野々市町の食育と地産地消

面積が13.56km2と、野々市町は石川県で最も面積が小さな町です。昔は田畑だった土地に住宅や商業ビルが立ち並び、目覚しい変貌を遂げています。一方で、農業でその名を全国に知られていることを知っていますか? この小さな町から「米づくり日本一」の天皇杯に輝いた人が二人いるのです。
農林水産大臣祭天皇杯は、農産、園芸、畜産、養蚕・地域特産、林産、水産、村づくりの7部門の中から全国でそれぞれ一人、あるいは一団体が選ばれます。その部門の日本一という栄誉を授かる、年に一度の顕彰制度です。

同じ農業部門で野々市町から、第25回(昭和61年度)の佛田孝治さん、5年後の第30回(平成3年度)には、林浩陽さんが選ばれました。今年で46回を数える歴史の中で、一つの町から同じ部門で二人が選ばれたことはありません。町が誇る二人の「のゝ市人」の農業人に話を聞きました。なお、佛田さんは昨年秋の叙勲で旭日双光章を受章し、二重の喜びとなりました。

「かぶら寿し」に使う青カブを収穫する佛田昭一さん(上林1丁目で)

「かぶら寿し」に使う青カブを収穫する佛田昭一さん(上林1丁目で)

平成17年7月に食育基本法が施行されました。これに基づいて、食育推進基本計画が定められ、全国の学校や地域、家庭で食に対する正確な知識や判断力を養う国民運動が繰り広げられています。
野々市町では、法律の施行を受けて、町内の10の保育園で順次、「朝食内容の充実」をテーマに食育事業を行っています。今年の1月下旬から2月下旬までの1カ月間は、御経塚5丁目のあすなろ保育園で食育事業が5回連続して開かれました。また、2月11日には、町保健センターで「食を通しての家族のきずな」をテーマに、パネル・ディスカッションや実習が行われました。

学校給食

学校給食

また一方、食品の安全性などの観点から、地域で生産した食糧を地域で消費する地産地消の取り組みも1980代から全国で盛んになっています。
地産地消では、野々市町の5つの小学校と2つの中学校の給食で、町内で収穫されたコシヒカリが使われています。このほか、毎年夏には小学校の学校給食で「サマーカレー」と題して、町内産の野菜を使ったカレーライスが、また、毎年1月の学校給食週間に合わせて、野々市町や石川県産の食材を使った食事が作られます。今年は、野々市産のカブラ、小松菜、ヤーコン(アンデス原産の根菜)を使った「野々市メニュー」のおかずが出ました。

1月の学校給食週間では、町内の小学校で「野々市メニュー」が出ます。いつもの野々市産のおいしいコシヒカリのほか、町の農家が丹精した野菜がおかずです(野々市町立富陽小学校で)

1月の学校給食週間では、町内の小学校で「野々市メニュー」が出ます。いつもの野々市産のおいしいコシヒカリのほか、町の農家が丹精した野菜がおかずです(野々市町立富陽小学校で)

子どもたちの元気な「いただきまーす」の声が弾み、おいしそうに食べる表情を見ていると、見ている方も元気になります。健康な暮らしは、やはりバランスの取れた、規則正しい食生活が基本です。

佛田孝治さん 米は日本人の基本食糧。若者たちが米づくりに関心を持てるようにまず家庭から食育を

第25回(昭和61年度)農林水産大臣祭天皇杯を受賞
平成19年度秋の叙勲で旭日双光章を受章
農業 佛田孝治さん(野々市町上林二丁目)

10歳で農業、馬になめられる

昭和21年、小学校5年10歳のときに、父と祖父を相次いで亡くし、やむを得ず家業の農業を継いで今日に至りました。
当時は、米一俵(約60kg)の値段が公務員の給料の半分くらいの値打ちがありました。終戦直後の食糧難の時代であり、農家では一粒でも多くの米を作ろうと意欲に燃えていました。本音を言えば、私は農業が好きではなく、将来は学校に進んで電気を勉強して、電気技師になりたかったのです。しかし、申し上げた家庭の事情から新制中学を卒業してすぐに家業を継がざるを得ず、やるからには立派な農業人になろうと覚悟を決めました。
とは言っても、まだ子どもみたいなものですから、田んぼを耕す馬になめられるわけです。当時は馬鋤(うますき)と言って、馬に鋤を引かせて田んぼを耕していました。田んぼを往復するまでの途中で馬が寝そべって言うことを聞いてくれずに弱りました。
その後、20歳の頃に耕運機が登場し、昭和30年代になると、しろかきが出来るロータリー式の耕運機を3軒共同で使うようになり、機械化がどんどん進みました。

佛田孝治(ぶった・こうじ)さん略歴

昭和52(1977)年から稲作の請負を始める。同61(1986)年に農林水産祭天皇杯を石川県で2人目の受賞。同63(1988)年、稲作や農産加工・販売を手がける「ぶった農産」を設立。平成19(2007)年、長年の農業への貢献が認められ、旭日双光章を受章。昭和10年山形県酒田市生まれ、72歳。

環境問題から若者が農業に関心

後継者不足や米の価格が暴落するなど、今、農業が厳しい環境に直面しています。しかし、米は日本人の基本食糧です。誰かが今後も続けて米づくりをしていかなければなりませんし、特に、若者が農業をやるべきです。まだまだ数は少ないのですが、最近の環境問題への関心の高まりもあって、石川県外からもたくさんの若者が私のところにやって来ます。
緑への憧れが強い面があるのですが、農業は自然との闘いでもあります。雪や雨、水に悩まされることが宿命の職業ですから、困難に前向きに打ち勝っていく粘り強い人間でなければ務まりません。志も大事ですが、まず技術をしっかりと身につけることが大事です。
農業が満足感と喜びを味わえる仕事であることを、一人でも多くの若者に分かって欲しいとこれからもお世話を続けたいと思っています。

