「のゝ市人」鉄製農具で果敢に開拓
石川県での稲作は、弥生時代に犀川河口付近から始まった」と、多くの歴史学者が指摘しています。古代人はその後、犀川や支流の高橋川、安原川などを遡って、野々市周辺に住み着きました。手取川扇状地を開拓するためです。標高の低い河口付近の湿田よりも標高40~50メートルの乾田の方が効率的な稲作経営ができ、収穫が多いとの発見があったようです。
大型量販店などを誘致する野々市南部土地区画整理事業に先駆けて、平成元(1989)年から8年間、上林・新庄の広大な地域で遺跡調査が行われました。その結果、遺跡が推定されるほぼ全域を調査できる、全国でも珍しい例となりました。
「上林・新庄遺跡」と名づけられたこの地域から、7世紀末から急速に人口が増えたことを表す集落跡のほか、たくさんの遺物・遺構を発掘しました。石川平野をまかなえるほどの大量の鉄が作られていたことを裏付ける鉄滓(てっさい)も出土しました。
鉄製の農機具を手にした古代人たちは、ここ野々市町周辺に住み着き、手取川扇状地の開拓に果敢に乗り出しました。その時期が、末松廃寺の創建された660年ごろ直後であったことが興味をそそられます。
こうした古代人の懸命の灌漑が実って、野々市町をはじめとした手取川扇状地は、全国有数の米どころになりました。古くから野々市町が栄えたのは、霊峰白山と手取川の恵みのもと、古代人が米づくりに励んだこと、そして、古代北陸道(ほくろくどう)と白山大道(はくさんおおみち)が重なり、高橋川や安原川などの水路もあり、陸と海の交通の要衝の地であったことも見逃せません。