古代史エッセイ ~徒然キーボード~

「石川」より愛を込めて

末松廃寺、横江荘荘家跡、
石川郡庁跡を結んで

 13年目になる愛車の具合が悪くなり、3カ所を修理した。しかし、自転車に蹴り上げられて歪んだままのナンバー・プレートは直さなかった。陸運へ行けば、新しい番号に替えなければならないからである。旧松任町の出身だが現住所は金沢市である。当然ながら石川ナンバーが金沢ナンバーになってしまう。「石川」に愛着と誇りがあるからで、決してお金が無かったわけではない。
  「石川」の由来は、暴れ川で知られた手取川の扇状地で、石の河原の様相をなしていたからだろう。縄文、弥生、古墳時代を通じて、先人が開発してきた成果が今、目の当たりにする石川平野なのである。
  野々市町には、その足跡を伝える国指定の御経塚遺跡と末松廃寺遺跡がある。粟貴章町長は、先の町議会6月定例会で、末松廃寺について「新しい考古学の知見から言えば、国家的規模の開発だった可能性がある」と、答弁した。
  もちろん、古代には現在のような行政区画があったわけではなく、関連遺跡は行政区画をまたいで広がっている。御経塚の関連で言えば、金沢市側に巨大な木柱根が出土したチカモリ遺跡がある。末松廃寺では白山市側に国指定の東大寺領横江荘遺跡荘家跡がある。これらは、石川の先祖たちが、生活空間とした扇状地との関わり、開発行為の足跡を証明するものである。
  何よりも今、重視しなければならないのは、粟町長の答弁が如実に示すように、全国的規模で進展する考古学の学問的業績の成果であろう。

古代の北陸像の解明は間近?

 のっティ新聞6月号で述べられていたように、末松廃寺の創建年代が、白鳳時代から遡って古墳時代の660年ごろと解明されたことである。661年は天智天皇が即位した年であり、当地の有力豪族であった道君の娘であった「越道君の伊羅都売」が同天皇に嫁し、668年には万葉歌人で知られた志貴皇子が生まれていた記録がある。
  末松廃寺が扇状地開発の拠点であったとすれば、天智朝と道君を中心とした在地豪族との依存・従属の関係を窺わせるものではないだろうか。
  謎を解くもう一つの鍵は、つい最近発掘された古代の「石川郡庁」跡である。郡庁跡は東大寺領横江荘遺跡荘家跡から東側に約100メートル離れた白山市地内にある。荘家跡と郡庁が同一地で出土したのは日本では最初の事例というから画期的である。
  郡庁跡と合わせ、その隣接地から、年代は新しいが複数の宗教施設も見つかっている。郡庁に宗教施設が伴うことも全国の例と合致している。
  そして、東大寺に荘園を寄進した人物がまた、興味を引く。桓武天皇の皇妃であった酒人内親王である。弘仁9年(818年)娘の朝原内親王の死去に際して寄進したのだが、桓武天皇とは志貴皇子の孫に当たる。道君の伊羅都売からすれば曾孫に当たる。
  手取扇状地開発のコンパスは、明らかに大和の天智王朝を指しているように思える。
  また、横江荘の近くには古代・北陸道(ほくろくどう)が走り、この大道に沿って野々市町地内では大型建物が発掘中である。と思えば、北陸道沿いの白山市内からも別の大型建物が発掘されているという。

 水運に目を転じれば、末松廃寺と荘家跡を結んで流れる安原川(上流は郷用水)は犀川河口で日本海に注ぎ、河北潟と結ばれている。河北潟に面した津幡町の加茂遺跡と合わせてみると、古代港湾都市の一角を構成するものかもしれない。
  もちろん、これらは学究的な成果に基づくものではない。推測の域を出ないものであることは承知の上である。しかし、日本の古代史を眺めてみると、北陸の歴史が論じられることは少ないように感じる。北陸には何も無かったのではなく、学問的解明が遅れていたからなのだろう。
  これら歴史の宝箱の蓋が、一挙に開けられようとしているのではなかろうか。
  事実が明らかになるまで、石川ナンバーの愛車を乗り続けたいものである。(静円)

写真:白山市横江町の国指定史跡「東大寺領横江荘遺跡」付近(写真は北陸中日新聞社提供)

白山市横江町の国指定史跡「東大寺領横江荘遺跡」付近で、9世紀前半の石川郡庁の正殿跡と思われる柱列跡が発掘されました。荘園と郡庁跡が一緒に見つかったのは全国で初めてで、古代の地方開発史を見直す重要な発見です(写真は北陸中日新聞社提供)

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