660年ごろに創建 塔は高さ23m
戦前戦後を通じて、朱仏寺を発掘調査した結果から、長らく、大寺が建てられた年代は、7世紀末から8世紀初めの白鳳時代と思われてきました。しかし、発掘された須恵器などの土器を年代特定したところ、創建年代がさらにひと世代さかのぼり、7世紀の第3四半紀、つまり、660年ごろの飛鳥時代に建てられたことが分かりました。
飛鳥時代に建てられる
660年ごろの飛鳥時代は、3面の別表でまとめたように国内では、有力豪族の蘇我入鹿を排除した大化の改新があり、国外では友好国の百済が新羅に滅ぼされ、その後、日本が新羅・唐の連合軍に大敗する(白村江の戦い)など、国内外に大きな事件が相次ぎ、まさに激動と緊迫の時代でした。
大化の改新(646年)の前年に、孝徳天皇は寺院を建てることを国司や郡司に奨励しました。これを受けて、各地の豪族は競って寺院を建てるようになりました。朱仏寺が特筆されるのは、当時の中央だった奈良の都の寺々とほぼ同じ時期に、中央の寺院に優るとも劣らない大きな寺がここ末松の地に建てられたことです。
当時の寺院には講堂や南大門なども設けられましたが、朱仏寺で発掘されたのは塔と金堂の跡だけでした。現在、史跡公園の塔跡の中央に、大きな石の塔心礎が置かれています。この心礎の真ん中に、直径58センチの円い穴がきれいにくり貫かれています。この穴に中心柱を入れて塔が建てられました。
法起寺の三重塔のよう?
朱仏寺は塔の基壇が大きいことから、「高さは60メートル近い七重塔」と思われてきました。しかし、「心礎の直径の40倍が塔の高さ」という最近の研究成果から、大寺の塔は約23メートルということが判明しました。
ちなみに、朱仏寺は、塔を東に金堂を西に配した「法起寺式」の寺院です。奇しくも、奈良にある法起寺の塔が高さ23メートルの三重塔(国宝)ですから、法起寺の塔のような姿だったのでしょうか。
では、朱仏寺のような立派な大寺を、だれが何のために建てたのでしょうか。建てた人物として一番有力なのは、古代豪族の道君(みちのきみ)です。当時、野々市町周辺は、越の国の加賀郡でした。
道君が日本書紀に初めて登場するのは、欽明31(570)年。その後、道君の名は、日本書紀や続日本紀にたびたび登場します。その中で、特に注目されるのは、天智天皇に嫁いで万葉歌人の志貴皇子をもうけた道君伊羅都売(みちのきみのいらつめ)と、大宝律令を編纂し、新羅大使などを務めた道君首名(みちのきみのおびとな)です。
他の豪族との連携も
伊羅都売というのは娘のことです。越道君伊羅都売は「越の国の道君のお嬢さん」という意味であって固有名詞ではありません。名前は記録には残っていませんが、天智天皇に一族の女性が嫁ぎ、天皇との間に男の子をもうけ、後にその子ども、つまりは孫が光仁天皇として即位するわけですから、中央と太く結びついた有力豪族でした。(下記の表参照)
さらに、道君首名も、新羅大使のあとは筑後守、肥後守(現在の福岡県、熊本県の知事)になった高級官僚でした。こうした史実を考えると、道君が手取川扇状地を開拓するシンボルとして朱仏寺を建てた、と考えるのが妥当とされてきました。
元号(西暦) | 出来事 |
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欽明31(570)年 | 4月、越の国に高麗の使者が漂着。 道君(郡司)が天皇と偽って供応し、貢物を取ったと江渟臣●代(えぬのおみもしろ、●は示に君)から報告があり、欽明天皇は膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)を遣し、道君から貢物を取り返す〔日本書紀〕。 |
推古4(596)年 | 聖徳太子(厩戸王)が摂政として十七条憲法を制定。 |
皇極元(642)年 | 9月、百済大寺を「近江と越の国から人夫を集めて建立せよ」と詔勅〔日本書紀〕。 |
