチャンスはないと思っていただけに感激はひとしおだった。

 あまり売れなかった「恋よ恋よ恋よ」も久しぶりだったし、「すてきなエルザ」もそうだった。好みの曲ばかりだった。「すてきなエルザ」は映画のタイトル「野生のエルザ」を真似たものであることも思い出された。

 ザ・モップスは「月光仮面」の方が好きだな、と思いながら、「花の首飾り」では、FM-N1の誇るオールディーズ職人のロイ・キヨタさんが昔、ザ・タイガースのバンド・ボーイをしていたことを思い出した。寺内タケシは、番組のエンディング曲に「津軽じょんから節」を使っていたためだろう。「青春へのメッセージ」を選んだのは担当者の思いを重ねるためかもしれない。

 番組最後のコメントは「青春とは子供が自立して大人になるための特別の時間である」だった。ある意味、N君はもう一度、遣り残した青春の一部を体験していたのかもしれない。晩酌だけでなく、立派に青春の中毒になっていたのだろう。番組を終えた途端の風邪もその性か。

 青春時代に帰りたい、とはよく聞く話だが、やっとこさ大人になった私は、2度と苦しみの中には帰りたくないと思っている次第である。

中毒とは無縁の証明

 あまり夏の実感のないままに季節は秋から冬へと向かっていく。日本海は冬の味覚本番を迎える。底引き網が解禁になり、先日は、下関・南風泊港でフグの競りも始まった、という。

 フグは舌の上に乗せたときに、少しピリっくる方が旨い、とは通の方の言うことだが、なんだか落語の「酢豆腐」を思い出してしまう。腐りかけている豆腐を食して、これが酢豆腐だとのたまう半可通の噺であるが、凡人で結構と満足してしまう。

 やはり「饅頭こわい」ではないが、刺身のてっちりは中毒を連想させるため、フグのヒレ酒が怖い口である。

 しかし、この酒も、中毒に関しては十分に曲者である。

 アルコール中毒が精神病の一種であることを知ったのは大学生の時だった。中毒そのものの研究がテーマではなく、意識調査の実習がアルコール中毒についてであった。無作為で抽出された市民の方の家に出向いて聞き取り調査を行い、その様子をテープレコーダーに録音して提出する、というものだった。

 当時、中毒とは無縁の人生だ、と思っていたが意外と早く、中毒の現実と遭遇することになった。

 2年後に社会人となり、文字通り、浴びるように酒を呑むようになった。もちろん辞書には「休肝日」という語彙はなかった。一日中、血管の中をアルコールが駆け巡っているのが自覚できる。精神的な依存だけではなく、体が震えるようになるなど肉体的にも依存症状が表われる始末だった。

 しかし、転勤となって職種が変わることで、重度の依存状態からは解放されることになった。

 それでも常人からみれば、かなりの酒量であり、休肝日はない。が、いつでも自分の意思で酒を呑まないことは可能である、と言い聞かせるようにしている。

 ただ、強い意思を発揮する場面が少ないのである。

 例えば、糖尿病と診断されて1週間ほど入院した時も、別に禁断症状が出るわけでもなく、精神状態も安定していた。胆石の手術で1ヵ月近くの病院生活を余儀なくされた時も同様である。

 もう一つ、抜歯でもそうである。歯を抜いた日の一日は飲酒も入浴も止められる。これまで、6,7本を抜いたが、平気である。

 誰も褒めてはくれないが、酒を呑まない、という意思は健在である。

 アルコール中毒とは無縁である、と証明できる日は後何日あるのか。思わず知らず数えてみたりもする。

 が、一つの事実に気がついた。どうして、歯医者へ行くのを一日延ばしにしているのか、ということである。その日一日を我慢すればよいだけの話なのだが、ついつい、きょうの晩酌の誘惑に勝てないでいるのである。

 先日抜いた親知らずも、半年近く放置してあった。これって結構、中毒かもしれない。

桜の小径に秋風吹けば

 P.P.M.のMさん(マリー・トラバースさん)が亡くなった。最近ではppmと言えば濃度を示す100万分の1の単位を思い出す人も多いのだろうが、化学嫌いと年配の方々にはフォーク・ソングのピーター・ポール&マリーであろう。

 P.P.M.を知ったのは高校生のころだった。「花はどこへ行った」「虹とともに消えた恋」「風に吹かれて」「レモン・トゥリー」など、英語が苦手で発音もままならぬままに歌ったものだった。特に、「虹とともに消えた恋」は全く歌詞の意味が分からなかった。後年、レコードの宝庫・金沢工大PMCの守り神ロイ・キヨタさんに、それはアイルランド語であると教わった。

 中でもお気に入りは「パフ」である。おもちゃで遊んでいた子供が青年になり、やがておもちゃを捨てて、桜の小径を通って大人の世界へ向かっていく歌である。

 誰でもが、一度は必ず通る「青春」と呼ばれる時間。それが桜の小径と重なる場面に心を揺さぶられるからである。

 私にとっての桜の小径は、松任(現白山市)の西川通り沿いの桜並木である。西川通りというのは、手取川七ケ用水の一つである中村用水を西側に分水して、松任の市街地の方へ引いたところから名付けられたのだろう。桜並木は約700メートルに渡っておよそ110本が植えられている。昭和天皇の即位を祝ったものだそうで、これらも大人になって知ったことである。

 西川通りは母校である松任小学校、松任中学校の裏手に当たり、通学路になっていた。金沢の高校に入学してからは通りを歩くことはなく、「パフ」の歌のように、桜の小径を卒業して青春時代に入っていったのである。

 遠い昔のことである、が、ひょんなことで再び、桜の小径と付き合うことになった。

 スタッフの谷川君が担当する番組の名前を「桜の小径でララバイ」(月曜正午~)と付けたからである。歌の好き嫌いのベースはまだ子供の頃、母親が口ずさむ歌に影響されているのではないか、と思ったからである。昭和の歌謡曲は母の背中で聴いた子守唄に似ている、という意味を込めたのである。

 それ以来、谷川君が頭をひねって選ぶ曲が楽しみの一つになった。

 しかし、桜の小径を通っていた少年ももう還暦である。人生を季節に例えるなら春は青春、夏は壮年、秋は熟年、冬は晩年となる。気がつくと、桜の小径にはもう晩秋の風が吹いている。亡くなったマリー・トラバースさんも享年72歳になっていたというから、皆で仲良く歳をとったということだろう。

 FM-N1では10月改編の準備に慌しい。谷川君の「桜の小径でララバイ」も4年目に入っている。やはり秋風が吹いている頃合だろうか。ということは、来春は…

格好悪い「小さな喫茶店でアルバム聴けば」

 70年代のレコード・アルバムを専門にした番組「小さな喫茶店でアルバム聴けば」(月~金の8時半から、再放送は17時から)で、早川義夫のファースト・アルバムが紹介されていた。担当はKさんだが、アドバイスはT君がしている。

 このアルバムの中には、早川の代表曲となっている「サルビアの花」が収められている。1972年の発表当時は競作となった作品で、作詞が相沢靖子、作曲を早川が担当している。

 以前、「サルビアの花」を巡ってはT君と意見が分かれたことがある。T君は競作の中でも一番売れたとされる「もとまろ」派だったのだが、私は早川派を主張して激突。T君の感性を疑ったものである。

 しかし、今回のアルバムを聴くと、確かにT君の言い分にも耳を傾けたくもなった。実は、早川派になったのは数年前のこと。ピアノの弾き語りで歌う「サルビアの花」に圧倒されたからである。それが、アルバム収録時の音を聴くと迫力に欠けている、と感じたからである。

 音楽というのは、作者自身であっても、時を経ると解釈が変わったり、表現が違ったりすることを痛感させられた。

 それでも、このアルバムは、70年代のにおいをプンプンさせ、虜にさせられてしまう。それでも、早川が格好いい、というとT君は胡散臭い目で見るのである。70年代を生きた者と後知恵の者の違いなのだろうか。

 本当を言えば、早川の曲で一番好きなのは「サルビアの花」ではなく、「無用之介」なのである。こんなことが知れたら、またT君やKさんには白い目で見られそうである。

 やっぱり、70年代というのは独特な時代だったのだろうか? 

 こんな曲ばかり流していると、若い人たちからは「小さな喫茶店でアルバム聴けばというのは、なんて格好悪い番組なんだ」と言われるかもしれない。が、レコード誕生80年もある。多様な好みがFM-N1の格好いいところなのだろう。

 そして、続けることが大切だ。時を超えた感動が沸き起こることもあるのが音楽である。早川義夫のファースト・アルバムを聴いた時のように。そうそう、アルバム名は「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」だった。

絶景かな、絶景かな! 輪島の千枚田

 FM-N1のホームページに今日(15日)から、新たな魅力が加わった。輪島市の千枚田のライブ・カメラ映像である。実は昨日の番組「永瀬喜子のきょうも元気で」(午前9時~)の中で、同市職員が電話出演し、千枚田の魅力をたっぷりと披露してくれた。もちろん、ライブ・カメラの話も出ていた。早速、リンクして、見られるようにしたのである。

 実は、このカメラの存在自体は以前から知っていた。自宅のパソコンでは、サイマル放送用に設置してある金沢工大ライブラリー・センター(LC)のライブ・カメラと合わせて映し出しており、日本海に沈む夕陽が染める海の色、空の色を較べながら見ていると、二つのポイントが日本海を通じて結ばれていることが実感できる。朝夕にパソコンのスイッチを入れることが日課になっている。

 番組に出演された職員の話によると、山間の千枚田、棚田はどこでも見られるが、海に雪崩れ込むように海岸際まで広がる棚田は珍しい、という。国の名勝にも指定されているというが、打ち寄せる日本海の波と稲穂はまさに絶景かな! である。

 番組の中で、パーソナリティの永瀬さんも話していましたが、早稲の「能登ひかり」は、海岸の潮風を受けて育つと美味しいのだそうだ。私も能登暮らしの折、能登ひかりを稲架(いなはさ)で天日干ししたものが絶品と教えられた。その能登ひかりは既に刈り取られたが、他の稲は9月27日(日)に稲刈りが行われる。2組のカップルが千枚田で結婚式を挙げ、夫婦の共同作業として稲を刈り取りがスタート合図になるという。

 この稲刈りには、ボランティアとしての参加が可能で、問い合わせは千枚田景勝保存会実行委員会事務局(同市観光課)Tel 0767-23-1146までとなっている。

 実は、お盆の墓参りの後、七尾市から輪島へ向かい、千枚田ポッケト・パークから、小手をかざして眺めてきた。当たり前のことなのだが、カメラを通して見ていた風景と同じ絶景に感服したものだった。観光スポットお決まりのソフトクリームも味わった。

 その時、目の前をトンビが輪をかいた。そうか、時々、カメラに映っていた鳥はこのトンビだったのか。ますます親しみがわいてきた。そういえば、金沢工大LCのカメラにも様々な鳥の姿が映し出される。急に野鳥が身近に思えてきた。

 たまたま、石川県の地方紙にも同時期、千枚田の写真が載せられていた。その記事は「日本の原風景」と紹介していた。

 しかし、どの時代を想起して原風景と言っているのか、戸惑いを覚えた。都市化されていない風景を指して原風景と言っているとすれば、東京感覚であって地元の感性ではないのではないか。歴史を深く理解したうえでの記述ができていないのかもしれない。

 以前、岡山県の古代史通の方とメールを交換した時、「縄文時代の棚田はどんなものでしょうか」という質問を受けた。岡山は飛鳥より古い古代王国・吉備の地であり、弥生時代の先進地であったことからの発想であったと思われる。が、縄文時代の棚田耕作は、まだ時期尚早で考えづらい、と返信したことを思い出した。

 本当に、一つの風景が様々な想いを巡らせるように、と迫ってくるはずです。皆さんも是非、カメラを通して叫んでください。

 絶景かな! 絶景かな!

恋に効く薬はないが、英語の薬は?