冬の間も佛田さんは田んぼ仕事を欠かしません

冬の間も佛田さんは田んぼ仕事を欠かしません(末松2丁目地内で)

石川は全国に誇るべき農業県

野々市でも今、食育や地産地消の取り組みをしています。食べ物があり余って、豊か過ぎるきらいがある現代です。私たち農家が苦労して作ったものを、ありがたいと思える食育をまず家庭でしていただき、親御さんが中心になって学校でも行って欲しいと思います。
米はもちろん、日本の農業製品や食品は、世界の中でも特に厳重に安全管理が行われています。
農業の生産量が少なく、生産面積も小さい石川県ですが、全国に誇るべき農業県でもあることを知っていただきたい。例えば、全国農林水産祭における天皇杯の受賞者が5人もいます。これは他の県にはない多さで、特に、わが野々市町には、林浩陽さんと私の2人が天皇杯をいただきました。これは全国の市や町では稀なことです。林さんとは良きライバルとしてこれからも力を合わせて野々市町の農業振興に尽くしたいと思っています。
野々市町は宅地化が進み、人口も順調に増えていますが、農業は農地なくして成り立ちません。農地とのバランスを取りながら、町民憲章にうたわれているように「恵まれた自然環境と歴史・文化・産業の豊かな町」になっていけば最高です。

(平成19年11月28日FM-N1「マイタウンののいち」で放送したインタビューを再録しました)

林 浩陽さん キャッチフレーズは「23世紀お笑い系百姓」200年先を考えながら食の大切さを伝えたい。

第30回(平成3年度)農林水産大臣祭天皇杯を受賞
農業 林 浩陽さん(野々市町藤平)

全く予想していなかった天皇杯

「当時は若かっただけに反骨精神もあり、賞を獲ろうなどと一度も思ったことはありませんでした。望んでいなかっただけに、天皇賞の受賞が決まったときの反響やその後の慌しさに戸惑うばかりでした」。
こう16年前の出来事を振り返る林浩陽さんです。林さんは金沢美大を卒業して自動車メーカーにデザイナーとして勤めました。しかし、入社して半年後に農業を営んでいた父親が予想外の規模拡大を行ったため、仕方なく帰郷。
昭和63(1988)年、有限会社林農産を設立して、大規模稲作に励む一方で、モチやカキモチなどの加工品を販売してきました。

食育の講師に招かれることが多い林浩陽さん。

食育の講師に招かれることが多い林浩陽さん。手製のモチの被り物を着けて、もみ殻や野菜、肉を教材に使った話は子どもたちにも分かりやすく、好評です(野々市町立あすなろ保育園で)

林浩陽(はやし・こうよう)さんの略歴

昭和58(1983)年、金沢美大を卒業後、本田技研に就職し念願だったデザイナーとなるも、半年後に実家に呼び戻され、家業の農業を継ぐ。当時はまだ珍しかったパソコンをいち早く導入して大規模稲作に励み、その成果が認められて平成3年度農林水産大臣祭天皇杯を受賞する。有限会社林農産代表取締役社長。昭和35年野々市町生まれ、47歳。

いち早くパソコンを使い経営を

20年前、会社をおこしてすぐにパソコンを導入した農業経営に取り組みました。値段は130万円でした。パソコンがまだ高額商品だった頃で、林さんは車を買おうか、パソコンにしようか迷ったと言います。
パソコンによる大規模経営の経験を、ある農業コンクールで発表して農業水産大臣賞を受賞。その年の天皇杯にノミネートされ、そして、受賞と、望んで始めた農業ではありませんでしたが、Uターン人生は順調に進みました。
しかし、好事魔多し、とよく言われます。林さんも受賞直後の平成5年には家族が病気になったり、スタッフがけがをしたり、自身もバイク事故であばら骨を折って入院するという不運に見舞われました。
入院が人生や農業について考え直すきっかけになりました。そして、「23世紀お笑い系百姓を目指す」、「林さんちの農業は明るく楽しい」といったキャッチフレーズを次々に考え、ホームページなどで発表しています。
「自然と共生しているアメリカやオーストラリアの先住民は7世代先の子孫のことを考えているそうです。私も200年先の農業はもちろん、自然環境のことを考えて行動しようと思いました。テーマが重いので楽しく笑ってやれるように努力しています」。
こうした愉快で口が達者な林さんは、石川県内外からよく食育の講師に招かれます。

私を誘ってくれた佛田さんに感謝

最後に、林さんに野々市町の農業、そして、同じく天皇杯を受賞した佛田孝治さんについて聞いてみました。
「野々市町は金沢市と白山市に囲まれ、面積が狭く、農業には向かない町かも知れませんが、大きな町との境界にある土地だからこそ新しい挑戦ができると思います。ほら、時代の境目にルネサンスという芸術復興が生まれたでしょ。野々市町という境界の町で、佛田さんや私が農業復興をしていると言ったら大げさでしょうか」。
「実は、佛田孝治さんの長男・利弘さんとは小中学校の同級生です。
私が会社を辞めてこちらに帰って来たとき、親しい友人たちは県外に就職して話し相手もいず、家に閉じこもりきりの“寝たきり青年”でした。そんな私を誘い出して農業を一緒に頑張ろうと声かけしてくれたのが利弘さんでした。同じ天皇杯受賞者ということで、佛田さんと私はよくライバルのように周りから見られていますけれども、私が今日あるのは同級生である利弘さんのお陰です。本当に感謝しています」。

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