末松の人たちが発掘と保存に尽力
先日、旧辰口町の湯屋古窯跡を探して歩きました。町の人の何人かに尋ねたのですが、まるでキツネにつままれたような表情でした。かろうじて、湯屋地内で畑仕事をしていたお年寄りが知っていて、窯跡はようやく分かりましたが、碑などは全く建っていません。
その点、末松の古代寺院・朱仏寺は恵まれています。町の人たちの情熱が発掘と保存の力になったのですから。中でも、評価されているのは、末松の故・高村誠孝さんです。高村さんは、昭和36(1961)年3月、寺の周辺を見回っているときに、和同開珎の銀銭を発見しました。高村さんは、末松の地に古代の大寺があったに違いないと信じ、その発掘と保存を呼びかけ、「寺の守り神」と尊敬されていました。
銀銭発見が国動かす
和同開珎には銀銭と銅銭があり、銀銭は現在でも全国で50枚ほどしか発掘されていない、非常に貴重な貨幣です。ちなみに、日本最古のお触書「加賀郡膀示札」が発見された津幡町の加茂遺跡からも銀銭が発見されています。古代、この地に「鴨寺」がありました。建立の際、祭祀に銀銭が使われたと思われ、加賀郡に存在した「古代港湾都市」を考慮すると、同じく銀銭が見つかった末松廃寺との関連性が大いに注目されます。
「銀銭の発見は偶然ではなく、必然だったと思っています。それほど毎日、父は熱心に廃寺跡を見回っていました。発見した日の1週間前には、考古学研究会の金山顕光さんが同じ場所を見回っていたのに発見できず、大変悔しがっていたと、父から聞いています。『歴史にもしはない』と言われますが、もし父が銀銭を発見していなかったら、現在の史跡公園はなかったと思います」。
高村誠孝さんの長男・宏さんがこう話すように、誠孝さんの銀銭の発見が石川県、さらには、国をも動かし、昭和41年から42年にかけての発掘調査につながったのでした。誠孝さんは、歴史を守った「のゝ市人」だったと言えます。
当時の中島町長が依頼し銘菓誕生
「野々市を代表する銘菓を作ってくれないか」。町長からこう頼まれたのが、本町3丁目で「花茶屋菓子舗」を営む魚住慎一さんです。魚住さんが試行錯誤を繰り返して作ったのが銘菓「和同開珎」でした。上品な甘さの餡(あん)の中にモチが入った最中で、銀銭を発見した高村誠孝さんも気に入って、時折、買い求めに店に顔を出しました。
50年近く前に銀銭が発見され、しばらくの間は一種の和同開珎ブームになりました。「ブームが去った今は、野々市町の名産品キウイフルーツを使ったキウイ大福ほどに売れていません」と残念がる魚住さんです。しかし、野々市町の出身で東京などに移り住んだ人から定期的に注文があるなど、町内外に根強いファンがいます。