 体調不良で、長らくブログから遠ざかっていたが、医師の診断が下りて薬の服用を始めた。芸能界をにぎわせている「クスリ」とは違い、体調もやや安定してきた。久しぶりにブログを書いてみよう。

 と、思っていた矢先、ネタが見つかった。だがそれは、女房殿と並んで、世の中で最も苦手な英語の話である。

 これも久しぶりになった映画を観にいった。デンゼル・ワシントン主演の「サブウェイ123」だったが、チケット窓口で、どう発音すればいいのだろうか、と迷ってしまった。「123」は「イチ・ニイ・サン」なのか、「ヒャク・ニジュウ・サン」なのか、はたまた「ワン・ツー・スリー」か「ワンハンドレッド・トエニィスリー」なのか。

 以前、ハリソン・フォードが主演した潜水艦の映画で「K19」というのがあった。窓口で「K・ジュウク」と言ったら「K・ナインティーン」と言い直された記憶が頭をよぎり、今回は「サブウェイ」とだけ言ってチケットを買ったのである。

 映画が始まると、意味が分かった。話題の地下鉄は始発駅を1時23分に出るから「ワン・トエニィスリ」と呼ばれるのであった。

 翌日、放送スタッフに、自慢たらしく正解を教えたわけである。ところが、意外な反論にあってしまった。映画のストーリーでは「ワン・トエニィスリー」なのだが、日本名のタイトルとしては「ヒャク・ニジュウ・サン」と言うのだそうである。

 まんまと1本取られてしまった。「あぁ~、やっぱり英語は苦手だゎ」と落ち込んでいた。そこへ、今度は、6日に放送されたオールディーズのリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」である。曲数が11曲と普段より少ないのである。これは由々しきことだ、と思ったが、理由はすぐに分かった。

 パーソナリティのロイ・キヨタさんが、リクエスターの要望に応えて久しぶりに、英語詩の日本語訳をしていたのである。曲は、私も大好きなダイアン・リネイの「ネイビー・ブルー」であった。

 日本語訳の解説は以前にもしていたが、話が長くなって肝心のオールディーズの曲数が少なくなるのである。「あちらを立てればこちらが立たず」である。そのイライラを解消するために、解説専門番組「ストア! オールディーズ」を始めたのである。この番組は見事に放送批評懇談会の「ギャラクシー賞ラジオ選奨」を獲得し、口うるさい委員の方々からも絶賛を浴びたのである。

 しかし、番組が終了して5年以上が過ぎた。リスナーにすれば何度でも聴きたいところであろう。ここは一番、自然の流れに任せるしかないのかもしれない。

 それでも、復活最初の曲が「ネイビー・ブルー」というのも思いで深い、幸せな話である。

 歌詞の中に「シップ・アホイ」という単語が出てくるのだが最初は、英語が母語のロイさんでも分からず、随分と調べた挙句、正解が見つかった時の喜びようがラジオからも溢れるようで、感激したものだった。

 「シップ・アホイ」とは、出港して行く船に、「オーイ、待ってくれ」と呼びかける意味だそうである。以来、持ちネタの一つにしてしまっていた。

 よし、これをブログのネタにしよう、と思い立ち、ロイさんの所へ出かけた。

 「ロイさん、シー・ホッパーという綴りを教えてください」。ロイさんはスラスラとペンを走らせたが、「ところでこれは何?」。怪訝な顔をされて「何ってほら、ネイビー・ブルーの歌詞の…」と言い淀んでしまった。

 「あぁ、シップ・アホイね」と言い直して「Ship Ahoy!」と書き直してくれた。「それから、2隻以上の船だったら「Ships」だからね、と念を押されてしまった。

 それにしても、この英語力の低さは何なんだろう。今聞いた単語でさえ分からなくなってしまう。恋に効く薬はない、というが、英語に効く薬はないものだろうか。

 あぁ、そう言えばオールディーズに「恋の特効薬」という曲があった。ザ・サーチャーズの「Love Portion No.9」というのが…。恋にはあっても英語には無理か?    それと、失敗しても懲りないこの持病にも薬はなさそうである。

お好きなのはレア?

 10日(月)の午前9時過ぎのことだった。第1スタジオ前の受付の電話が鳴り出した。リスナーから番組に対する感想だった。今、終わったばかりの「小さな喫茶店でアルバム聴けば」だった。担当はKお嬢。70年代のアルバムを素材に放送しているものだ。

 一瞬、週の頭から苦情だろうか、と一瞬緊張したが、「こんなレアな曲をかける番組があるなんて初めて知った」と、感激してのものだった。スタッフ一同、ほっと胸を撫で下ろした。

 そのアルバムはシンガー・ソングライター立原累が1975年に発表した「流浪(さすらい)」というタイトルだった。

 私は、発表当時はもう社会人になっていて音楽も聴かなくなったころで、もちろん立原累の名前も聞いたことがなかった。

 どうしてKお嬢は、こんなレアなアルバムを探してきたのか、疑問は尽きなかった。が、答えは分かった。レコードの宝庫であり、FM-N1の貴重な音源にもなっている金沢工業大学のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)の20万枚のレコード棚の裏の裏に保管されていたのを見つけたらしい。

 FM-N1随一の音楽通であり、PMCの守り神ともいえるロイ・キヨタさんでさえ感心していた。もちろん、ロイさんは私と違って立原累を知っていたのだが、Kお嬢の振る舞いに感服しきりであった。

 「普通はジャケットだけを見てレコードを選ぶことが多いのだが、彼女は歌詞カードまで広げて、確認の上で決めたらしい。なかなか出来ないことだよ」

 そう言えば、Kお嬢は以前、70年代の歌詞は難しくてよく理解できない、と泣きべそをかいていたこともあった。特に、あがた森魚、ともかわかずきには大苦戦だった。三上寛にも手こずっていた。

 それが、歌詞をみて「これだ!」と思って選んだというのだから、少しは成長したのだろうか。

 電話をかけていただけたのは、金沢市内の40~50代の男性のようだったという。お盆休みでもあったのだろうか、いつもは聴かない時間帯にラジオのスイッチをいれていた様子だった。どこに縁があるか分からない。陰に隠れた努力が実って、リスナーに喜んでもらえたわけである。

 Kお嬢も、レアなアルバムを番組に料理することができるようになった。ただ、ステーキとちがって、音楽の表面だけを味わうのではなく、もっと深いところも料理してほしい気がする。その日も近いうちだろうが・・・

数字のいたずらとインターネット特番

 全国で、コミュニティFM局の開局数は230を超えている、と思われる。その大多数が日本コミュニティ放送協会(JCBA)に加盟している。わがFM-N1は開局14年目を迎えており、24番目の開局であるから、業界では古参の部類に入ることになる。

 まさか、本当にこれだけの放送局が開局するとは、隔世の感がある。それぞれの地域で、地域に密着した情報を発信する確かな足場を築いていることでしょう。

 コミュニティ放送局の初の全国組織として結成された全国コミュニティ協議会(JCBA)時代、当時の会長であった木村太郎氏(ジャーナリスト、ビーチFM代表取締役)は、開局数の目標を330ほどに置いていたことがあった。

 当時の全国の自治体数が約3300であったことから、10%を目途にしていたものだった。

 ところが、きょう7月31日(金)付の新聞に、全国の町の数が市の数を下回る、という記事が載っていた。今年度末の予想数なのだが、平成の大合併によって町が782に、市が783となって逆転するのだという。人口が5万人を超え、23年度以降に単独市制を目指す野々市町(FM-N1の所在地)はもちろん、まだ町のままである。

 市と町の数を合計すると1565となり、政令指定都市の区を加えると1700を上回る。ということは、当初の目標だった全自治体数の10%超えは、達成されたことになる。

 当然、反論の向きもあると思われる。それは数字のトリックであって、330になっていないから目標には届いていない。それが理屈である。

 しかし、これから先は、そう簡単に増えないのではなかろうか。コミュニティFM局には1自治体1放送局という大前提(早期開局の中には例外あり)があり、主だったところはほぼ開局したと思われるからである。 自治体の総数が減少すれば、開局数も連れて伸びないのもまた理屈なのである。

 また出力20Wでは、合併して広域化する自治体のエリアを、より広くカバーすることは困難になるからである。野々市町の面積は約1里四方より狭い13.56平方キロメートルなのだが、広域圏行政をとっているから生活基盤は広いのである。

 こうした環境を少しでも改善し、コミュニティ放送に対するリスナーの接触の機会をすこしでも増やすためFM-N1では、インターネット・ラジオを開始したのです。インターネットだからといって、もちろん、大手のメディアから取り残された、情報発信の過疎地域ともいえる地域密着の情報発信を目指すことには変わりありません。

 そして、あす8月1日(土)には、インターネット・ラジオとなってはじめて、地域の祭りである野々市じょんからまつりに合わせた特番「野々市5万人~今から夢が始まる」を放送します。小学校5,6年生全員に対するアンケート調査「新しい市の名前は何がいいか?」も盛り込まれています。

 また、夢を実現させていく力は何か? 地域情報を発信しながらも全国に通用する内容になると思います。スタッフが一丸となって取り組む特番は午前11時から正午までの1時間と、午後2時から同6時までの4時間です。お楽しみに。

野々市じょんからまつりVS道君

 野々市じょんからまつりが8月1、2の両日、野々市小学校のグラウンド周辺を主会場に開かれる。FM-N1でも、1日(土)の午前11時から正午までと、午後2時から6時までの合わせて5時間のじょんからまつり特番「野々市5万人~今から夢が始まる」を放送する。

 今年のまつりは、野々市町が平成の大合併で、金沢市の無理強いともいえる合併話を拒否して「単独市制実現」を掲げてから、ようやく推計人口で5万人超えを目の当たりにした記念すべき祭りとなる。

 しかし、粟貴章町長をはじめ、町幹部の口を突いて出る言葉には浮いたところがない。市制実現のゴールを迎えたのではなく入り口に立ったもので、これからが正念場、といった雰囲気が漂っている。したがって、特番のタイトルも「今から夢が始まる」としたものである。

 そして、野々市町にとって、歴史上の大きな出来事があった。地元の熱意にもかかわらず、大きな謎に包まれてきた国指定史跡「末松廃寺」(同町末松)の文化財調査報告書が発掘調査から42年ぶりに、文化庁から出版されたのである。

 従来の古代・加賀の豪族道君による創建説が覆され、大和政権である天智王朝の強い意向の下で、当時の加賀郡、江沼郡内の豪族連合が関わったものであることが分かった。律令制度が整って名実共に日本が統一国家になる前夜の、地方におけるダイナミックな動きが歴史の上ではじめて実証されたといってよい。実質的に、7世紀の中ごろには統一国家としての姿を見せていたことになる。

 古代からの手取川扇状地の開発の歴史こそが野々市町の歴史であり、1350年間にわたる栄枯盛衰の物語が切れることなくつながったことになる。その要の歴史上の人物が、野々市じょんからまつりの主役となる富樫氏である。

 祭りそのものは、創作による地域の文化的遺産である「富樫物語」や「富樫略史音頭」に基づいているものだが、謳われている富樫氏の善政も歴史の上に位置づけられることになった。

 一方で、これまでの末松廃寺創建の豪族とみられていた道君の人物像に対する影が深くなったのかもしれない。道君自身は創建対して主導的な立場になかったことは間違いないが、開発地の大豪族として管理者の立場であったことに違いはない。

 天智天皇の後宮に娘の道君伊羅都売を送り込み、豪族連合の首座を得た理由は何であったのか? 末松廃寺の謎が一応解明された今となっては、よけいに際立つのである。

 もし、これが、野々市町が金沢市に吸収合併されていたらということだが、調査報告書「史跡 末松廃寺跡」はこれほど地元に歓迎されていただろうか、と背筋を寒いものが走る。なにしろ、石川県の歴史については、加賀百万石の以前については多くを語らない節がうかがえるからである。

 なにしろ、道君の本貫地は金沢市なのだから。といっても、同市の森本であり、金沢市に合併された地域である。もう一つ、末松廃寺を核とした扇状地開発の重要な地点は、稲を運び出したと思われる金石の港(宮腰の津、大野湊)であるのだが、やっぱりここも金沢市に合併された地域である。

イワシと馬と頑張り度

 金沢の片町に「鰯組」という居酒屋がある。何がウマが合うのか、FMーN1のスタッフの中に、ひいきにするスタッフが多い。といっても、スタッフ全員を合わせても6人なので、たいした人数にはならないので、威張るほどのことでもない。

 きっと、安月給のスタッフにとっても安心できる居心地のよさがあるのだろう。

 それとも、ここの大将が、無類のフォーク好きであることの方が影響しているのかもしれない。

 石川出身のギタリストが主宰していたロック・コンサート「Yまつり」の打ち上げ会場に紹介したこともある。大盛り上がりだったそうで先日も、コンサートの常連だったムッシュKさんがふらりと姿を見せ、お客さんの間から「ムッシュ」「ムッシュ」の大歓声が上がった、と聞いた。

 スタッフN君の仕入れてきた情報だった。  N君は酔うほどに、大将と音楽論議に花を咲かせたらしい。

 話題は吉田拓郎の新アルバム「午前中に・・・」及び、「どの曲が一番好き?」という質問に大将はすかさず、「真夜中のタクシー」ですかねと答えたという。メロディーにあわせて語りだけの長い曲である。実は、バンドの経験があるものの歯が立たなかったN君のお気に入りは「Fの気持」である。ギター・コードをモチーフにした作品である。

 FM-N1きっての音楽ウルサ型のスタッフT君に言わせると、アルバムの1番目に収録されている「ガンバラナイけどいいでしょう」がダントツだと言っていた。

 私自身は、ピンとくるものがないアルバムだ、が第一印象だった。強いて言えば「Fの気持」かな、と思っていた。

 そこへ、吉田拓郎が最後の全国ツアーを、体調不良のため中断した、というニュースが流れてきた。ある医師によると「もともと、ツアーをすること自体に無理があった。本当はツアーを組めるような体調ではなかった。しかし、前の例があるから、復活することもあるかもしれない」との見立てだった。

 そして、私の気持も変わってきた。「ガンバラナイけどいいでしょう」という曲は、現役をリタイアした団塊の人たちに向かってのモノではないことに気付いた。新アルバムを出すこと自体が拓郎にとっては、相当に頑張らないとできない仕事だったのではないか、ということであった。

 体調不良を感じながら曲づくりに没頭する自分自身に対するつぶやきだったような気がしてきた。

 そう思って聴けば、「ガンバラナイけどいいでしょう」が一番好きな曲になってきた。口ではチャラケながら、どこまでも生涯の仕事一筋。そうであるなら、喝采を送りたい。歳はいっても、新しい仕事に挑戦する姿。仕事なくして何が人生だ、と言いたくなる。

 ただ、悲しいのは定年の二文字である。仕事をする場がなくなってしまうのだから残酷である。突然、自由を手にしても、無為に過ごさなければならないとしたら、幸せなのだろうか、と考え込んでしまう。

