歴史に彩られた町の川それぞれ
和50年に発行された『富奥郷土史』に、こう書かれています。
「白山を源とする手取川はやがて七ケ用水となって、水流の枯れることなく水田を灌漑(かんがい)し、その地下水は命をつなぐ。川の流れはやはり汗と血の歴史を秘めて今日に至っている」。
野々市町に流れる七ケ用水は、富樫用水と郷用水の二つです。
富樫用水は、高橋川、木呂川、十人川の三つの川から成り、いずれも伏見川、そして、犀川と合流して日本海に注ぎます。
高橋川は、昔、荒川と呼ばれていました。工大通りの高橋川に架かる橋が「荒川橋」という名前なのは、昔の川の名に由来しています。
古代にあった七カ用水の原型
一方、郷用水もいくつかの流れがあり、そのうちの一つは末松廃寺の東側から蓮花寺、郷、徳用の各町を流れて、二日市地内で安原川に合流します。安原川はその後、犀川に合流して海へと流れ出ます。
七ケ用水は、名前の通り、手取川の東側を流れる七本の用水です。ちなみに、富樫と郷以外の名前は、中村、山島、大慶寺(だいぎょうじ)、中島、新砂川の五用水です。
七ケ用水の原型はすでに古代にあったと思われます。長い年月を経て流れを変え、時には暴れ川となって手取川流域に住む人々の前に立ちはだかり、また、水の利用をめぐって争いが絶えませんでした。
「水を安定供給して、人々が争うのをやめさせよう」。この志を抱いて、取水口を一つにまとめたのが枝権兵衛です。権兵衛は、硬い岩盤を掘り抜いてトンネルを造り、そこに五つの取水口を設けました。明治2年に竣工するまで4年の歳月と、私財を投げ打っての大変な難工事でした。
その後、明治36年に取水口を一カ所にまとめた大水門などの工事が行われ、平成9年には資料室を備えた白山管理センターが新設されました。
七ケ用水のおかげで、野々市町のある石川平野は、全国屈指の米どころになりました。もう一つ、注目したいのは、川の交通手段としての活用です。
例えば、中世期に守護職を務めた富樫家の館跡が現在の住吉町地内で発掘されました。安政時代の絵図に、この館の東側に流れる九艘川(くそうがわ)が描かれています。川の名は「舟を九艘並べて係留した」ことから由来すると言われています。
日本海に通じる交易路
この川の旧流路を発掘したところ、大量の中国陶磁器や土器などが出土しました。九艘川は、富樫館から日本海に通じる交易の水路として、重要な役割を担っていたと思われます。九艘川は、今は、北陸鉄道石川総線に沿って流れる小川のような流れですが、下流の伏見川、犀川を経て、日本海に通じています。昔は、幅がもっと大きく、舟が行きかっていたのでしょう。
一方、末松廃寺が安原川(郷用水)の脇に創建されたのは、「安原川から日本海に通じ、大陸と交流する利便さを考えたに違いない」と指摘するのは、考古学者の吉岡康暢さんです。
石川県で最初に稲作が始まった所は、犀川の河口付近と言われています。その後、古代人は徐々に犀川や高橋川などを遡って移動しました。海に近い低湿地帯よりも、標高40~50メートルにある乾田の方が稲作経営に適しているとの発見があったようです。
野々市町が古代の早い時期から開けたのも、手取川とその支流、用水、そして、扇状地の有利な自然条件などによる作物への恵みだけではなく、水陸両面における交通の大きな利便性があったからに他なりません。