古代史エッセイ ~徒然キーボード~「末松廃寺の創建前夜」

安倍臣に連なる大和ライン

道君が台頭した力の源

今年の年頭に、金沢子供の本研究会代表の勝尾外美子さんから一篇の詩を教わった。川崎洋さんの「いま始まる新しいいま」である。
 「心臓から送り出された新鮮な血液は/十数秒で全身をめぐる/わたしはさっきのわたしではない」から始まり、三連目に「日々新しくなる世界/古代史の一部がまた塗り替えられる/過去でさえ新しくなる」と綴られている。
 そして今、野々市町でも、古代史が塗り替えられようとしている。昭和四十一、四十二年に実施された文化庁の末松廃寺調査の報告書が発行されようとしているのである。
 全国で研究が進む考古学の最新の知見を取り入れ、歴史の芳醇な香りを放つのに四十年以上の歳月を要した、といえる。
 末松廃寺というのは、耕作不適応地だった手取扇状地を開墾するに当たり、開墾の主導者が持つ高い技術力、優越性を見せ付けるために創建されたシンボル的な建築物であったと思われる。大寺といえども、現在のような、人の魂を鎮魂する宗教的側面は濃くない施設だった。
 塔に代表される大寺建立の技術を有していたのは、当時の日本では近畿地方の勢力(大和王権)だけであり、その関与を強く示唆する。つまり、地方豪族の私有地ではなく、王権の屯倉(みやけ)の開発だった可能性が生まれてくる。
 報告書の内容については、新年度早々に予定される発行を待てばよいが、漏れ聞くところによると、古代加賀郡の有力豪族であった「道君創建説」が再考されているらしい。

写真/末松廃寺の塔心礎

末松廃寺の塔心礎。戸室石と思われてきたが実は、手取川の安山岩だった。柱穴の直径から塔の高さは23メートル前後と考えられている

 しかし、再考といっても、道君の関与が全く否定されるわけではなく、むしろ、大和王権の主導のもと、財部造(たからのみやつこ)などと協力し、地方豪族の中心的な役割を果したのではないか。この功績により、道君の伊羅都売(いらつめ=娘の意)が天智天皇の後宮に入っているのであり、天智即位の年(六六八年)の記録には、伊羅都売の産んだ志貴皇子の名が留められている。
 それでは古代において、道君とはどのような豪族であったのだろうか。文献資料が少ないこともあって謎に包まれた豪族だ、というのが通説のようである。ここでは、末松廃寺創建から約百年遡って推理をたくましくしてみたい。
 道君が初めて歴史に登場するのは日本書紀によると、欽明三十一年(五七〇年)のことである。
 紀によると、越人江淳臣裙代(こしのひと・えぬのおみ・もしろ)が上京し「高麗(こま)の使者が暴風と高波で漂流し、たまたま海岸にたどりつきました。郡司(こおりのつかさ)が隠しています」と天皇に奏上した。
 この郡司こそ道君である。

 京から、膳臣傾子(かしわでのおみ・かたぶこ)が高麗の使者を迎えに来て、道君が天皇と称して、使者から貢物を取り上げたことが発覚した、と記述されている。しかし、罰を受けたとは明確に書かれていないのである。
 また、この当時は「天皇」という呼称も使われていない。中央集権制が確立していた訳でもなく、道君と天皇家の間には主従関係もなかった、と見るべきなのだろう。ただ、大和地方と越の国との間には通商のための交流はあったはずである。
 新撰姓氏録によると、膳臣も道君も、天皇家の側近的な大豪族であった安倍臣と同族であるとされ、先祖は大彦命(おおびこのみこと)とされている。安倍|膳|道と連なる私的ラインが末松廃寺創建の中核となり、江沼臣や能登臣など周囲の有力豪族を尻目に百年後、第一級の地方豪族の地位を手にしたのではなかろうか。
 欽明朝では、蘇我氏と安倍氏が友好な関係を保ちながら、天皇を補佐していた。が、激動している朝鮮半島情勢をにらみながら、中央集権化の意向が芽生えていた時期とされる。
 従って、「天皇詐称」「貢物のネコババ」と陰口を叩かれる事件は、半島情勢に過敏となっていた大和王権が、安倍臣を通じた私的ラインによって情報源を確保した、ということではなかろうか。
 道君にとって、切迫した半島情勢の認識はなかったのではないだろうか。(静円)

写真/大寺の中心建物である金堂跡

大寺の中心建物である金堂跡。昨春には、能楽や桜の写真コンテストの会場ともなり、野々市町の歴史の深みを感じさせた

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