 そうこうするうち、還暦を迎えた井上陽水がデビュー40周年ツアーを打ち上げたというニュースも入ってきた。

 人生の残り時間はいざ知らず、仕事はまだ残っている。

放送の縁は異なもの命つなぐもの

 事実は小説よりも奇なり、という言葉がある。自分たちの放送で、まさに絵に描いたようなストーリーが展開するとは、我ながら予想だにしなかった。

 先日から、FM-N1で里親探しを呼びかけていた2匹のシーズに、新しい飼い主が見つかりました、という連絡が保健所から入ったのが7日(火)のことだった。スタッフ一同、胸を撫で下ろしていたところ、8日(水)午前10時15分からの番組「N1コミュニティ~ポテトシスターズ」にゲスト出演した金沢市内の薬剤師の女性が、「その犬なら、家にいます」というコメントに仰天してしまった。

 この女性は、番組出演に備えてFM-N1のホームページを見ていたところ、捨て犬だったシーズの里親探しを訴えるスタッフ・ブログが目に入った、という。もともと、既に飼っていた愛犬がシーズだったこともあり、ブログの写真に心を打たれて「同じ犬種で、なぜこれだけの違いがあるのか」と、気付いた時には受話器を握って、保健所に電話をしていた、という。

 「最初は、精神的に不安定でしたが、少し目に光が差してきました」と、信頼関係が生まれつつある様子を話された。「名前はハッピーにしようと思います」と、笑顔がこぼれた。

 ハッピーと名付けられたシーズは、6月30日に、もう1匹のシーズとリードで互いに結ばれて、野々市町稲荷4丁目の御園公園に、衰弱したまま放置されていたのである。そしてハッピーの方は怪我をしており、足を引きずっていたが金沢市内の薬剤師に、もう1匹はやはり、小松市内の善意の方に引き取られた、という。

 そして嬉しかったのは、里親探しを呼びかけたスタッフたちの心根だった。公園で発見された状況から捨て犬ではないのか、と思われたが、最初は、迷い犬として飼い主探しを呼びかけた。そして、飼い主にも止むに止まれぬ事情があるはずだから、との思いで、責めるような口調を慎むように細心の注意を払ってくれたことだった。

 保健所に移されてからは、里親探しに切り替えた。その時、飼い主から保健所に「保護されているのは私の犬かもしれない」と連絡があった。

 飼い主の確認まで、少し時間がかかった。この時間が、シーズと新しい飼い主との出会いを生んだのであった。この時間がなく、行政の決められた手続き通りに進んでいたら、出会いはなかったのである。

 そして、元の飼い主は、再び愛犬を手元に置くことはできなかった。が、犬が嫌いになったわけではないのである。もう一度、愛犬の顔を見たいという愛情があったればこそ、ハッピーたちも救われたのである。元の飼い主の心の傷が早く癒えるよう、スタッフ一同は願っています。

 

チョモランマ登頂の旗の謎が氷解

 FM-N1のパーソナリティで、神奈川大学登山隊の一員としてチョモランマ(エベレスト)登頂に成功した田中康典さんの講演を、6月20日(土)に聴く機会があった。淡々と話す姿に接し、とても過酷な登山であるという雰囲気はなく、誰でも登れる山である、と錯覚させるような感じで、本物の達人が身近にいる興奮を味わった。

 講演の中で、自己紹介をされたが、平凡な私と較べて(比較すること自体が間違いであるが)勝てるところは一つもなかった。8848メートルのチョモランマ(新説では8850メートル)に登頂したのに対し、私は白山、それも頂上ではなく、南竜ケ馬場までしか登ったことがない。大学を6年かかって卒業したそうだが、私は5年で、1年負けている。前の会社を50歳で退職して再就職したそうだが、私は根性がなく47歳で退職して現在に到っている。50歳であれば決断が出来たかどうか。

 そんな中で、一つだけ勝るものがあった。年齢が1歳違いなのだ。昭和26年生まれだったが私は昭和25年生まれ。これだけは一生リードしたままで超されることはない。が、58歳でチョモランマ登頂なのだから、これも恐れ入る。そして年末には、7大陸の最高峰で唯一残された南極大陸のビンソンマシフ峰に挑むのである。

 講演の中身については、非常に多彩で、ここで全て紹介することはできない。が、ひとつ、ふたつ心に残ったことに触れてみたい。

 ベース・キャンプの写真を見せてもらったが、その横はすぐに氷河だった。この氷河も次第に後退している、とのことだった。氷が解けているのである。温暖化の影響かどうかは定かではない。

 もう一つ。チベット仏教の修行の五体投地である。自らの全身、五体を地面に投げ出して神に祈るのである。それを聖地巡礼で行うのである。簡単に言えば、一度の投地で進む距離は自分の身長分だけである。これを繰り返して聖地を目指すのである。以前、テレビで映し出された子供連れの女性の姿を見たことがあった。

 また、山登りで好きなものは岩登り(ロック・クライミング)である、という思いがけない話も聞けた。どちらかを取れと言われれば、チョモランマを捨ててクライミングを選ぶという。高さより、自分の理想とするラインを選んで、岩膚を登りきった充実感が勝るというのである。素人の思いの外だった。

 それでは何故、セブン・サミッター(7大陸最高峰の登頂者)を目指すのか。これは、仲間との約束だ、という。仲間というのは古里・石川の人たちか、神奈川大学の山岳部の仲間たちなのかは分からなかった。が、最初の夢を一緒に見た仲間たちなのだろう。

 とすれば、チョモランマは? 

 何と、常識的な答えだった。山頂で撮影した「K」のイニシャル入りの旗は勤務先の社長の元に届けるためなのである。田中さんの登山活動を支えているのは紛れもなく、社会人として給料を払ってくれている会社の理解があってのことである。とにかく山登りには、素人では分からないほどお金が掛かるみたいである。南極大陸最高峰の旗も社長室に収まることになるのである。

 とすれば、「K」の文字は神奈川大学のイニシャルと思っていたのは誤解だったのだ。それは、田中さんの勤務先の「桐原書店」の「K」だったのである。ベース・キャンプ地の氷河よりも早く疑問は氷解した。

レコードだけでなく金箔エステも探してきた

 スタッフのT君は、リスナーが失くしたレコードを探す「回って歌って80年」だけではなく、リスナー・プレゼント・コーナーがある「1212幸せの数字」(水曜正午~)のパーソナリティも担当している。

 レコード探しでは、よくぞこんなレコードを見つけてきた、と拍手喝采を浴びることもしばしばだが、6月17日の「幸せの数字」でも、見事なゲストを探してきた。もっともっと、大きな顔をしてスタジオを闊歩してほしいと思っている。

 そのゲストとは、金沢市西泉で、エステティック・サロン「KUMIエステティック」を経営している久徳久美さんだった。久徳さんはエステシャンでもあり、女性には人気の店だという。紹介してくれたのは金箔美人の話題だった。

 金箔といえば、石川県の産業のなかでも生産量日本一を誇る商品である。が、野暮な私にとって金箔と聞けば、すぐに仏壇という答えが口を突いて出る。せいぜいが修学旅行でいった京都の金閣寺や奈良の名刹で見た仏像の数々でしかない。おっと、もう一つあった。正月に呑む金箔入りのお酒だ。

 しかし、金箔が美容、お肌にいいとは。知らなかった。金箔には微量なマイナス電流が流れていて、肌のプラス電流と結びついて汚れをとる、という。

 プレゼントとして、金箔入り石鹸「金箔美人」をプレゼントした。値段は15グラムが504円、90グラムで2940円というから、想像していたより安い。これなら小銭入れで間に合うぞ、と腹のなかで算盤を弾いた。

 番組を終え、スタジオの外で聴いた話に、また驚いた。まつげに着けるとまつげが伸びる、という。顔の気なるカンパンにも塗りこむと効果があるらしい。我が家の古女房の顔を思い出し、また算盤をパチパチ。

 その上、顔や全身パックもあるという。顔のパックだと、今なら8400円のサービス期間という。都会なら2万円コースというから、ETC1000円を払っても十分元は取れるというもの。腹の中でパチパチという音が更に高まり、私の小銭入りのケタ数を超える勢いになってきた。

 話が最高潮に達してきたとき、パーソナリティーのT君も加わってきた。久美さんがT君に、顔のパックをしてあげましょうか、と話しかける。ところが放送中より、T君の顔が大きくなっている。これでは普通の人の2倍は必要なのではないだろうか。「高くつくぞ。大きな顔をしてスタジオ内を歩くのは、パックの後にすれば良かったのに・・・」。

 久美さんの番組はFM-N1日曜日午前9時半からの「KUMIのHAPPY SUNDAY」でも楽しめます。

地方紙は陸の豪族か海の豪族か

 過日、地方紙のHK新聞のコラムに、「大阪城は誰が建てた。大工が建てた」という笑い話を引き合いにして論を展開していた。もちろん、建てたのは豊臣秀吉である。企図、構想、大規模工事を裏打ちする財政力が必要だから、技術者集団(工人)が建てたとされないのは当然のことである。

 そのHK新聞がきょう(6月10日)付の朝刊で、大きな紙面を割いて、野々市町の末松廃寺の調査報告書が刊行された、と記事を掲載していた。内容については、不正確というか、古代史についての勉強不足がありありと行間ににじみ出しており、読者に誤解を与えるのではないかと危惧を覚えた。

 実は、この記事は、HK新聞の対抗紙とされる地方紙のHC新聞がかなり以前に、特ダネとして掲載済みのものだった。レベルも圧倒的にHC新聞の方が高かった。後追い記事の割にはHK新聞の迫力のなさには少々がっかりした。

 両地方紙は、これまでも発掘モノ(考古学関係の記事)で、しのぎを削っているようである。最近でも、先月下旬にHK新聞が舳倉島の調査記事を書き続ければHC新聞は6月1日の紙面で、珠洲焼きを積んだ沈没船の調査を伝えるなど、角の突きあいが目立っている。

 こうした事情を背景にしているにも関わらず、末松廃寺の記事は歯切れが悪かった。

 HC新聞が既に、「道君建立の通説は覆った」としているのに対し、HK新聞では「道君建立の通説とは異なる見解」と一歩後退しているのである。FM-N1の取材を通して確認しているのは、「通説が覆った」のである。二説が並存しているのではなく、新事実として道君建立説が消えたのである。もちろん、「建てたのは大工説」をとるならば、道君が関与していたことは完全に否定できないであろう。

 もちろん、HK新聞がいうように「南加賀の豪族が建立か」というのも大工建立説である。当時の、古代の越国(現北陸)のうち加賀郡、江沼郡の豪族を協力させて、近畿の王権(天智朝)が扇状地開発のために、国家目的を遂行するための大事業として建立された、と調査報告書はいっているのである。

 昭和41、42年の文化庁による発掘調査の報告書がようやく刊行されたわけであるが、当時の新聞を保存していた末松町在住の方に見せてもらったことがある。当然、有力紙であったHK新聞である。これでもか、という具合に道君建立説が紙面に踊っていた。今回の報告書は、この記事から軌道修正をする良い機会であったと思われるが、機会を逸してしまったようだ。

 野々市町議会でも既に、粟貴章町長は「国家的大事業」と一般質問に対して答えている。

 南加賀の豪族建立説や道君説に立つとするなら、それは一豪族の氏寺としての性格しか持たず、国家的事業とは言いがたいのである。

 調査報告書がいうように、工人的観点からすると「南加賀の豪族(財部造=たからべの・みやつこ)」が主導したのだろうが、管理を任されたのは道君ではないだろうか。末松廃寺建立と相前後して、道君伊羅都売が天智天皇の後宮に入っているからである。道君の方が優位に立っていたと思われる。

 道君は河北潟を本貫地(本拠)とした豪族である。水運に長けた海の豪族といってもいい。財部造(能美氏)は小松の梯川流域から能美古墳群にかけての手取扇状地を開拓(末松よりも早い)した陸の豪族といってもいい。両豪族が中心になって天智朝の号令の下、末松廃寺を建立、屯倉としたのである。

 地方紙の両紙は、どちらが海の豪族でどちらが陸の豪族かは知らないが、手を組んで事に当たることは金輪際ないのであろう。

アントニオ古賀から始まる人生小劇場

 パソコンで、金沢工業大学のライブラリー・センターに設置してあるライブ・カメラの映り具合をモニターしていたら、レンズのはるか前方を鳥が飛んでいった。

 「お~っ、鳥が飛んでいくぞ!」と、思わず大声を上げた。その時、横を通っていったスタッフのN君が「鳥ぐらいで何を大騒ぎしているんですか。スーパーマンでも飛んでいるなら驚きますが」と言ってのけた。

 FM-N1のサイマル放送をパソコンで聴く時には、ライブ・カメラの映像や静止画のスライド・ショーが見られるオマケ付きになっています。1粒で2度おいしいのですが、スライド・ショーの中には野鳥の写真や山野草、野々市町の風景など多彩に展開しています。

 犬の写真もアップされており、スーパーマンならぬスーパーワンが“空”をひとっ飛びしているものがあるのを知らないのか。後が怖いので口には出せず、心の中で叫びました。「可愛げのない奴だ」。

 とはいうものの、本当は茶目っ気タップリなのです。

 先日、「高橋リバーサイド・ステーション」という番組を担当しました。日曜日午前9時からの番組「ハイスクールDJ」(再放送は午後5時~)が第5週に当たる時は、スタッフが好みの音楽を流すことにしています。