大化元(646)年 | 前年の中大兄皇子らによる蘇我入鹿殺害(乙巳の変)を経て、改新の詔(大化の改新)。 |
天智2(663)年 | 2年前に滅んだ百済の復興をはかる日本軍が唐と新羅の連合軍と戦い、大敗を喫する(白村江の戦い) |
天智7(668)年 | 2月、中大兄皇子が即位(天智天皇)。 天智天皇は越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)との間に、志貴(施基)皇子をもうける〔日本書紀〕。 ※志貴皇子は万葉歌人として名高い |
天武元(672)年 | 前年に天智天皇が崩御。 その子・大友皇子と弟の大海人皇子との間で後継をめぐって争う。 勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(壬申の乱) |
文武4(700)年 | 6月、道君首名(みちのきみのおびとな)らに律令を選定させる〔続日本紀〕。 |
大宝元(701)年 | 6月、道君首名、僧尼令を大安寺で説明。 8月、大宝律令が完成〔続日本紀〕。 |
和銅5(712)年 | 9月、道君首名が新羅大使に。 翌年8月、新羅から戻り、筑後守(のちに肥後守も兼任)になる〔続日本紀〕。 |
養老2(718年) | 4月、道君首名が死去。 「首名は筑後、肥後に堤と池を構築し、灌漑を広めた。首名の死後、土地の人々はこれを称え、神として祀った」〔続日本紀〕。 |
宝亀元(770)年 | 10月、志貴皇子の第7皇子・白壁王が光仁天皇として即位〔続日本紀〕。 ※天武天皇以来、天武系の天皇が続いたが、およそ百年ぶりに天智系の天皇となる。光仁天皇の父は志貴皇子、祖母は越道君伊羅都売、越の国から出た女性の孫が天皇として即位した。 |
しかし、「道君創建説」に疑問もあります。朱仏寺から発掘された瓦を焼いた窯跡が、能美市(旧辰口町)の湯屋にあります。当時、手取川の西側には、道君とは別の有力豪族がいました。それが財部(たからべ)氏なのか、今も判然としませんが、その有力豪族は能美古墳群に葬られている一族と思われます。
手取川東岸の加賀郡を本拠地としていた道君が、勢力範囲外の西岸で瓦を焼くとは考えにくく、この能美の有力首長が手取川を越えて寺を建てた、あるいは、道君と連携して建てた可能性もあります。
瓦は遠く離れた窯で
大寺の塔を支えた心礎は、いわゆる戸室石、犀川上流にある医王山連峰の戸室山の石です。塔心礎は、末松の人々が古くから唐戸石、あるいは神様の石と呼び、明治時代には、この心礎を村人が総出で大兄八幡神社に運びました。約20キロ離れた戸室山から、石を運ぶ作業だけでも大変な労力が必要でした。
朱仏寺の軒丸瓦は、独特の文様です。単弁六葉蓮華文(たんべんろくようれんげもん)という全国でも珍しい文様をしています。同じような軒丸瓦が加賀市の忌波(ゆんなみ)廃寺跡から見つかっていますが、末松の朱仏寺との詳しい関係は分かっていません。
加賀郡の「古代港湾都市」
朱仏寺はまだまだ謎が多く、その解明には時間を要します。一方で、この野々市や金沢を含む加賀郡に、海と川の水運を活用した「古代港湾都市」が存在し、最新の研究によってその全貌が全国でも貴重な例として明らかになってきました。加賀の古代人は、日本海を通じて朝鮮半島や大陸と交流を活発に行い、交通や物資の運搬には河北潟や河川を利用していたのです。
陸上交通が中心の現在からは想像しにくいのですが、古代の野々市町周辺は、水上交通を使ってヒトやモノの移動が盛んだったのです。実際、朱仏寺は郷用水(安原川)のすぐそばに建っています。この安原川は犀川と合流して日本海に通じ、海までの距離は約10キロ。船を使うと徒歩よりもはるかに短い時間で海に出ることができます。
陸と海の要衡の地、ここ野々市に朱仏寺が建てられた意義が今改めて理解できます。