粟貴章町長が新年あいさつで提言
石川県野々市町の北端にある御経塚遺跡は、縄文時代からすでにここ野々市の地に多くの人が住み、石川中央圏の中心地であったことを示す貴重な縄文時代の遺跡です。その後、古代、中世を通して野々市町周辺には一貫して多くの人が集い、栄えました。中世の記録にもある「のゝ市人」と、現代の野々市人の誇りをテーマに特集します。
野々市町の粟貴章町長は、1月4日に行われた新年互礼会で、中世の野々市町を訪れた歌人の歌を紹介し、単独5万人市制への意欲を改めて語りました。
「風をくる 一村雨に 虹きえて のゝ市人は たちもをやます」
この歌は、今からおよそ五百年前の文明18(1486)年に、野々市町を訪れた聖護院道興(しょうごいんどうこう)(※右注参照)が詠み、歌碑が布市神社(本町2丁目)の境内に建っています。
聖護院は、京都にある修験道の本山です。道興は、白山や石動山などの修験道の結束を強化するため、北国や東国を巡歴しました。歌は「風を集めてひとしきり降るにわか雨に虹が消えて、野々市の人々は私の出発も引き止める」という意味です。めったに会えない偉い修行僧を前に、「どうぞもう少しゆっくり休んでいってください」といった、野々市人たちの情の深さがうかがえます。
道興はこの後、立ち寄った津幡界隈を「住む人が少ない」と記しています。この記録からも中世の野々市町周辺がすでに賑わっていたことを知ることができます。
粟町長は、この道興の歌に関心を持ち、1月7日に出演したFM-N1の町広報番組「マイタウンののいち」で、中世に詠まれた野々市人(のゝ市人)に思いを馳せ、次のように語りました。
「中世の時代すでに野々市、あるいは野々市人の名が広く知れ渡り、野々市が栄えていたことを、この歌から知ることができます。自分たちの住む町が歴史的にも誇り高い町であることを実感し、町民の皆さんが共有していただけるようにメッセージを送り続け、世間からさすがは野々市町、野々市人と言われるくらいの町を作っていきたいと思います」。
野々市町の最新の推計人口は49,210人(平成20年1月1日現在、石川県統計情報室調べ)。市の条件である5万人まで800人を切り、ゴールが見えてきました。
しかし、5万人という数字を満たすだけではダメです。要は中身。暮らしやすくて、安全安心の町、そして、わが町の歴史と文化に誇りを持った「のゝ市人の町、郷土、さらには、國づくり」に向けて、新しい町長のもと力強い一歩を踏み出しました。
※聖護院道興
聖護院は天台系修験本山派の拠点。道興は、文明19(1486)年6月に京都をたち、北陸から越後に入り、関東、駿河などを回りました。その模様を紀行詩文集「廻国雑記」にまとめました(野々市町史「資料編1」より)
15世紀末に聖護院道興が詠んだこの歌を、「漢字に置き換えると『風を繰る一村雨に虹消えて野々市人は立ちも小休ます』になるでしょう」と解釈するのは、古代・中世文学に詳しい新谷秀夫さん(高岡市万葉歴史館主任研究員)です。
従って、「風を集めてひとしきり降るにわか雨に虹が消えて、野々市の人は私の出立も取りやめさせる」といった意味になるでしょうと、新谷さんは話しています。