 5月31日のことでした。1曲目がアントニオ古賀の「クスリ・ルンバⅡ」でした。アントニオ古賀は、名前からも分かるように古賀政男さんの弟子でギターの名手です。「その名はフジヤマ」というヒット曲も歌っています。が、「クスリ・ルンバⅡ」はコミック・ソングで、薬の名前、お酒の名前、麻雀の役の名前を羅列しただけの曲なのです。

 いきなりこの歌で、どんな進行になるのか心配していたら、コメントが洒落ていた。「人生にとって、つき物ばかり」ときたものだ。言われてみれば、薬は人の命を救うものだし、お酒は憂さを晴らす秘薬、百薬の長である。ギャンブルは時には人生を狂わすが、切っても切れない趣味、道楽でもある。人生そのものがギャンブルに例えられることもあるほどだ。コミック・ソングが名曲に思えてきた。

 続いて、由紀さおりの「ルームライト」だった。人目を避ける男女がタクシーで帰ってくる。「♪あの薬屋の角を曲がると」別れの時で、女はタクシーを降りる。男は前を向いたままで、女には目を向けない。男の横顔だけをルームライトが照らし出す。

 意外な展開になってきたぞ。

 3曲目が鈴木雅之の「タクシー」だった。別れた女が、男に会いたくなってタクシーに乗り込む。体が冷たい雨に濡れたからだ、と屁理屈を並べながら、もう一度の逢瀬を望むのだが、迷いが吹っ切れず、タクシーに乗ったまま都会の夜をさ迷う、という歌詞だった。

 タクシー運転手は様々な人生模様を見ている。が、反対に多くの人から観察される立場でもある。と、言われれば、ごもっとも。

 次に繰り出されたのが桑江知子の「真夜中のドライバー」だった。

 初恋の男が沖縄を出て、都会でタクシー運転手になっている。便りの一つもない。タクシーに乗って、三線の島唄が流れていたら、それが私の探している人だから、教えてほしい、とお客さんに頼んでいる切なさが心に響く。酒や女、ギャンブルで身を持ち崩していないか心配している。

 なるほど、人生はやっぱり、酒とギャンブルがつき物なんだ、と妙に感心した。タクシーという狭い車内に、いろんな人の人生を乗せながら走っている、と言うN君。お客も運転手も人生に迷いそうになっているが、運転手は必ず「お客さん、どちらまで」で始まるのだそうだ。

 最後は、青木光一の「僕は流しの運転手」だった。歌詞に「お客さんどちらまで」とあった。

 そして、次の第5日曜日は8月にある。N君は図々しくも、先輩のT君の担当を取り上げたらしい。そうか、スーパーマンを見つけたわけでもなく、「高橋リバーサイド・ステーション」ぐらいで驚いていてはいけないのか。

大統領就任演説でパニック

 5月29日(金)正午からの番組「オールディーズ・デイティング」で、パーソナリティのロイ・キヨタさんが言葉に詰まって、パニック状態になった。   これは一大事。ロイさんのパニックはFM-N1にとってのショック。番組終了後に、事情を聞いてみたところ、予想した通りの答えが返ってきたのである。米大統領の「就任演説」の話題になって、日本語の単語が思い出せなかったのである。

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 それも、ラジオの中で。
 1月16日(金)の番組「生活いち番シャトル便」でした。パーソナリティの勝尾外美子さん(金沢子供の本研究会代表)がFM-N1の年賀状に触れて「「サイマル・ラジオという新文化が生まれる予感がします」の部分を褒めていただいたのです。
 番組の冒頭では、川崎洋さんの詩「いま始まる新しいいま」が朗読され、その詩に関連して紹介されたのでした。
 一連目が「心臓から送り出された新鮮な血液は/十数秒で全身をめぐる/わたしはさっきのわたしではない/そしてあなたも。/わたしたちはいつも新しい」であった。
 いつもと同じように放送しているが、きのうとは違う放送にしたい、というスタッフの心意気が褒められているようで、引き締めようとしても、自然と口元がほころんできました。
 

こんな苦労をしてまで音楽を聴いていた

 オールディーズのリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン(通称ブロタイ)」を聴いていたら、うれしいお便りが紹介されていた。ラジオ・ネーム「タイムマシン・ブレーカーズNo.3」さんからのものであった。
 「No.3」さんがブロタイと出遭ったのは、金沢に転勤して来てからだ、という。以来、熱心なリクエスターになっていただいた。「タイムマシン・ブレーカーズ」のラジオ・ネームを使っていたのは98年に、番組がスタートした直後の常連さんたちであった。
 FM-N1が意図していた通りに、ラジオを中心に、地域の音楽好きの人たちがブロタイ・コミュニティとでも呼べるような集団を形成していく過程を実感でき、ラジオ・マン冥利につきる思いがしていた。
 その「No.3」さんが大阪への転勤で、金沢から離れたのが4年前。「これから聴けなくなる。泣くような手紙がきた」と、パーソナリティのロイ・キヨタさんが、番組内で思い出話を紹介していた。
 それからというものは後輩に番組を収録させて、テープを送らせていたらしい。
 昨年6月、インターネット・ラジオによるサイマル放送が開始されたことを知ったのを機に「今は横浜勤務。ネットで聴いています」と嬉しそうだった、という。
 野々市町にある放送局と縁が生まれたリスナーが、出力20Wの圏内から離れても、ネットで聴ける。パソコンの前に、ヴァーチャルな野々市町の空間が広がる。そこには「のゝ市人」がいる。サイマル放送は、世界に向けたラジオ放送をしたいのではない。野々市町と一度でも結ばれた人たちとの絆を切らせたくないのである。あくまでもコミュニティ放送でありたい、と再確認した次第である。

PMCにビートルズの未開封レコードがあった

 金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)は常々、宝の山だと言ってはいたが、こんなお宝が眠っていたとは思いもかけなかった。
 PMCには20万枚を超すレコードが所蔵されているものの、すべてが音楽愛好家からの寄贈によるもので、原則的には、一度開封されてレコード盤に針を落とされたものである。文字通り、レコード盤が擦り切れるほど聴いたものや、カセット・テープなどに録音するために一度針を落とし、後は大切に保存されていたものなど、状態は様々である。
 ところがである。9日(金)正午からの番組「こそあのオールディーズ」で、パーソナリティのロイ・キヨタさんがとんでもないことを話し出した。
 PMCで、ビートルズの未開封のレコードを見つけました。これから、初めて針を落とした曲を皆さんに聴いてもらいます。

井上堯之、またギタリストが去っていった

 昨日(1月7日)の朝、スタッフが届けてくれたニュースを聞き、愕然とした。ギタリストで元スパイダースの井上堯之さんが現役を引退する、というものだった。人間の悲しみを表現した曲想に共感を覚えていた、というだけでなく、FM-N1とも縁の深い音楽家であっただけに、残念であった。
 高校生のころからスパイダースのファンだったが、井上さんに直接会ったのは10年前の平成11年7月13日夜のことだった。金沢市内で開かれたライブの後、強引に楽屋に訪ねた。そして、翌朝のラジオ番組に出演してくれるように頼み込んだ。開局4年目で、がむしゃらだったのかもしれない。
 井上さんは車にギターを積んで、東京から一人で運転してきていたが翌朝も、姿を見せると気さくにスタジオ入りした。
 トークの中で、まだ発表前の企画を明かしてくれたことがまだ記憶に新しい。ムッシュ・かまやつ、堺正章と結成するユニット「ソン・フィルトル」だった。このユニットは紅白歌合戦にも出演した。出演料なしのサービスが、貧乏世帯のFM-N1にはありがたく、好意を受け取った。

とうとう新聞の争いに巻き込まれてしまった

 さすがと言うべきか。荒業と言うべきか。新聞社の動きは素早いものである。
 昨日、HPの「歴史のある街」のブログで書いた末松廃寺の創建者に財部造が浮上してきた記事で、地方紙HC新聞抜かれた地方紙HK新聞が、これもブログの最後に書いた白山市の番匠遺跡の話を6日の紙面で抜いていた。
 一応、特ダネという形をとったが、同遺跡の話はFM-N1でさえ知っていた発掘現場で、ましてや石川県埋蔵文化財センターのHP上で紹介されているものである。
 実は、この番匠遺跡というのが、文化財関係者の間では“曰く付き”の遺跡なのである。
 先のHC新聞が、昨年7月に、白山市横江の東大寺領横江荘近くの遺跡を「石川郡庁確定的」「正殿跡か柱列跡」と特ダネを書き、HK新聞が「郡庁跡か寺院跡か」と否定的に、後退するような報道をしたことにある。
 この後、番匠遺跡の調査の概要がまとまっていたが、「大変な遺跡を発掘したが、新聞社の争いに巻き込まれたくない」という複数の文化財関係者のぼやきが漏れてきていた。とうとう、報道発表出来ないままにHP上で公表していたものだった。

気持い~い音楽を思い出した年末特番

 スタッフのN君が年末特番で奮戦している。というか、悪戦苦闘といった方が適切かもしれない。無理もない、FM-N1の門をくぐって、まだ1年。これまで聴いたこともない古い曲ばかりだから無理もない。
 レコードの宝庫と言われる金沢工大のポピュラー・ミュージック・コレクション(PMC)は、N君にとっては未知の世界に放り出されたようなものだろう。
 担当している特番はレギュラー番組「エレキにしびれて」の年末スペシャル番組「ジュリー!色つきの男でいてくれよ」と、夕焼け祭り特集「ありがとう!ムッシュ」の2本である。
 そんな最中、ぶち当たったのがロックン・ロールだった。いったい、ロックとはどんな曲のことを指すのか、定義も定かではなかったようだ。まして、日本のロックとは? 資料を読むと「反体制」という言葉が出てきたが、その意味さえも正確にはわからない。無我夢中で、疑問符だらけの海を泳いでいたようである。

作曲家と歌手の後塵を拝すべきか

 先週の19日、作曲家の遠藤実さん(故人、12月6日死去、享年75歳)に国民栄誉賞が贈呈されることが決まった。「高校三年生」「北国の春」など5千曲を作曲し、国民的作曲家と認められたことになる。
 作曲家としては古賀政男さん、服部良一さん、吉田正さんについで4人目という。誠に目出度い事である。音楽関係者としては、このほかに歌手の藤山一郎さんと美空ひばりさんがいる。音楽関係の6人の中で、生前受賞者は藤山さんの81歳があるだけで、あとの方は全て故人である。これと比較して、スポーツ選手の場合は圧倒的に生前受賞が多い。
 しかし、選考基準には明確な基準がないせいでもあるが、スポーツ不適応症を自認する身としては、何か釈然としないものを感じる。
 スポーツ記録というものは、いつかは記録が塗り替えられる可能性があるものである。対して、音楽関係者はこの後、さらに優れた作品を発表する機会はあっても、既に発表された作品の評価が落ちるものではない。こうした、文化的な要素を持つ人たちには、生前に栄誉を贈ってもよいのではないだろうか。

文化をとるか商売をとるか

 親会社の忘年会に、久しぶりに参加した。今年は、わが社の社長の運転で、能登の会場まで、送迎をしていただいた。つかの間の殿様気分を味わえた。真に快適な道中であった。
 宴会の料理がまた良かった。海の幸もふんだんにあり、日ごろは余り好みでない肉もおいしく、正解のひと言につきたが、後がいけなかった。
 乾杯の発声のあとは、梅酒を蜂蜜で割ったものだったが、ここまでは許すことにしよう。次にでてきた言葉が、「ビールはどの銘柄にしましょう」。盆の上には3種類の瓶が並んでいる。
 参加者は口々に「首の長い動物がいい」「ラグビーもどきはないか」「日が昇るようなやつ」「砂漠のようにチョ~乾いたもの」「青い鳥が3羽いた」「北海道の中心地」「大黒様のお連れは・・・」と好き放題で、景気よく呑み始めた。
 前日の番組の中で、インタビューを受けていた先生は「私はビールなんかで乾杯はしません。日本酒しか口にしません」と述べていたが、私も「然り」と拍手をしていたものだ。それが、このビールの洪水はどうしたことだ。
 毅然と言い放った。「お酒をください」。すぐに、九谷焼と思しき銚子が運ばれてきたので、いつものようにコップを差し出した。トクトクトク、といい音をして注がれた。しかし、口元に運んだだけで、コップを置いた。

稚拙なブログで、すみません

 先月、11月27日に甲南大学(神戸市)へ行ってきました。恥ずかしながら、森田三郎教授のメディア文化論の講義で、講演の真似事をしてきたのです。テーマは「コミュニティ放送と地域;ケース FM-N1と野々市町」でした。
 実は私、大学の卒業証書を持ってはいるものの、全く、その重みに値しない大学生活を送っていたものですから、教壇に立つなど、天を恐れぬ所業なのです。案の定、稚拙な話で、冷や汗一斗の状態でした。それでも、温かい職員の「コミュニティ放送にかける熱い思いは伝わりました」という慰めにも似た言葉に背中を押されながら、帰ってきました。
 レジメには、FM-N1の開局からの活動をまとめましたが、「確立期-受賞疲れ」の項目など、十分に話せなかったことが多かったからです。
 そして12月11日にもう一度、講義に出るため、神戸に出かけることになっています。
 実は、神戸市の東灘で、甲南大も加わってコミュニティ放送局を立ち上げる構想があり、実際の過程を教材に、学生たちに学ばそうというものらしい。FM-N1のほか、関西地区の3局も協力しているものです。
 11日の講義は、コミュニティ放送を計画している地元のYさんがプレゼンテーションを行い、私たちはアドバイスをする立場なので、さらに、稚拙さを振りまく危険性は低いと、安心しています。
 

