末松廃寺の謎に光差す
野々市町は、面積が13.56平方キロと、石川県で最も小さな町です。その小さな町に二つの国指定史跡があることは、町自慢の一つと言えます。縄文の御経塚遺跡、そして、古代の末松廃寺です。いずれの史跡もここ野々市町周辺に早くから人が住み着き、文化の中心として栄えたことを示す貴重な歴史遺産になっています。今号では、末松廃寺について、5W1H(いつ・どこで・だれが・何を・なぜ・どのように)の要点を押えながら、最近わかった考古学的な新しい知見を加えて、今もなお謎の多い寺の全体像に迫ろうと思います。
松廃寺とは、文字通り、末松地区にその昔存在した寺、という仮の名前です。大寺の存在は江戸時代から知られたものの、その固有の名称は長い間分からないままでした。しかし、つい最近、名前の有力な手がかりが出てきました。
昭和42年、発掘された土器の裏に記された文字が「朱仏寺」であることが判明したのです。
墨書土器の文字を解読
「金堂の近くから発掘された須恵器の裏に書かれた文字を、古代文字解読の権威に見てもらったところ、朱仏寺に間違いないということです。古代の寺院には正式な名称のほかに、通称や愛称などがありました。末松廃寺の名前の一つが朱仏寺だったという可能性は高いと思います」。
こう話すのは、野々市町教育委員会の文化財担当専門員・横山貴広さんです。
寺の門や柱が鮮やかな朱色だったのでしょうか。彩り豊かな大寺の姿に想像が膨らみます。
そして、もう一つ、末松の古い地名から考えられる寺の名は「法福寺」です。百年前の古い地図には、末松廃寺跡の南側に法福寺という地名が載っています。「今では消えてなくなった町の旧名である大字・小字(おおあざ・こあざ)は1200年前の時代までさかのぼることができる」と指摘する考古学者もいます。また、戦前、石川県図書協会がまとめた「加賀志徴」にも、「いにしえに法福寺という寺があったという言い伝えが末松にある」と書かれています。墨書土器に記された朱仏寺とともに、末松廃寺のもう一つの名前が法福寺であったことは十分に考えられます。