あぁ、そうだった、この声だった

 8キロの減量に成功した谷川昌則君。体のキレが出てきたのか、いや頭のキレが出てきたのか、キャッチコピーに恥じない選曲だった。探していた1枚のレコードを探す番組「回って歌って80年」のことである。
 その1曲は「今日の日はさようなら」である。何をとぼけた事を言っている、と思わないでほしい。この曲は2年ほど前の「トランジスタを聴いていた」のエンディング曲にも使っていたから、知らないはずがない。森山良子が歌っていた。
 当時から、違和感が消えなかった。何かしっくりとこないのである。トボケているのではなく、いよいよボケが来たか、と覚悟していた。ところが今週、ラジオから流れてきた「今日の日はさようなら」は違っていた。森山の繊細な声の質ではなく、少し太めの、落ち着きのある声だった。あぁ、そうだ、この声なんだ、と納得した。それは、本田路津子の歌声だった。昔、聴いていた歌唱だった。
 学生時代のサークルの飲み会は、今と違ってカラオケもなく、アカペラ状態だった。何を歌っていたのか? 簡単な話である。47都道府県、北の北海道から始まって、南の沖縄までのご当地ソングを探して歌っていた。一度も全部、歌えたことは無かったはずである。富山の先輩が歌う「越中おわら」に拍手喝采したことは、間違いない。

知恵の回り具合

 野々市町の人口は、11月1日時点の推計で4万9705人となった。単独市制の目安となる5万人まであと295人である。FM-N1などで結成するC5計画実行委員会が、民間レベルで市制実現を応援するための「のっティ新聞」にとっても朗報であった。
 12月1日には第11号が、同町の2万世帯に配布されるが、3月に予定されている第12号でも5万人を突破できるかどうか微妙な数字であるため、来年度も引き続き、のっティ新聞の発行を目指さなければならなくなってきた。
 新聞発行については、5年以上も前に、金沢市から野々市町に対して合併の意向が示されたものの、同町は単独市制を選択して、断ったことが発端だった。
 当時の記憶を辿ってみると、金沢市長は、政令指定都市を念頭に、大金沢市を実現するために合併を推進していたはずだった。ところが、同市はいまや、コンパクト・シティを目指しているのだそうだ。中心市街地の人口減少に伴う凋落傾向に歯止めをかけるとともに、郊外の乱開発を抑えるのだそうだ。
 もし、野々市町が金沢市に吸収合併されていたら、野々市町のエリアは省みられず、悲嘆の淵に立たされていたのだろうか。
 かつては一部で、県庁職員より優秀な金沢職員、といった風評もあったが、県内第一の都市・金沢としては、中長期見通しを誤っていた、ということか。まさに「大男総身に知恵が回りかね」の川柳を思い出してしまう。

祭りのあとの淋しさは…飛田さんを偲んで

 その人は一度だけ、ギターを抱えた左手を離し、眼鏡の奥へ持っていった。
 車椅子に座ったその人は、動かぬ指で、必死に弦をかき鳴らしていた。
 旋律にもならぬような演奏だが、その人は、確かにロックを弾いていた。
 会場の椅子に貼り付けられたように動けなかった私には、そう聴こえた。ほかのファンたちも、きっとそうだったろう。

 ドラムはつのだ☆ひろが叩いていた。ピアノの前には宮原透が座っていた。ベースのクリス・シルバースタインがリズムを刻んでいた。ステージ中央ではがんで闘病中のその人、飛田一男がギターを弾いていた。夕焼けバンドであった。

 9月14日、津幡町文化会館シグナスで、夕焼け祭り2008が開催されていた。

 居たたまれないように、近藤房之助が楽屋から現れ、ギターを爪弾きだした。金子マリがスキャットで加わった。木村充揮もステージに姿を見せた。ムッシュかまやつは、一番端のアンプに腰掛け、温かく飛田を見つめていた。斉藤ノブもボンゴの席にいた。最後に、夏木マリが頬擦りした。

老眼のせいばかりでは…

 最近、各家庭の新聞購読は1紙だけ、それも朝刊だけというのが目立つのではないだろうか。好転しない経済情勢もあるが、次第に似たような情報しか掲載されていない傾向も、少なからず影響しているのかもしれない。
 わが家では2紙を購読している。一つは全国紙で、もう1紙は県内地方紙の雄「HK新聞」である。もちろん古里のことを知るには欠かせない新聞だと、思うからである。
 10日の朝も、朝食を前に新聞を広げると、あった、あった。生まれ故郷、白山市のニュースがあった。市議会全員協議会で、北陸自動車道の徳光パーキング・エリアに隣接して営業している「まっとう車遊館」が、民事再生法の適用を断念した、という記事が載っていた。角市長によると「最終的には倒産」の方向という。
 「まっとう車遊館」は、FM-N1の出力が20Wにアップした時、電波の受信状態がどこまで伸びたか、携帯ラジオをもってテストをしに行った事があった。建物の中では雑音混じりだった。
 出社してくると、後輩のUさんが、あいさつ代わりに「新聞見ましたか。白山市の議会の話が出ていました」と言う。「車遊館だろう」と答えると、怪訝そうな顔つき。目の前に、県内のもう一つの地方紙「HC新聞」を突き出された。
 そこには、「車遊館」と併せて白山瀬女高原スキー場の「白山レイクハイランド」の当期の赤字が2億3千万円を超え、同市が借入金の償還補助として1600万円を拠出した、との報告があったらしい。借入金は19年度末で、40億円を突破している、という。
 あれ、どうして、同じ議会の記事でありながら、「HK新聞」には「白山レイクハイランド」に関する記述がなかったのだろうか。
 「金利負担だけでも大変だろう」と、Uさんポツリ。
 老眼も進んできたから、見落としてしまったに違いない。

異常なのか? 異状なのか?

 8月末の日曜日、FM-N1では防災特番「浅野川氾濫の教訓に学ぶ」を放送した。細かい内容については、ここでは詳述できないが巷間、指摘される異常気象による局地的集中豪雨の実態と、水害の原因について教えられるところが多かった。
 「教訓その1」、と言っても、加川良の歌ではない。(ふざけている場合ではない? 失礼しました)
 浅野川の上流、浅川大橋での目撃談を放送した。深い谷に架かる浅川大橋の欄干部分まで濁流が押し寄せていた、という。土手の桜並木も流され、大道具のセットのように、目の前から一瞬に消え去った。情報だけで聞く「異常さ」を、身の回りに即して理解し、次の時の即応態勢を考えておくことである。
 「教訓その2」、と言っても、なぎら健壱の歌ではない。(同じ手はいけません。失礼しました)
 浅野川が氾濫するメカニズムが分かったことです。下流の中島大橋付近で、川の流れる速度が変化することです。大橋より上流では、山から流れ出る傾斜があり、流速が早いのです。大橋から下流では、平坦地を流れる緩やかな速度に落ちるため、急激な増水が吐ききれず、堤防を越えて浸水するという。
 「教訓その3」。(早々とタネ切れです)
 湯涌温泉でのインタビューで、人災的側面があったことである。同温泉の山中上部には終戦後、アメリカ進駐軍が娯楽、遊興の目的で造った人造湖があり、以前から危険な状態であったという。何度も行政に対して、補強対策をとるよう陳情していた、というが結局、手付かずのままで、温泉街が水浸しになってしまったという。行政頼りにならず、悔いが残る、という口調だった。
 まだまだ細かい点はあるが、抜本的な対策である。異常気象による50年に一度の局地的豪雨に対する策としては、最初は異状な提言に聞こえたが、至極もっともな話、と納得もさせられた。

国道8号線と変わったもの、変わらぬモノ

 7月31日、野々市町の情報交流館カメリアのサテライト・スタジオから、行政広報番組「マイタウンののいち」が放送されていた。出演していたのは町議会事務局長。話に耳を傾けていたら、流れてきたのが、かつて地元のロック・バンドとして活躍していためんたんぴんの「国道8号線」だった。
 生まれ故郷の旧松任町(現白山市)も8号線が走っていた。北陸線の松任駅前を通っていたのが、いつの間にか、市街の山側を通過するバイパスとして路線が変更になっていた。旧鶴来街道をはじめとする、日本海と白山を結ぶ幾筋もの幹線もバイパスによって寸断され、頭の中のナビゲーションがすっかり狂ってしまった。
 当然のように、商業の中心地もバイパス沿いに移動して江戸時代以来、手取扇状地の中心的な商業の町(奉行所の支配下にあったから村ではなかった)は様変わりをしてしまった。実家も、商店街の一角にあったが、シャッターは下り、一般住宅地になりつつある。
 商業者の目線からみれば、変わった、寂れた、ということになるのだろうが、そこに住む人たちにしてみれば、新しい視線で街づくりに励むことになる。社会的な環境が変わったところで、手取川の水(本当は七カ用水)で育った誇り、郷土愛は変わらないのである。過去に固執するだけでは前に進めないことになる。
 国道8号線と同様、変わったようで、変わらぬモノもある。バンドとしての「めんたんぴん」である。

おんな川は優しくなかった

 時ならぬ敵兵の出現ではないが、集中豪雨が金沢を襲った。医王山を中心に降った雨は合流し、流れを強めて土石流となり、一気に浅野川を駆け下った。
 翌日、朝9時からの番組「谷口悦子の暮らし上手に」出演したゲストは長靴姿だった。氾濫した浅野川沿いの住民であり、予定されていたこととはいえ、家の後片付けも後回しにしてスタジオに足を運んでくれたのだった。
 「ゴミを出して家に帰ろうとしたら、アっと言う間に濁流が押し寄せてきた。家を目の前にしながら、避難したガソリンスタンドから一歩も出られなかった」
 泥水の浸水にあった住民の方々には、同情をせざるを得ない。これまでの例からでも分かるように、浸水被害の後片付けには、相当の日数がかかるという。酷暑のさなか、疲れを出さないように、と祈るだけである。
 ここ数年来の、異常気象による局地的豪雨によるものだが、住宅地浸水の大きな原因として、堤防の数ヵ所に切込みがあり、低くなった地点から、濁流が市外にあふれ出したのだ、という。堤防の決壊ならまだしも、人災と言われても仕方のない仕儀である。
 金沢市は日ごろから、百万石の城下町であることを誇っている。城下町といえば、敵軍の攻撃から身を守るため、防御の堅い町づくりであるはずなのだが、それは謳い文句であって、実は太平楽を決め込んでいたのだろうか。

共同通信の鐘の声 「そして想い出」の響きあり

 もう10年ほど続いている映画番組に「ワーナー・マイカル映画通り」がある。先日の放送の中で、パーソナリティーの大西君が映画「クライマーズ・ハイ」を観た感想として、「地方新聞社の姿が分かった。これまで思っていたものとは違っていた」という趣旨のコメントをしていた。
 地方新聞の社長のワンマン振り、部署ごとの縄張り争い、特ダネを競う記者魂記者間の嫉妬と責任のなすり合いなど、一般の読者には知られざる世界であったのだろう。
 かつて一時、北関東新聞ではないが、地方新聞に籍を置き、日航ジャンボ機の墜落報道の現場にいた身には、旧知のことばかりだったが、映画そのものはテンポがよく面白かった。ただ、エンド・ロールの最後に、事故原因についてのコメントが映し出された。圧力隔壁の破損、機内の急減圧とするには疑問がある、ということだった。当時は、この原因に疑問を持たなかったが、急減圧の機内で遺書など書けるものだろうかと、この指摘だけが新鮮だった。
 映画の中で一番印象的だった場面は、ニュース速報を報せる共同通信の「ゴーン、ゴーン」というチャイムの音だった。緊急性、規模別によって音色は違うが、最大級の鐘の音で、日航ジャンボ機の墜落を告げる声が続いた。
 当時、紙面のレイアウトをする新聞整理という仕事をしていた。その日は夕刊の担当であったが、翌日の朝刊の手伝いをするため夕方まで、編集局フロアに残っていた。
 最初は情報だけを報せる普通のチャイムだった。「海上で、レーダーからジャンボ機の機影が消えました」というものだった。もう家に帰れない。待機していると、その鐘が鳴り出したのである。昭和60年8月12日。歴史的な瞬間に遭遇したのである。
 
 

フランシーヌの場合、私の場合は…

 9日(水)の番組「回って歌って80年」の中で、新谷のり子の「フランシーヌの場合」が流れた。歌詞の中にもあるように、1969年3月30日の日曜日、パリで焼身自殺した女学生を題材に作られた歌である。反戦活動家の学生で、ベトナム戦争などに抗議したものだ、と言われている。
 発売されたのが同年6月であるから、自殺の直後に作詞、作曲されたことになる。ただし、日本人の手になる作品である。
 歌のバックにフランス語のナレーションがかぶせられ、男性の歌声で、フランス語の1コーラスも加えられている。フランス語が耳に心地良かったのか、当時の時代気分があったのか、異色のテーマにしては大ヒットした楽曲だった。
 第2次世界大戦の後、旧体制に対する若者たちのムーブメントが世界を席巻していた感があった。もちろん、それぞれには、単純化できないいろいろな要素が絡み合っていたのだろうが、若者の反抗、反乱といった様相だった。
 『フランスの場合』  セーヌ川左岸のソルボンヌなど大学が集中する学生街カルチェ・ラタンで、学生たちが舗道の敷石をはがして機動隊に投げつけたりした。教育改革を求めたのが発端と言われている。ドイツ人留学生のダニエル・コーン=ベンディットが中心的な指導者として有名で、解放区という言葉も、カルチェ・ラタンから生まれました。68年5月にはゼネストにまで発展して、「パリの5月革命」とも言われた。当時若輩だった(すみません、今もそうです)私は、ダニエルが主人公になった同名(少し違うかも)の本を読んで昂揚的な気分になっていました。(今はそうではありません)

リクエストが7千曲に、ロイさんには勝てない

 オールディーズのリクエスト番組「ブロークン・タイムマシン」(日曜午後6時~同7時)が7月27日放送分で、リクエスト総曲数7,000曲目を迎えようとしている。番組開始が98年4月改編からなので、10年を超えたことになる。
 長寿の秘訣は、パーソナリティのロイ・キヨタさんにある。母語が英語であるから当然、英語の歌詞も理解できる。学生時代からバンド活動をし、音楽に対する愛情が深い。社会人になってからは商社マンとして世界中を飛び回って見識があり、ボランティア活動にも熱心である。
 05年のギャラクシー賞(放送批評懇談会)で、もう一つの番組「ストア! オールディーズ」でラジオ選奨を受賞、一部の委員からはパーソナリティ賞にも強く押されたほどだ。
 私など足元にも及ばない、酸いも甘いも知った大人の雰囲気が漂う。どこをとっても勝てっこない、と諦めている。
 この番組はまだ、ロイさんがスタッフになる前に、経歴をスタッフから教えられた私が立案した。ラジオは門外漢だったが、小社にお世話になったばかりで、2つ目の企画だった。
 今考えれば、どんなリクエスト曲が来るかも分からない。曲が揃えられるかも保証がない。怖いもの知らずだった分、想い出も詰まっているし、FM-N1での原点ともなっている。

「キンタの大冒険」いや「ケンタの大誤解」

 きのうの7月1日、金沢市内で、迷い犬として保護された柴犬の飼い主を探すために1日中、各番組の中で、リスナーに協力を呼びかけた。 
 FM-N1は地域貢献の役割を果すべく、地域のいろいろな団体の事務局を務めている。その一つに「わんわんピース基金」がある。災害地のペット救援、里親探し、マナーの呼びかけ、迷い犬の飼い主探しなどを実施している。
 翌日、出社をすると、飼い主が分かって、無事に引き取られていった、という朗報が待っていた。すぐに、協力していただいたリスナーの皆さんにお礼を言うため、再び各番組で結果を伝えた。そして何よりも嬉しかったのは、飼い主の隣家の人がラジオを聴いていて、もしやと思い、すぐに連絡してくれたことだった。
 さらに、驚くような情報がスタッフ(この場合は匿名扱い、さん付けも無し)から上がってきた。
 犬を保護した高校生と犬の名前が一緒だった、というのである。それも「キンタ」。これが本当だとすると、犬の「キンタ」が家を出てから、高橋川沿いに約2・7キロ離れた保護地点に到るまで、歌のタイトルにあるように「金太の大冒険」だ、と大騒ぎになった。歌詞そのものは1975年の、下ネタがかったコミックソングである。
 しかし、今時の高校生の名前が「キンタ」とは解せない話である。
 確認のため、家のほうに電話をした。

本当にレコードが見つかった

 今朝はちょっと寝坊した。6時を過ぎ、女房に起こされた。「好きな歌がかかっているよ」。慌ててベッドから飛び降りた。おぉ、この歌、この歌。20数年ぶりに聴く歌だ。この時ばかりは、よくぞ忘れずに居てくれた女房殿。よくぞ起こしてくれた女房殿。日ごろの対応とは大違いであった。
 流れていたのは田端義夫の「梅と兵隊」。番組は「回って歌って80年」である。日本のレコード生産が始まってから80年に当たるため、4月改編の新番組として、これまでのレコードをかけ、忘れてしまっていた1枚、失くしてしまった1枚を探してもらおう、という狙いである。
 前日までに400曲を紹介していた。が、これという曲は流れなかったのだが、今朝の2曲目、402曲目にして、本当に探していたレコードがかかったのであった。看板に偽りなし、この調子ならリスナーにとっても、何か1枚を見つけられるはずである。
 担当者は、谷川昌則さん(功労を称えて今回だけは、さん付け)。谷川さん、でかした。気が付くと、横で愛犬のラボが吼えている。すまないが、お前を散歩に連れて行っていなくて、良かった。
 なにせ「梅と兵隊」である。え? 「麦と兵隊」の間違いではないのかって?

1家庭分の二酸化炭素を減らしてみたが…

 夏至の日を中心に、排出される二酸化炭素を減らすためのライト・ダウン・キャンペーンが野々市町でも実施された。温暖化防止のために環境省が呼びかけたものだ。同町でも、役場をはじめ民間企業が参加した。もちろんFM-N1も、屋上に設置された看板や掲示板の消灯を行った。
 結果として、同町に報告されたものだけで、節約された二酸化炭素の量は、標準的4人家族の家庭が排出する量が節約されただけだった。
 この削減量が多かったのか少なかったのかは、それぞれ評価する立場で違うものがあると思われる。圧倒的な排出源は産業界であり、交通機関であるのは間違いのないところだろう。今回のキャンペーンは、一人ひとりの意識付け、という点に意義を見出すとすれば、有効な取り組み、と言えるだろう。7月7日には、洞爺湖サミットに合わせて再度、キャンペーンがあるという。
 ただ、昨今の温暖化対策問題は、排出権が取り沙汰され、限りなく新ビジネスの趣を呈してきた。産業界を巻き込むにはビジネス的な、商売上の損得を言った方が理解が早いのか、言わないとモラルは二の次になるというのか、少々寂しい気もする。
 ただ、ここへ来て、地球の温暖化を振り返ってみると、氷河時代に代表されるように、寒冷化と温暖化の繰り返しの中で、人類の文明が進歩してきた(あるいは変遷を辿ってきた)ことを、思い出さずにはいられない。

ジュリーはアイドル?

 16日朝6時半、犬の散歩から帰って新聞を読んでいるとラジオから、野々市町の広報番組「マイタウンののいち」が流れてきた。町の話題やインフォメーションを、同町主催のジャズ・イベント「ビッグ・アップル」にちなんで、ジャズとともに放送している。
 きょうも、担当スタッフの山口泰範君が頑張っているな、と思っていると、急に声の調子が変わった。「As Time Goes By」は映画「カサブランカ」で使われるまでは全く注目されていない曲だった、というのだ。そしてこの日は、ペギー・リーの歌声で聴かせてくれた。
 カサブランカの主演はハンフリー・ボガードだが、思い出すのは映画の筋書きではなく、ジュリーこと沢田研二である。昭和50年の「時の過ぎゆくままに」、同54年の「カサブランカ・ダンディ」で、ハンフリー・ボガードの愛称である「ボギー、ボギー」と絶唱する声が耳の奥に残っている。
 その沢田研二を、縁戚につながる中学2年の女の子が大好きなのである。グループ・サウンズ時代ならいざ知らず、歌手としての活動もしていないジュリーになぜ夢中になるのか? 今でもアイドルなのだろうか? 考え込んでしまった。

秋葉原とジャック・ニコルソン

 秋葉原の通り魔事件で、7人の通行人が死亡し、通夜、葬儀が執り行われた。このほか10人が重傷を負っている。月並みな言い方になるが、被害者や遺族、犯人の家族にも一生背負って行かなければならない重荷が加わった。それよりもなによりも、亡くなられた方々に深い哀悼の念を覚えずにはいられない。
 それは、通り魔事件の被害者として、何の原因も責任もなく、理不尽に突然、有意な人生を絶たれた無念さを思うばかりではない。これからの人生でしか得られない「最高の人生の見つけ方」を手にする時間を奪われたことに、哀れさを感じるからである。
 かつて、ある記者会見で、質問を受けていた男性が「カネ儲けは悪いことですか」と、記者団、ひいては視聴者に食って掛かったことがあった。記者諸氏から反論があったかどうかは知らないが、「それは悪いことだ」と、独り答えていたものだ。カネ儲けそのものを目的とする行為は、自明の理であろう。
 話はそれるようだが、人生における目的は、誰にとってもカネ儲けではないからだ。別の目的があるはずで、それを探し、自らに納得させることが人生の意義ではなかろうか。それを忘れ去ってしまえば、カネ儲けは悪だ、とは言えなくなり、勝ち組、負け組という真実とはかけ離れた言葉に振り回されるようになるのではなかろうか。
 最近上映された、ジャック・ニコルソン主演の映画「最高の人生の見つけ方」が、見事に描き出していた。
 

赤くなったり青くなったり

 少し前のブログ「天災と米と為政者」の中で、野々市町の国指定史跡の名前が分かったので、続きは後輩のUさんに、とお願いしていたが、口癖の「わしゃ今、忙しい」の連発(実態はよく分からない)で、再び続きを書くハメになった。
 とにかく、謎の多い寺跡である。FM-N1が末松廃寺の取材を始めてから2年以上が経った。そんな時、思いもよらない状況で、新発見の事実を知らされた。4月13日(日)に、C5計画実行委員会のイベントとして実施された「のっティdeいにしえの桜だより&デジカメ撮影会」の中だった。
 会場の史跡公園で、説明に立った町職員から「寺には普通、三つの名前がある。末松廃寺の名前の一つは朱仏寺です」と告げられた。脳天に強烈な一撃を受けて顔が、公園を取り巻くように咲き誇る満開の桜に負けるとも劣らぬ程、紅潮してきた。これは一大事だ、のっティ新聞の一面の記事にしよう。編集方針が固まった。(詳しくは近く、HPにアップされる予定の同新聞6月号を見てください)
 古代・加賀の豪族である道君が創建した寺の名前が分かれば次は、俄か考古学者の後輩Uさんが師匠と仰ぐ(これも勝手にUさんが思い込んでいるだけ。師匠の方はきっと迷惑しているに違いない)国立歴史民俗博物館名誉教授の吉岡康暢先生のお宅に伺った。桜イベントから10日後のことであった。
 座敷で、いつもの通りに行儀よく座っている二人。襖を開けて、入ってきた先生の「(二人に)謝罪会見をしなければならないかもしれない」のひと言で、脳天から血の気が引くように、二人の顔はみるみる青ざめてきた。

糸を引く、いや尾を引く

 あの"毒ギョウザ”事件以来、我が家の食卓の風景も変わってしまった。時を同じくするように、必ず食品の表示を確認して、国産の文字があるものを買うようにしている。手作りギョウザが並ぶようになったのも他の家庭と同じだろう。もちろん、愛犬用のドッグ・フードも「国内」を確認している。
 そんなある夜、居間に女房殿の大きな声が響き渡った。
 「この蒲鉾、切り口から糸が引いている」
 それを聞きつけた一家の主人は(私のことだが)「新商品じゃないのか?」と落ち着き払ったもの。しかし、普通の蒲鉾だと知るや、態度を豹変させ「すぐに、買ったスーパーに電話しろ」。
 賞味期限までまだ、2日ある。こちらの電話番号を告げ、折り返し掛かってくる電話を待つことにした。が、気を取り直して「包丁かまな板に何か付いていないのか?」、と尋ねる。答えは納豆と昆布締めの刺身と、糸の引くものが並んでいるが包丁は使っていない、という返事。しかし、電話に飛びついたのは、その直後だった。
 「すみません。先ほどの糸を引く蒲鉾ですが、オクラを切った時に包丁に付いた糸でした」
 ほうほうの体で謝った。
 歯が悪くなるなど老化現象の兆候が甚だしくなってきた我が家で、健康に気を使った食品が多くなっているが今夜は、ネバネバ攻めだったのか。
 それにしても、あのギョウザ事件は今でも、糸をひいているのか、いや、尾を引いているのを実感させられた。
 大騒ぎをしたが誤解で何よりだった。いやいや油断大敵。アルコールで五臓六腑を消毒しておこう。

天災と米と為政者

 実は、表題の天災と米、為政者のどれをとっても詳しくありません。いきなりで、申し訳ありませんがメディアに属す人間にありがちな、有能な人たちの聞きかじりをつなぎ合わせて、知ったような顔をして生きのびているだけなのです。それでもよければ少し、お付き合いください。
 天災というのは、中国の四川大地震です。四川省といえば、三国志の蜀の国というイメージしかありませんでした。漢民族ではなく、チベット族など少数民族が住む土地だと知りました。それが、後輩Uさんも勧めていた本「DNAでたどる日本人10万年の旅」で、日本人の一部の人たちと近い関係にあることが分かり、ニュースを見聞するたびに我が身につまされている。
 朝のニュースでは、現地の農民たちが土砂ダム決壊の恐れを抱えながら、麦の刈り取りから米作の田植えに移る時期で、軒並み倒壊した家屋の復旧をさておいて、農作業に追われていた。収穫ができなくても田植えができなくても向う1年間の生活に惑うのである。
 漢民族の伝統的な思考様式である中華思想でいうならば、天災が起きるのも、民が飢えるのも、天下を治める為政者に徳が欠けていたために神から下された罰、ということになる。そうはさせじ、との決意なのか、中国政府の首脳たちは、人民解放軍を動員して農作業の支援を展開しているらしい。
 もし、復旧や民生の安定が確保できなければ、災難が我が身に降りかかってくるからである。ここは、なんとしてでも徳を、人民に示さなければならないのである。
 それにしても、食料自給率の低い我が国にあって平気な顔をしているように見える政府の為政者たちはどうしたものであろうか。中華思想を持たないから、徳も神罰も関係ない、といえばそれまでだが。

歴史は繰り返す?

 白山市にある国指定史跡の「東大寺領横江荘荘所跡」で古代の郡庁跡が発掘された、という報道があり、連休中の5日、現地での説明会に出かけてみた。考古学の発掘現場に出かけるのは昔々、取材活動に足を突っ込んでいた頃のことであり、もう15年以上も前のことになる。それも、発掘中のことであり、今回のように現地説明会は初めてである。
 国史跡から東におよそ100メートル離れた工場用地で、出土したのは柱間3.3メートルの回廊跡で、東西、南北とも長さが54メートルと推測される遺構の一部であった。ただ、土器などの遺物が少なく、建物の年代、性格を特定するには現段階では、資料不足であるという。この遺構近くでは、仏器や瓦塔が出土しているため、寺院であるという可能性も否定できないらしいが、常陸国鹿島郡衙の郡庁遺跡と酷似していることから、白山市教育委員会では、郡庁跡とみている。
 もし、古代の石川郡庁であるとすれば、わが故郷・石川県の発展を解明する上で、衝撃的な発見になる可能性も否定できない。遺跡のある手取川扇状地の当時の支配的豪族は道君であり、近くを流れる安原川(郷用水)の上流には、道君が創建したとされる末松廃寺(国史跡)がある。
 たまたま1週間前に、考古学者の吉岡康暢さんから話を聴く機会があり、末松廃寺の創建者=道君説も再考が必要、という見解を聞かされた後であり、回廊跡発掘のニュースには偶然以上のものを感じざるを得なかったが、両遺跡の関連性についても早晩、検討が必要となるのだろう。 
 ただ、現場で聞かれた声は、この貴重な遺跡がすぐに埋め戻されて、工場の駐車場(工場本体は建設地を移動)にされるための懸念であった。県や国による周辺も含めた大規模な調査が求められるのであるが、石川県内ではこれまでも遺跡保存が十分ではなく、今回も同じ轍を踏むのではないかと危惧されている。まさに歴史は切り返す、にならない事を祈るしかない。

バレンタインより夫婦茶碗

 さる陶芸家に夫婦茶碗の制作を依頼した。ところが、やんわり指摘を受けた。今では夫婦茶碗と言わないようになっている、とか。半ば予期していたことだが、それでは、どう呼ぶのか?
 「ペア茶碗」である。大きさも同じであるという。
 私は別に男女差別論者ではないが(まぁ、この言い草こそが差別思想そのものと言われそうだが)、日本的な文化を日本語で話すことがどうして、差別になるのか全く理解できないのである。アメリカ的なものが正しいのだろうか? 生憎、「ペア茶碗」がアメリカ的な平等観であるのかどうか、アメリカ音痴な私には分からない。
 ただこれも、バレンタイン・デーと同じ構造ではないでしょうか。日本のチョコレート販売量を増やすため、日本の業者が喧伝したことが広まったのである。商売絡みである。2月14日が過ぎると早速、売り場はホワイト・デーの看板に架け替えである。
 喜ばしいことに、数年間の努力が実って、私のところには義理チョコさえもこなくなった。以前は「私は仏教徒で、キリスト教徒ではない」と言っていたが、最近は「糖尿病でチョコレートは食べられない」である。この効き目の方が絶大である。
 それでは、夫婦茶碗を許さなくしたのは誰だろうか。これも、明白であろう。「人権」を錦の御旗に掲げる人たちではないでしょうか。何が利益を得るのかは分からないが…

 

開けてびっくり冷蔵庫

 「男子厨房に入らず」は死語になってしまったのだろうか。定年を迎えるのを機に、料理を始める男性が増えている、という。
 かく言えば、想像されるように、私は料理なるものをしたことがない。中学校の家庭科の時間に、真似事をした記憶がかすかに残るだけである。別に男尊女卑を信条にしているわけではないのだが、これまで、機会を失した、というのが正確だと思っている。
 先日などは、数日間続いためまいの検査のため、病院嫌いとばかりとも言っておられず、頭のMRIを受けてきた。痺れが出ていないか検査をするため、医師に手を差し出すと、まずひと言。「力仕事をしたことがない手ですね」。はい、箸より重いものを持ったことがありません、と答えるだけだった。していないのは料理だけではないことがバレバレだった。
 従って、食事の時は出されたものを、おいしい、と褒めて食べる生活が続いているのである。生命線をしっかり握られている、と言った方が当たっているかもしれない。中国産の、殺虫剤まみれになったギョーザであっても、出されれば食べてしまいかねない状態である。
 土曜日の夕方であった。背中の方で、食事の準備をする音がしていた。バタンと冷蔵庫の扉を閉める音がして、「これこれ」と、ギョーザならぬカレー・ルー3個入りのパックが目の前に出てきた。

「ロイさんに言霊を教えられる」の巻

 前のブログに引き続き、またまたロイさんの話です。ただし、綴り手は変わっています。
 ロイさんとは、私がFM-N1に来てからの付き合いですので、まだ10年ほどにしかなりません。しかし、人生に対する向かい合い方、考え方、見識など教えられることが多く、我ながら、随分と成長したもんだ、と思っています。半面、成長してこの程度なら、前の会社では余程、ひどい人間だったのだなぁ、と恥ずかしくもあります。
 ロイさんとは、ロイ・キヨタさんのことです。他にも、いろいろと名前はあるのですが、ここでは、その経緯を省くことにします。金沢工業大学の職員であり、ポピュラー・ミュージック。コレクション(PMC)の主であり、N1でも「ブロークン・タイムマシン」「てくてく地球交差点」「こそあのオールディーズ」の3番組を担当、出演しています。前に担当していた番組「ストア・オールディーズ」では、05年のギャラクシー賞(放送批評懇談会主宰)を受賞しています。
 ロイさんの母語は英語であり、日本語は学んだ語学です。それなのに、あぁ~それなのに、生まれてこのかた、日本語一本に絞って58年間精進してきた(?)私の上をいくのです。本当に、立場がありません。
 1月31日のことです。「いい話をしてあげるから、こちらに来なさい」と呼ばれた私は、自分の席を慌てて立ち、ロイさんの前に正座(気持ちの上で)しました。前日、金沢市の高尾台中学で、1年生に講演した噺でした。
 

学校で習わなかった「縄文」物語

 学校嫌い暦は40年になる。勉強しなかったことを後悔した時期もあったが、昔に習っていなくて良かったということもある。縄文時代のことである。
 学校時代は、毛皮をまとって木の実の採集、丸木舟に乗って銛での魚捕り生活といった、どちらかと言えば原始的な時代、という認識しかなかった。それが、ここ1、2年の間に、耳学問をすることで、豊かな時代であった、という印象を強く持った。
 ところが一方で、小学校の社会科で、「縄文時代」は教えられていなかったことを知った。日本の歴史は弥生時代からとでも言いたいのかもしれない。学習指導要領が改定され、11年度から復活するようなのだが、私が習ってから40数年が経つうちに、研究も格段に進み、実像が鮮明になりつつあることから慶賀の至りである。
 それというのも、野々市町の縄文遺跡、国指定の御経塚遺跡のことである。町教育委員会は、出土品をデータ・ベース化し、約1万1500点を、3月の文化財保護審議会で、町文化財の指定を目指すという。先日の、町行政広報番組「マイタウンののいち」の中で、日本を代表する遺跡である実情が明かされたからである。
 5万人単独市制を目指す同町にあって、粟貴章町長がキーワードとして掲げる「のゝいち人」の源流がそこに存在している。
 郷土の文化、歴史を知るうえでの格好の教材である。手取川扇状地の一角に位置するだけにみえる同町が、白山の恵みと一体となって、いかに石川県にあって中心的な役割を果たしてきたことか。百万石の比ではないのである。

猫背の犬

 我が家に一匹の犬がいる。マルチーズで名前は「ラボ」、6歳と半ばである。毎朝、朝刊が配達される物音を聞くと、敵に向かっていくようにベッドから飛び降り、吼えるのである。夕刊の場合も同様である。
 それが、先週のことである。勢いよく飛び出したまではよかったが、女房殿が起きていくと急に、腰がふらついて後ろ足が定まっていなくなっていた。腰砕けのようであり、悪夢が甦った。
 実は、前にいたヨークシャテリアの「ラビ」が、満12歳を前に、腫瘍ができたため、獣医の勧めに従って手術をしたが、体力が落ちて死んでしまったことがある。最後は腰がふらついて、決められた場所へオシッコをしに行くのだが、10センチもない段が上がれずに座り込んでしまう姿が、今でも脳裏から離れずに、ダブってしまったのである。手術をしなければ、一緒に介抱できる日が一日でも多かったのではないかと、後悔が続いている。
 それで、急いで獣医の元へ走った。もちろん、前の獣医ではなく、FMN1で犬の番組「わんわんピース」を担当している松平博之さんに教えてもらっていた獣医である。会社に遅刻は覚悟で、泣きそうになりながら運転した。
 「最悪の場合は歩けなくなる」という診断で、一晩入院することになった。私は、結果が怖くて病院の中へは入れなかった。その晩は、酒もあまり喉を通らなかった。
 翌日、無事に退院できた。しかし、マルチーズの背中が丸くなって、猫のような姿になっていた。

霊峰白山と襟裳岬

 白山を世界遺産にしようという運動が始まっているらしい。信仰の山、修験道の山としての霊峰という捉え方であり、山麓の伝統文化・生活習俗を含めてのものらしい。石川だけでなく福井、岐阜の3県にまたがる運動らしい。
 これまでに白山に登ったのは、仕事の都合でたったの1回、それも、南竜ケ馬場までという中途半端なもので、その凄さがよく理解できないまま、ただただ横目に眺めていただけであった。
 しかし、小社の新年特番「C5計画 野々市なんでも百景を歩く」「C5計画 恵みの水と川の町野々市」を聴き、喉に刺さった小骨が取れて、「霊峰」の意味が理解できたような気がした。世界遺産はともかく、故郷の山としての畏敬の念が湧いてきたのである。
 白山信仰の広がりは、白山比咩神社を頂点に全国で2700社を超える白山神社があるという(浅香年木著、北陸の風土と歴史、山川出版社発行)。美濃馬場から東海に約700社、越前馬場を中心に約400社があり、加賀馬場川には約650社という。特に加賀馬場側には能登、越中、越後、佐渡、出羽と日本海沿いに枝葉を広げているのが特徴という。
 少なくとも、石川県側では、霊峰というのは山岳地だけをいうのではなく北前の海、漁業と結びついた暮らしを含めないと、手取川扇状地から白山を仰ぎ見た尊崇の念が生まれなかったのではなかろうか。
 その疑問に答えてくれたのが特番にゲスト出演した金沢工大日本学研究所長の平泉隆房教授(平泉白山神社宮司)のインタビューと開局特番「その名は吉田拓郎」の「襟裳岬」の解説であった。

淋しさ半ばと嬉しさ半分

 「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」。これは一休禅師の狂歌と言われているという。私も団塊の世代の一人とあって、ことし届いた年賀状の中には定年退職や「もうあと○年」というニュアンスのものが多かった。
 体はとっくにガタがきているのだが、悲しいかな、頭の中ではまだまだ元気の素が渦巻いている。それを見事に砕いてくれたのが年賀状の文字列だった。活字の説得力には弱い自分を見つけてしまった。どこか、現役を離れる淋しさが付きまとっている感じがする。
 中に、大学時代のサークルの先輩からのものがあった。私も先輩たちと一緒にサークルを立ち上げたから一期生ということになる。それから40周年を迎えるのを機会に再会しよう、という話が持ち上がっているらしい。おまけに、私が一番苦手としている幹事をやらせようという魂胆。金沢に住んでいるのは私ひとり。引き受けざるを得ないのか?
 一方で、嬉しい便りもあるのだが、その気分を脇のほうへ押しのけて、気が重くなってくる。それは、幹事が苦手というほかにも、別の理由もあるのだが…。
 

夕日町3丁目から坂下町へ

 夕日町3丁目を知っていますか? そう、東京の下町で、東京タワーの見える所。私も最近、住んでいる皆さんと顔見知りになりました。それでは、坂下町を知っていますか? 福島県会津にある町で、坂下(ばんげ)町と呼びます。歌手の春日八郎さんの出身地です。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」は昭和34年の東京・下町を舞台にした映画です。原作者の西岸良平さんの漫画は、社会人に成り立ての頃、読みました。劇画とは違う、線の細さの描き方が、疲れた神経を休ませてくれましたが当時は、今ひとつ、共感を覚えるまでにはいきませんでした。
 私は、あまり人には話したことがありませんが、これまで音楽を聴いて泣いたことはありませんが、映画を観て泣いたことはあります。そして、久しぶりに「3丁目の夕日」を観て、涙しました。打算を忘れた人間関係を描いているところが、そうさせたのだと思います。
 昭和34年といえば、まだ9歳の頃でした。でも、なぜ今、昭和ブームなのだろうか。それは、現代日本の直接的なようらん期、洋蘭? 要覧? いや揺籃期であったからだと思っている。郷愁と言うより、夢を見られた時代だからではないだろうか。夢は破れるからこそ夢なのである。実現してしまえば、夢は現実となり、現実には悩みと苦労がつきまとう。60歳近くになると、夢が実現しなかったことに後悔はなく、夢を見ることの楽しみ方を、知恵として手に入れているだけである。

絶滅危惧種? 夕焼け祭り

 「♪なんにもない なんにもない まったく なんにもない…」
 11月11日に開かれた夕焼け祭り2007のステージで、ムッシュかまやつが歌いだした。ファンである私の体は緊張で強張ってしまった。まさか、この歌を生で聴かれるとは思ってもいなかったからだ。「やつらの足音のバラード」という曲である。人類の誕生を歌ったもので、大好きな1曲である。
 歌詞の中にはプロントザウルス、イグアノドンといった恐竜の名前も出てくる。たまたま、10日ほど前に、福井県勝山市にある福井県恐竜博物館へ、見学に行って来たばかりであった。咽喉も張り裂けんばかりのムッシュの歌声は、博物館で聞いた恐竜の声と重なっていた。
 ただ、大きな体の恐竜たちは、メタボリック症候群を気にしてか、ダイエットのし過ぎで骨だけになっていたが、ムッシュはまだまだ元気? そうだった。
 ステージでの話題は、音楽仲間や友人、恩人の相次ぐ訃報に関するものが多く、追悼の歌、シンミリとさせる場面も多かった。
 ムッシュはもうすぐ古希、還暦を過ぎたギタリスト中川イサト、来週還暦の加川良、それに続くドラマーつのだ☆ひろ、主宰者のギタリスト飛田一男。ステージの上では平均年齢が日本一高い、と自任する君らはいったい、絶滅危惧種なのか?

賞味期限と赤勝て白勝て

 日本の食の安全は守られているのか? と思われるほどここ数年、食品業界の日付改ざんが大きく報じられている。私自身は、あまり賞味期限というものに関心がなく、食べて死ななければ、「まあいいか」といった程度である。
 最近では、賞味期限が2週間ほど切れていた納豆を食べたことがある。それはそれなりに味わい深いものだった。酒で消毒しながらだから無事だったのかもしれないが、老眼鏡の必要を感じた次第である。
 しかし、食の安全の問題は生産者側、企業側の倫理の問題であり、消費者に対する情報開示という点で、信用という財産を失い、企業の存廃に関わるから深刻な問題である。消費者にとっては、別の商品を買うだけのことである。
 話題の大きさから言えば東の横綱は北海道の「白い恋人」であり、西の横綱は伊勢の「赤福」だろうか。私自身は土産物はあまり好きでなく、「白」も「赤」も食べたことはない。傍観者的に言うなら、信用の回復を願って頑張ってほしい、というところだろうか。「赤勝て白勝て」である。

サユリストではない ミヤザキだ

 今、吉永小百合の映画で、観てみたいものがある。とは言っても、私はサユリストではありません。私にとっての吉永小百合といえば、橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」を歌った青春歌謡の歌手としてのイメージしかない。主演映画は、ついこの間、「北の零年」を観たのが唯一と言っても過言ではないほどだ。
 それが、今度クランクインするという映画「まぼろしの邪馬台国」が気にかかって、しょうがないのである。もちろん、サユリストに変貌した訳ではない。この映画は、長崎県の民間の古代史研究家である宮崎康平さん夫婦の物語である。宮崎さんは、邪馬台国は九州にあったと信じて、その所在地を求め続けたもので、上梓された映画と同名の本がオリジナルである。吉永さんは、CGを駆使した想像の邪馬台国の中で、卑弥呼役を演じるという。
 この、宮崎康平さんの物語を観たいのである。単純に私と同姓であるから、という思いつき以上の思い入れがあるからなのである。

庚午年籍は野々市にもあった?

 先日の野々市町行政広報番組「マイタウンののいち」の中で、日本最古の戸籍とされる「庚午年籍(こうごねんじゃく)」の話題が出た。話されたのは町住民課長の田中滋さんだった。この単語を耳にしたのは高校の日本史以来のことだろうか。懐かしい。
 「マイタウンののいち」は町職員が、住民に対して自らの口で直接、行政の仕組みや内容を分かりやすく説明するものである。この日は、国内の戸籍の歴史について触れた後、現在の戸籍業務の現状について話された。
 戸籍といえば、行政の中でも地味な部門と見られがちだが、国の基をなす重要な職務である。戸籍が整備されていなければ国の体をなさないのである。地方自治体にとっても同様である。
 ただ、私のような凡人には、まさに、ザ・ブラウンズが歌う「谷間に三つの鐘が鳴る」のように、人生最大の三つの節目である出生、婚姻、死亡の各届けを提出する時にお世話になるしか縁がない所である。とは言っても、私に残されている鐘は最後の響きだけだが…。
 それでは、日本最古の戸籍「庚午年籍」は野々市町にもあったのだろうか?

梅はかなしからずや…

 今年の暑さも、そろそろ終焉を迎えようとしているようだ。軟弱な身には、本当に堪えた。夜に、暑さのため寝られなかったのも初めてであった。
 夏、と言って思い出すのは桜の花である。それは春ではないか、また、へそ曲がりなことを、と思われるかもしれない。そう、私は天邪鬼なのである。「夏にあるもの」ではなく「夏にないもの」を思い出したのである。桜の花は多種多様であり、1年中咲いているのだが、咲かないのが夏だけだという。
 古代に「花」といえば桜ではなく、梅であったという。もちろん、桜の花が無かったわけではなく、古事記にもコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)、コノハナノチルヒメ(木花知流比売)の神が出てくるように、桜の花があったことは分かる。
 それが、何時のころからか、花といえば桜花になってしまった。日本人の美的感覚に変化が起きたからであろうか。江戸時代に新品種のソメイヨシノが生まれてからは、花といえばソメイヨシノが代表格になってしまった。
 あぁ~、梅はかなしからずや、である。
 その梅が原因で、今朝、我が家でひと騒動が持ち上がった。といっても風流なものではなく、梅干である。

故郷の酒は近くにありて知らぬもの

 旧盆の季節とあって、日本列島は恒例の民族大移動の真っ最中である。かく言う私は、都会が好きになれず、生まれてこのかた、故郷暮らしである。とは言っても、生まれた松任から金沢へは移った。それくらいだから、室生犀星のいうところの「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を理解せぬ朴念仁でもある。
  しかし、最近になって、故郷の豊かさを、痛く再認識させられた。大袈裟に言えば、天地がひっくり返った、とまでは行かなくても、脳天を金槌で殴られたほどの衝撃はあった。
 各地方の特色を表すものの一つに地酒があると思っている。天地がひっくり返る、と大騒ぎをしながら、なんだ、また酒の話かと思われるかも知れないが、これが一大事なのである。確かに歳が行く度に、好みが変わるものだが、これが終着駅、と言えると思う。それも本醸造に留まらず、あまりいい顔をしてこなかった純米酒でも、自らの不明を恥じ入るばかりだった。
 白山菊酒恐るべし。故郷は近くにありても知らぬもの、「高砂」と「菊姫」であった。

野球が熱い! ことしはいい選手をみつけたゾ

 ことしは久しぶりに、野球に力が入っている。それは、ひいきチームではなく一人の選手に妙に引かれるからで、松井秀喜選手がメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースに移籍して以来のことである。
 私自身はプロ野球のソフトバンク・ホークスのファンで、高校野球に全く興味がなく、ほとんど甲子園の試合結果、地方大会の母校の動向にも無関心である。ところが、その甲子園組から、こんな大物(になるであろう)ルーキーが現れるとは思ってもいなかった。
 もちろん、早大のハンカチ王子こと斉藤投手ではなく、東北楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手(通称・マー君)である。
 野球の技術論には全く無知の私が、なぜ、将来のプロ野球界を背負って立つ投手になると思っているのか(ならなくても何の責任をとるつもりもないが)というと、彼の身の振る舞いとインタビューに対する発言なのである。人を惹きつける魔力のようなものを感じさせられ、改めて言葉の持つ力を肝に銘じた。

水原弘と「黄昏のビギン」

 28日月曜日放送の番組「桜の小径でララバイ」で、やっと水原弘の「黄昏のビギン」を聴くことができた。スタッフから事前に、オン・エアされるとは聞いていなかったので、身震いするほどの感動が走った。
 今では「黄昏のビギン」といえば、「ちあきなおみ」という答えが返ってくるほどに有名だ。90年代に、コーヒーのコマーシャル・ソングとしてテレビ放映されたからだ。私はちあきなおみが嫌いではない、といううか、むしろ大好きな歌手の一人である。美空ひばりと並び称されてもいい歌姫である、と思っている。
 それでも、何とかオリジナルである水原弘のモノを聴きたいとの思いが募り始めてから、3年が過ぎていた。番組スタッフが忘れずに探し続け、ようやく見つけた逸品であった。水原弘といえば「黒い花びら」と判子で押したように決まっている。それもそのはず、第1回レコード大賞受賞曲であるからだ。それでも私には、黄昏のビギンの方が歴史的名曲と確信している。その期待を裏切らなかった歌声に、震えを覚えたのであった。

母乳と教育者と政治家の関係

 政府の教育再生会議で、子育て提言として母乳や子守唄の必要性を訴えたが、最終的には政治家さんの思惑で、政府案としては実施されなくなったようである。「母乳を飲ませたくても、できない人に配慮した」結果で一応、もっともらしい理由だが、またしても、実践現場から離れた観念論がまかり通った感がなくもない。
 実は、提言者の一人の方から話を聞く機会があったが、心配されていた通りの理由で、心配されていた結果に終わったことは、本当に残念に思う。大局的な教育再生より、枝葉末節にばかり目がいっているようだ。
 そんな時、15日放送の番組「生活いち番シャトル便」の中で、教育実践現場に身を置くパーソナリティから、いい話を聴くことができた。

アマポーラの想い

 3日放送の「HISOKA君のローカル・レター」の中で、ナナ・ムスクリーの「アマポーラ」が流れていた。FM-N1でも推奨の歌手、曲、と言ってもよい名曲である。もちろん、ナナの「アメージング・グレース」も胸に染み入る曲である。
 アマポーラとは「ひなげし」を歌ったものだが、ひなげしは「ポピー」とも「虞美人草」とも呼ばれる。アマポーラの歌詞の裏読みでは、恋人に託して、麻薬のことを歌っているという説もあるらしい。ケシの花が阿片を連想させるからだろう。
 私にとって想い出させるものと言えば、アグネス・チャンの「ひなげしの花」と、映画の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」だろう。
 

二つの「夢は夜ひらく」

 4月からスタートした番組の一つに「レコード誕生会」がある。レコードが製造された月に、そのレコードをかけていく、というものだ。もちろん、CDの曲は流さないから、自ずと懐かしい、私にとっては好きな歌が流れることになる。
 中には、本当に久しぶりに聴くものや、60歳を前にして初めて聴く歌もあるから、外せない時間帯になっている。
 4月19日に、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」が放送された。久しぶりに藤圭子の声に聴きいっていたが、その4日後、同級生の前田さんから、偶然にも三上寛の「夢は夜ひらく」が、メールに添付されて届いた。「久しぶりに体が震えた」と記されていた。この曲は、日本の音楽界を変えていった歌の一つだ、と思っているが、もう体が震えることはなかった。

能登半島地震と遠く離れたコミュニティ放送局

 能登半島地震の発生から、3週間ほどが過ぎようとしている。当日、FMN1は休日だったが、スタッフ8人が自主的に集まり、通常番組に割り込んで、8回にわたって緊急災害放送を行った。しかし、被災地から約100キロ離れた地域を放送エリアにしているラジオ局としては以後、ボランティアの活動や義援金の募集呼びかけなどを散発的にしているだけになっている。なんとも歯がゆい対応ではある。
 そんな中、「わんわんピース」の番組パーソナリティである松平博之さんが、被災現地で救助活動をしてきた様子を、きょう放送の番組と、先週の番組の中で語っていた。

生きるための音楽は楽しい

 井上堯之さんのライブに行ってきました。いつ聴いても、心に染み入るギターの音色でした。ミュージシャンではない私には、これくらいの賛辞を贈るしかないのが哀しい気分である。
 ライブの中で心に残った言葉があった。昔は、世の中に反発しながら音楽活動をしていたが、ある時、人間は死ぬ身であるから、死ぬまでは一生懸命生きる事ができるようになった。感謝の心をもって音楽活動ができるようになった、という趣旨の話をしていました。その気持ちが、こちらの心に伝わってくるのだろう。
 そして、予想外の拾い物もあった。

8日に井上堯之ライブ

 井上堯之と聞いても、ピンとくる人は多くないかもしれない。ザ・スパイダースと言い直せば、少しは増えるかもしれない。堺正章、ムッシュ・かまやつ、井上順がいたバンドと言っても分からなければ、私の力ではこれ以上説明するのも無理である。ともかく、このバンドのギタリストであり、日本で有数の奏者であることに間違いはない。
 ザ・スパイダースは、GSブームが起きる前のグループで、今のテレビ業界などではグループ・サウンドに入れられてしまっているが、私は、国内初のロック・バンドだったと思っている。当時、ビートルズ一辺倒だった私にとって、次のお気に入りがスパイダースだった。
 その井上さんが66歳になって初めて、ギター1本を抱えて、独り旅の全国ライブ・ツアーを、66カ所で行っている。その一つが8日に、金沢で行われるという。N1のスタジオに来ていただいてから、もう1年半が過ぎていた。

A THOUSAND WINDS

 新井満氏の訳詩による”A THOUSAND WINDS”の訳を見て正直、日本人の感性とは違うものだと感じています。肌にぴったりとこないのです。死後に「風」になるということが分かりずらく、原詩の意味を十分に活かしきれていないと思うのです。
 しかし、その昔、亡くなった漣健児さんが、アメリカのオールディーズを訳して、日本人から熱烈な支持を受けました。原詩とは随分と意味の違うものがあるようです。「千の風になって」も同類ということであれば、そう目くじらをたてることもないようです。新しい歌であると思えばいいのですから。